聖書箇所 創世記4:112

 

 

 

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。

 

4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 

4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。

 

4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。

 

4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 

4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

 

4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

 

4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。

 

4:9 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

 

4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。

 

4:11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。

 

4:12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

 

 

 

メッセージの前に

 

大分前にエレミヤ牧師から聖書には所々終末や艱難時代のことが記されていますということを耳にしたことがあります。そして私自身もそのことに注意を払って聖書を読んでいくようになって、少しずつではありますがそんな風にを感じるようになっていきました。本日の箇所も、まさに終末に起こる艱難時代の一面についても語っているように思います。そのようなことをも踏まえて共に学んでいきましょう。

 

 

 

「正しい人を死に至らせる人の末路」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

上記箇所にて、いきなり「弟殺し」が起きます。兄カインが弟アベルを殺した記述は有名なので、多くのクリスチャンがご存知かと思います。しかも人類最初の「殺人」です。一見読むと「アベルは正しいかったのに、何とお気の毒に・・・」と思われるでしょう。ちなみに他の箇所でも、兄が弟を殺そうと企む箇所があります。兄エサウが弟ヤコブを殺そうとしたことも、そうです。そんな風に言うと、弟を持つお兄さんは気を悪くするかもしれません。かつての私もそんな風に思っていました。「弟がいる兄は天の御国に不利な立場なのでは?」と。でも、よく言っていることですが、聖書には多くのたとえが使われています。「兄」は「御使い」のことを指します、しかも「御使い」と言っても、「悪い御使い」のたとえです。また、弟は「人間」のたとえです。つまり「兄と弟」の関係は、サタン対クリスチャンのことを言っているのです。そして兄であるカインが弟アベルを殺したように、「兄」(サタン)は人間(クリスチャン)よりも、力も能力も上です。しかしそれは、「この世」のみです。後の世は今と違います。ヘブル人への手紙で、「後の世」を受け継ぐのは御使いではなく、人間だということが言われているように、後の世は立場が逆転します。もちろん良い御使いもいるのですべての御使いが「永遠の刑罰」に入るわけではありませんが、サタンは決して「天の御国」に入ることはありません。「火の池」行きが確定しているのです。ゆえに永遠の命を受け継ぐ候補者であるクリスチャンに妬みを燃やしています。それこそアベルが正しく捧げ物をして神を喜ばせたように、正しく神さまに従うクリスチャンに対して嫉妬を燃やしたり、憎んだりしています。

 

 

 

特に終末は、サタンが過剰にクリスチャンの永遠の命に嫉妬しています。そしてありとあらゆる手を尽くして「永遠の命」を奪おうと画策をします。その中のひとつに「人殺し」という手段を用いるのです。そして特に終末において、こと、艱難時代においてこのことは実現していくであろうと思われます。福音書に「兄弟が兄弟を死に至らせる」ということが書かれています。これはまさにカインの兄弟殺しに通じることです。なぜ、兄弟が兄弟を死に至らせるのでしょうか?その答えが上記みことばにあります。カインが正しくなかったために正しいアベルを憎んで殺したように、正しくないクリスチャンは正しいクリスチャンを憎むようになるからです。その結果、「死」に引き渡すのです。今はそういったことは目立って起きていませんが、しかし艱難時代には確実に実現していくと思われるのです。何はともあれ聖書に書かれているのですから、間違いなく起きてくるでしょう。

 

 

 

ところで不思議に思いませんか?クリスチャンと言うと、「殺人」とは無縁のように思えますよね?以前の私もキリスト教とかクリスチャンと言えば、「温和」とか「敬虔」いうイメージがありました。なので「殺人」なんてことは考えたこともありませんでした。でも、よくよく聖書を読むと、たしかに敬虔なクリスチャン、いわゆる「聖徒」と呼ばれる類いクリスチャンもいますが、しかし必ずしもクリスチャンと名が付くすべての人たちが「聖徒」とはかぎらないということにいつしか気付くようになりました。まさに本日の箇所もそうだと言えます。人を殺したのだから「カイン」は未信者だと思うかもしれませんが、それは違います。「カイン」もクリスチャンです。カインがアベルと同様、「ささげもの」を捧げました。「ささげもの」とは、「奉仕」に通じます。そもそもキリストを信じていないノンクリスチャンは、奉仕をするどころか、礼拝に出席することすらありませんてので、「カイン」がクリスチャンだということは明々白々でしょう。ではあっても、結果としては弟「アベル」を殺害しました。クリスチャンなのになぜ?なぜ?と思うかもしれません。しかしクリスチャンであっても、必ずしもキリストに属する「羊」とはかぎらないことを理解しましょう。以下、みことばを参照してみましょう。

 

 

 

参照 ヨハネの福音書10:26

 

10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。

 

 

 

上記みことばは、イエスさまが言われたことですが、「わたしの羊に属していない」とあります。つまりクリスチャンといっても、「キリストに属する羊」と「キリストに属さない羊」とに区分されるということを言っているのです。それに関して、こういうみことばがありますのでついでに見てみましょう。

 

 

 

参照 ヨハネの福音書8:44

 

8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。

 

 

 

ここで「父である悪魔」ということが言われています。「父」も、二種類の「父」がいます。「天の父」もいますが、しかしこの箇所を見るかぎり、「悪魔の父」もいるということが分かります。このことばはイエスさまが当時のユダヤ人、今で言う教会のクリスチャンに対して言われたことばです。人間的には信じがたいことなのですが、彼らはイエスさまからハッキリと「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者」だと言われてしまったのです。クリスチャンと呼ばれる立場の人に向かって主はそのように言われたのです。「悪魔から出た者」だと。このことからも、キリストに属する羊(クリスチャン)と、そうではなく悪魔(サタン)に属する羊(クリスチャン)がいることが理解できると思います。

 

 

 

そう、まさに「カイン」は、悪魔(サタン)に属するクリスチャンだったのです。そしてカインのようなクリスチャンがすることは何か?と言うと、「悪魔は初めから人殺しであり」とか「父(悪魔)の欲望を成し遂げたいと願っている」とありますように、人殺しもそうですが、悪魔(サタン)の思惑を行うのです。もっと言うなら、正しいクリスチャンを苦しめて、何とか永遠の命から落とそうとするお手伝いをするのです。もちろんそのバックには、「悪魔の父」がいます。サタンにそそのかされて、サタンが望むことに加担するのです。その結果、正しいクリスチャンを訴えたり、死に至らせたり、という結論に至っていくのです。

 

 

 

一例を挙げるなら、イスカリオテのユダがまさにそうでした。ユダもイエスさまの弟子のひとりでしたが、いつしか彼の心の内側はサタンに支配されるようになり、イエスさまを銀貨30枚で売って、パリサイ人や律法学者に引き渡したのです。その後、どうなったのか?と言うと、皆さまもよくご存知のように、議会に引き渡され、死罪に定められ、十字架に掛けられて命を失ってしまいましたよね?何の罪も犯していない、すべてにおいて正しかったイエスさまが、神の御子であったお方がなんと、「犯罪者」扱いされて、挙句の果てには殺されてしまったのです。それも一般の人ではなく、クリスチャンであったユダの裏切りによって、です。しかもユダは単なる「平信徒」ではありません。イエスさまの「弟子」だったのです。ですから「真理」についてイエスさまのそばでよく学びをしていて、理解していた立場です。もちろんユダが直接手を下したわけではありませんが、しかしイエスさまの殺害に、大いに加担しています。

 

 

 

そして本日のテーマでもある、「正しい人を死に至らせる人の末路」はどうなるのか?と言うと、イスカリオテのユダが結局のところ、自害していのち(永遠の命)を失ったように、今の時代も全く同じで、いくらクリスチャンと称していても、天の御国を受け継ぐことはできなくなるでしょう。こういうことはまだ、ほとんど起きていないかもしれませんが、艱難時代に入ると、「兄弟が兄弟を死に渡し」ということばが必ず成就していきますので、カインやユダと同じことをする人は、「永遠のいのち」を得ることは、ほぼ不可能でしょう。よほど最後悔い改めれば分かりませんが、その可能性は低いでしょう。なぜかと言うと黙示録には「殉教者の血」に報いることについてハッキリと書いてあるからです。つまり最後まで反省することなく、悔い改めることなく、行き着くところまで行き着いて、その成れの果ては「永遠の滅び」(火の池)になるでしょう。

 

 

 

冒頭のみことばの10節に「あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」とありますが、このことばは黙示録の、「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」のことばと符号するのでは?と思います。ここでも「血」ということばが使われていますが、「私たちの血」とは、「殉教」のことを言われています。また、「復讐をなさらないのですか。」とありますように、殉教者の血にいずれ神さまが報いをなさいます。言うまでもありませんが、それは良い報いではありません、「永遠の刑罰」の報いです。そういった意味合いで、世の終わりというのは、多くのクリスチャンが悪い意味合いで「報い」を受けてしまう時なのです。「嘘?信じられない?!」と思うかもしれませんが、艱難時代に入ったら目の当たりにするようになるでしょう。

 

 

 

すでにアメリカでは、「死罪」はともかく、しかし法律を下に正しいクリスチャンが訴えられたり、逮捕されたり、投獄されたりしています。「死に引き渡す」ところまではいかなくても、訴えたりして正しいクリスチャンを何らか苦しい目に会わせる人も悪い報いを受けるのでは?と思います。少なくとも良い報いを受けることは無いでしょう。途中で悔い改めるなら別として、最後まで変わらないのなら永遠の命は危ないと思います。たかが訴え、迫害、死罪などと、決して軽く考えてはいけません。特にわたし(キリスト)の羊、つまり「聖徒」(神のしもべと呼ばれている人、もしくはイエスさまが歩まれたように歩んでいる人)と言われる類いのクリスチャンに対してそういったことをするときに、災いから逃れることはないと思いますので要注意です。ですからすべてにおいて公正にさばかれる神さまを恐れて歩みをしていきたいと思います。それは艱難時代もそうですが、今の時代でも全く同じです。たとえ艱難時代でなくても、アベルのように正しく歩んでいるクリスチャンに対して「害」を加えていくときに、ろくでもない結果を招いてしまいますので気を付けていきたいと思います。

 

 

 

一方、正しく歩んでいるがゆえに、万が一にもアベルやイエスさまのような立場に置かれてしまった場合は、彼らの取った態度を模範としていきたいと思います。イエスさまのことは皆さまがご存知のように、何も反論することなく、言い返すことなく、十字架の死に至るまで神さまに従っていきましたよね?アベルに関しての詳細はありませんが、彼も恐らくカインに抵抗することなく、そのまま神さまに身を委ねていったと思います。両者共にその結果「肉体の命」を失ったのですが、しかしこれはこの世のことのみであって、そしてそれと同時に彼らは後の世(天の御国)をゲットした型でもあります。なので、悪魔(サタン)の思惑を行うクリスチャンに対して腹を立てたり、窮地の場で取り乱したり、あるいは肉体の命を惜しんだりして、永遠の命をミスすることのないように気を付けていきたいと思います。「理不尽」とか「不当」という思いがよぎったとしても、「復讐」はすべて神さまに委ねて、最後までみことばに従って永遠の命を得ていきたいと思います。