聖書箇所 創世記14:10

 

14:10 シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。

 

「霊的に盲目な指導者にリードされるなら」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

使徒の働きの中でパウロが、「あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。』と書いてあります。」と言われていますように、私たちクリスチャンは基本的には、牧師や神父やキリスト教会をリードする指導者のことを悪く言ったり、批判したり、非難したりすべきではありません。でも、聖書のみことばがそのことを語っている場合でなおかつ問題がある、というときにはみことばに基づいて誤りや間違いについて指摘しなければいけない、というのも一面の真理です。今回の箇所は、それらの立場の方々にとっては少し耳の痛いメッセージになるかもしれませんが、そのあたりをご理解の上、お読みいただけたらと思います。

 

私自身もそうですし、人間的な視点から考えると、牧師、教師、伝道師、神父と名が付けば、天の御国への案内人だと思うのが普通だと思います。しかし本日の箇所を通して、必ずしもそうではない、ということが語られています。上記みことばは、一見読むと、多くの瀝青の穴にソドムの王とゴモラの王が落ち込んだと、いう風に理解できます。「なんと、ドジな王たちなのだろう?自分はそんなヘマはしないさ」なんてかつての私は思ったものです。もちろんそのまま文字通りに書かれていることが実際に起きたのも事実だと思います。しかし度々話をしていますように、聖書のみことばは「おもてにも裏にも文字が書いてある」と言われていますように、表面だけでなく、裏の意味合い、いわば「御国の奥義」とか「たとえの意味合い」というものについても書かれています。そして、その裏の意味合いにこそ、神さまが本来意図されていることが隠されていたりするのです。ですので今回の箇所も、「裏の意味合い」についても見ながら、共に学びをしていきたいと思います。

 

先ほども話しましたように、ここではソドムの王とゴモラの王が「穴」に落ちた、ということについて言われています。聖書の他の箇所にも「穴」ということばが結構出てきます。そして「穴」ということばは、必ずしも良い意味合いだけに使われていません。反対に悪い意味合いで用いられている場合も多々あります。「よみの穴」なんていうことばが出てくるように、「穴」と「よみ(黄泉)」(永遠の忌みとか、火の池と呼ばれる所)の関係は非常に密接していることが理解できます。

 

また、ここで「王」ということばが出てきます。「王」と聞くと今の時代、「大統領」とか「総理大臣」とかをイメージするかもしれません。たしかにそういう意味合いもあるかもしれませんが、聖書は基本的にはクリスチャンが読むものですし、聖書に登場する大半の王は神に油注がれた「クリスチャン」ばかりです。そのように理解していくときに、「王」とは、キリスト教会のリーダー、つまり牧師や神父や教師や指導者のこととかを言われていると思います。ですから「ソドムの王とゴモラの王が穴に落ち込んだ」とは、牧師や神父や教師や指導者の立場でありながらも、穴に落ちる、つまり黄泉(永遠の刑罰)に入る人がいる、ということを言われているのです。

 

では、具体的にどんなタイプの人がそうなのか?ということについてみことばから見てみたいと思います。

 

参照 マタイの福音書15:14

15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

 

これはイエスさまがご自分の弟子たちに言われたことばです。「彼ら」とは、パリサイ人や律法学者のことです。そしてパリサイ人や律法学者は、今の時代の牧師や神父や教師に相当する人たちです。それらの人々のことを主は「盲人を手引きする盲人」だと言われたのです。このところはKJV訳では「彼らは盲人のリーダー」とあります。それこそ、聖書のみことばの専門家と言われる立場の彼らが、なんと!「盲人のリーダー」だと言われてしまったのです。このことは今で言えば、牧師や神父や教師の立場の人たちに対して言われているようなものなのです。「心外だ!なんてことを言うんだ!」なんて言われそうですが、「盲人のリーダー」は当時のパリサイ人や律法学者たちだけでなく、今の時代、終末の時にも存在する可能性がある、と思います。「何を根拠に??」と思われるかもしれません。では、少し質問させていただきます。

 

ローマ・カトリックのローマ法皇は「地獄は無い」と言っているそうですが、聖書には「地獄」についてハッキリ書いていませんでしょうか?また、「マザー・テレサや聖母マリヤに祈りましょう」という教えがカトリックにはあるそうですが、聖書では「イエス・キリストの名で祈る」ことをお勧めしていませんでしょうか?プロテスタントで提唱している「艱難前携挙説」ですが、聖書には「かつてもなく、今後もないようなひどい苦難の時がある」と書かれていますが、それでもクリスチャンは艱難時代を通らないのでしょうか?あるいは「まず、自分を愛しなさい」なんていう教えがあるそうですが、聖書には「神を愛する」ことと、「隣人を愛する」ことが言われていませんでしょうか?はたまた「一度クリスチャンなったらさばかれないで皆天国。さばかれるのは、神さまを知らないノンクリスチャン」ということも言われているそうですが、聖書では背信のクリスチャンのさばきについてあちこちに書かれているのですが、いかがでしょうか?さらに、トロントブレッシングの集会でベニー・ヒンが「デーモン、デーモン」とサタンを呼び寄せているにもかかわらず、それが「聖霊」の働きだなんて言っていたり、そういう器を積極的に教会に招いていることも、おかしいのでは?と思うのですが、いかがでしょうか?

 

少し辛らつな言い方に聞こえるかもしれませんが、今挙げたようなことを言ったり、したりしている牧師や神父や教師は、聖書的な視点から言わせていただくなら、「霊的に盲目なリーダー」という風に神さまからは見なされてしまうのではないでしょうか?そして聖書で言われている別の方向を示し、そこに向かうなら、「天の御国」ではないところ、いわば「穴」とか「黄泉の穴」に落ち込んでしまうのではないでしょうか?それこそ、「ふたりとも穴に落ち込むのです」とイエスさまがおっしゃったように、盲目なリーダーも、そのリーダーに案内された人、つまり信徒もろともに、「穴」に入ってしまうのです。ですからどのような指導者からどんなメッセージや霊を受けるか?指導されるか?は、私たちが思っている以上にかなり大事だということが分かります。はじめに話しましたように、牧師とか神父とか教師とか伝道師と名が付いているからと言って、すべて安心だとは言えないのです。聖書では、「盲人のリーダー」と呼ばれる人が実在する、ということについてハッキリと書かれているからです。もちろん行かれている教会の指導の任に当たる立場の方が、聖書のことばからきちんとメッセージを語り、聖霊を下されているのでしたら何の問題もありませんが、しかしそうではないのでしたら、吟味&一考が必要かと思われます。

 

今回は「穴」(黄泉の穴)に入ってしまうリーダーが存在すること、そしてそういうリーダーに着いていってしまうときに、共に「穴」に落ち込んでしまう可能性があることについて話をさせていただきましたが、ご理解いただけましたでしょうか?もし、お心当たりがありましたら、すぐに悔い改めて(方向転換)いきたいと思います。

 

ちなみに黙示録に、「その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。」ということが書かれています。このことはまさに終末に時代に起きることと思われます。そしてここにも「穴」ということばが出てきますが、「この穴の煙によって暗くなった」とありますように、良い意味合いでは使われていないことが分かります。「太陽も空も、~暗くなった」とありますが、「太陽」はクリスチャンを指すたとえで、しかも大きな器、つまりキリスト教会をリードする立場の人たちのことを言われています。そういう人たちが「この穴の煙によって暗くなった」と言われているのです。「暗くなる」とは、「光」(真理)の反対、つまり、「闇」を意味しますので、大きな器が真理とかけ離れていく、ということを言われているのでは?と思います。分かりやすく言うなら、大半の牧師や教師や神父が、真理と別方向の道を歩み、なおかつ示していく、ということを暗示していると思います。もっと言うなら、「罪」に入っていくということを言われているのでは?と思います。ですから繰り返しになりますが、霊的に盲目なリーダーには気を付けていきたいと思います。また、この文章を読まれている方が、指導の任の立場に置かれているのでしたら、いつも真理の光に照らされて、正しく教え、聖霊の働きを全うできるように祈り求めていきたいと思います。そうでないとき・・・ご自身も信徒の方々も入るべき「天の御国」に入れなくなる可能性がありますので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。こういうポイントに関してもぜひ、見ておいていただけたらと思います。

 

私自身は「教師」とか「牧師」とか「伝道師」とか、そういった肩書きを持っている者ではありませんが、しかしこんな風にわずかながらも聖書のみことばを扱う働きに携わっていますので、今回のみことばやメッセージは決して他人事ではなく、自分にも大いに関係があると思っています。また、エレミヤ牧師のメッセージやおすすめを通して、「みことば」は、「剣」だとも言われていて、一歩誤ると相手のことを「刺し殺して」しまう可能性がありますので、細心の注意を払いながら、祈りつつ宣べ伝えていくことができるように心がけています。

 

かつては「艱難前携挙説」を信じていましたし、クリスチャンと名が付けば皆が皆天国へ行けると思っていました。なのでこのように公ではないにしろ、時々伝道する機会がある時には、「キリストを信じれば大丈夫。必ず天国へ行ける」なんていう風に伝えていました。もし今もその調子で語っていたら、100%「穴」に落ち込んでいたと思います。それどころか、他の人も道連れにしていた可能性もあります。しかしある時を契機に、神さまの憐れみによって、少しずつ霊的に覚醒させていただき、真理について徐々に霊的に目を開かせていただくようになり、分かる範囲ではありますが、福音を伝えられるようになって、とても感謝しています。もちろん時として捉え違いや勘違いや誤りもあるかもしれませんが、しかし神さまがのちにそのことをも示してくださって、是正しながらも何とか人々にもみことばを宣べ伝えることができていることを感謝しています。これからも神さまが言われていることを正しくとらえて、ほんのわずかでもお伝えできたら、と思っています。今回も大事なポイントについて語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。