聖書箇所 創世記5:13

 

 

 

5:1 これは、アダムの歴史の記録である。神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、

 

5:2 男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。

 

5:3 アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。

 

 

 

「人は神に似せられて造られた」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

アダムは人類で一番はじめに造られた人です。そして神さまがどんな風にして人を造られたのか?について、1節で言われています。「神に似せて彼を造られ」とありますように、神さまに似た者として造られました。念のためにKJV訳も見たところ、“likeness of God made he him”とあり、日本語と同じ訳でした。さらに3節で、アダムがセツを生んだとあります。これって少し変な感じがしませんか?少なくとも、私は不思議に思いました。なぜかと言うと、ごく当たり前のことではありますが、普通男性は子どもを出産しないからです。なのに、アダム、つまり男性が子を生んだと言われているのです。そして聖書に書かれていることなのでこれは本当のことなのです。「そんなぁ、男が子どもを産むわけがないでしょ?!それは科学的にどう考えても認められないしおかしい!」とおっしゃる方もおられるでしょう。それはもっともだと思います。しかし、度々話をしていますように、聖書の多くの記述はたとえを使って書かれています。それこそイエスさまが「たとえによらずに話されることはなかった」と言われていますように、大半はたとえが使われているのも事実なので、ここにもたとえの意味合いがあるかもしれないと、そんな視点においても学びをしていきたいと思います。

 

 

 

「アダム」は、たしかに人類の祖先ではありますが、それと同時に「イエス・キリスト」の型でもあります。そのことを証するみことばがありますので、少し見てみましょう

 

 

 

参照 Ⅰコリント人への手紙15:45

 

15:45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

 

 

 

「最初の人アダム」は、冒頭のみことば1節の「アダム」のことを言われています。つまり、肉体を持つ人としての「アダム」のことです。しかし、「アダム」は単に肉体を持つ人間として「アダム」だけではありません。「最後のアダム」とありますように、しかも「生かす御霊となりました」と書かれていますように、「イエス・キリスト」の型をあらわす「アダム」も実在するのです。そして聖書はどちらかと言えば、後者に比重を置いています。つまり1節「神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、」とは、二重の意味合いがあって、ひとつは肉体を持つ人としてのアダムのことを指し、もうひとつの意味合いとしては肉体を持つイエス・キリストのことを指すのです。イエス・キリストは、天の神さまをイメージしたお方です。神さまは目には見えないお方ではありますが、唯一、肉体を持たれたイエス・キリストを通して神さまがどのようなお方であるのか?を知ることができます。もちろんイエスさまは神さまではありますが、最初の人アダム&最後のアダムの両者共に、「神に似せて」造られました。そしてこれは何を言っているのか?と言うと、アダムだけでなく、新生したクリスチャンは皆、神に似た者になっていくものとして、造られていくということなのです。そう、アダム、つまりキリストからクリスチャン生まれるのですが、生まれたのなら、徐々にではあっても神さまの似姿に変えられていくのだ、ということを言っているのです。そして話は少し元に戻りますが、男(アダム)が子ども生むとは、イエス・キリストがクリスチャン(信者)を生むということに通じるので、不思議でも何でもないことがお分かりになるかと思います。3節のセツも同様です。たしかにアダムとエバの間に人として生まれたセツではありますが、セツはアダム(キリスト)がかしらとなっている教会において新生したクリスチャンの型をもあらわしています。そしてセツもアダム(キリスト)に似たクリスチャンとして創造されたのです。

 

 

 

さて、アダムが子どもを生んだことに関して、ご理解いただけたかと思います。次に見たいのは、本日のテーマにも掲げましたように、クリスチャンが神の形に似せて造られたということです。それに関して他の箇所も参照しながら話したいと思います。

 

 

 

参照 伝道の書7:29

 

7:29 私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。

 

 

 

さて、「神は人を正しい者に造られた」とあります。「正しい」のところはKJV訳で、“upright”とあり、「まっすぐな」と訳せます。つまり人を「まっすぐな者」として造られたのです。そしてそれは「神の形に似た者に造られた」ことに通じるのでは?と思います。ちなみに「まっすぐ」ということばで思い出すことがあります。それはマタイの福音書に書かれているみことばです。

 

 

 

参照 マタイの福音書3:3

 

この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。」

 

 

 

上記はバプテスマのヨハネが言われたことですが、「主の道」をまっすぐにしなさい、ということです。「道」とは、「天の御国に通じる道」のことを言われています。道が曲がっていたり、でこぼこ道だと、天の御国に入れないので「まっすぐにせよ!」と言われているのです。クリスチャンとして新生して、信仰を持って歩み出すことは非常に尊いことであります。そして何のためにクリスチャンになるのか?と言うと、それは「永遠の命」を得て、「天の御国」に入るためです。裏返して言うと、「永遠の火の池」のさばきから免れるためです。少し消極的に聞こえるかもしれませんが、恐ろしい恐ろしい「火の刑罰」から逃れるために、クリスチャンになるのです。未信者のように、はじめからイエスさまを拒否してクリスチャンとして歩まないなら、確実にさばかれてしまいますが、しかしクリスチャンになるなら、「刑罰」から逃れられる可能性があります。「天の御国」に入れるチャンスが与えられるのです。いわゆるそれがクリスチャンの特権とも言えるのです。そしてすべてのクリスチャンが「天の御国」に入れるのか?と言うと、それは違います。「主の道」をさいごまでまっすぐにしている人だけが入れるのです。聖書は基本的にクリスチャンが読むものです。ゆえに上記のみことばはクリスチャンに向けて語られているのだと理解できます。クリスチャンであっても、その多くの人の道は曲がっているから、「まっすぐにしなさい!」と言われているのです。曲がっていると何が問題なのか?と言うと、目的地である「天の御国」に入れなくなるのです。

 

 

 

たとえばどこかでハイキングをしていて、「この道を通れば目的地に着けますから」と案内してくださる方がいて、しかし違う道を行くときに、目的地に到着することはできなくなりますよね?本来右に行くところを左に行ってしまったら、まったく違う場所に行ってしまいますよね?それと同じく神さまが提示している「まっすぐの道」を歩まないで別の「でこぼこ道」や「曲がった道」を歩んでいくときに、「天の御国」ではない所に連れて行かれてしまうのです。つまり、それは「地獄」とか「ハデス」とか「ゲヘナ」と呼ばれる場所です。そう、そこを回避するために、私たちは神さまに似ていかなければいけないのです。もし、まっすぐな道を歩むなら、つまり正しく歩むなら、神さまに似た者になっていきます。また、クリスチャンの中で「聖徒」と呼ばれる類いの人が天の御国に確実に入ることが言われています。「聖徒」は、英語では“godly”とあって、これは訳すと「神さまのような」という意味です。しかしクリスチャンの皆が皆「聖徒」か?と言うとそうではありません。「聖徒」とは、神さまのような歩みをしている人のことです。そして神さまのような歩みをしているとか、神さまに似ているクリスチャンとは具体的にはどういう人なのか?と言うと、神さまの言われることに何でも応じていく人、つまり聞き従っていく人のことです。そうするなら、まっすぐな道を歩んでいるという風に神さまに見なしていただけます。そして生涯にわたってそのような歩みに徹していくなら、「天の御国」に入れます。しかし反対にいつも神さまの声に逆らってばかりいる人、聞き従わない人、反発する人は、残念ながらクリスチャンと称していても「天の御国」に入ることはないでしょう。そういった信仰生活を送っているクリスチャンは、サタンに似ることはあっても、神さまの似姿とは程遠いものとなっていくと思います。ですからクリスチャンと言っても一枚岩ではなく、神さまの似姿へと変えられて「御国」に入るクリスチャンと、いつも反発ばかりしてあわや神さまから怒りを買い、「御国」に入れないクリスチャンがいる、ということがお分かりになると思います。もちろん後者には全く御心がありませんので、せっかくクリスチャンとして新生されたのでしたら、ぜひ神さまの似姿に変えられていくようなクリスチャン生活をいきたいと思います。繰り返しますが、ポイントは神さまに似た者となっていくことです。そしてそのためには、神さまが示される「まっすぐな道」を歩むことです。さらにそれはどこまでも「神さまへの服従」の歩みです。以上のことを念頭に置きつつ、その延長線上に約束されている「天の御国」をぜひ目指していきたいと思います。