聖書箇所 創世記7:22

 

 

 

7:22 いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。

 

 

 

「聖霊の働きが枯渇し続けるなら、御国が危なくなる」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

創世記7章全体は、ノアの家族以外の悪い人々を神さまが滅ぼすために大洪水を起こされたことについて書かれています。そして冒頭のみことばにありますように、ノアの家族を除いては皆、死んでしまいました。重ねて言いますが、助かったのはノアの家族8人だけでした。それ以外の人たちは全員滅んでしまいました。

 

 

 

さて、ノアが箱舟に入って助かったことは良かったのですが・・・問題は滅ぼされてしまった人々です。6章に書かれていますように、ノアの時代は悪い時代でした。多くの人々が道を乱していました。しかしそういう時代の中にあっても、唯一ノアは正しく歩んでいました。前章で学びをしましたように、ノアは神さまと共に歩んでいました。なのでノアと彼の家族は例外的に助けられました。しかしそれ以外の人たちは、容赦なく滅ぼされてしまったのです。なぜか?それは多くの人がノアの歩みとは逆方向だったからです。つまり神さまの目から見て正しく歩んでいなかったからです。このことは一見、この世の神さまを知らない未信者のことを言われているように思うかもしれません。もちろんそういう人たちも多数いたと思います。しかしそれだけではないと思います。滅んでしまったのは、この世の未信者の人たちだけでなく、クリスチャンも含まれていたと思います。「何を根拠に?」と思われるかもしれません。それは冒頭のみことば「いのちの息を吹き込まれたもの」に答えがあります。それに関して創世記2章に「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」とあります。「いのちの息」とは、「聖霊」のことを指します。「土地のちりで人を形造り」とありますように、たしかにこの地上のお一人一人は「ちり」で造られています。でも、神さまを知り、イエスさまをご自分の救い主であることを信じて主と認めるなら、つまりクリスチャンになるなら、「いのちの息」(聖霊)が吹き込まれるのです。クリスチャンになった時点で、単なる「ちり」の存在から「いのちの息を吹き込まれたもの」となるのです。ゆえに「いのちの息を吹き込まれたもので~みな死んだ」というのは、未信者だけではなく、クリスチャンも含まれるということがご理解いただけるかと思います。そう、ノアの時代に多くのクリスチャンが滅んでしまったということを言われているのです。「滅んでしまった」のですから、天の御国を相続できなかったわけです。そして具体的にはどんなクリスチャンが未信者と一緒に滅んでしまったのか?天の御国に入れなかったのか?と言うと、「かわいた地の上にいたもの」がその答えです。「かわいた」ということばについてみてみましょう。

 

 

 

参照 エレミヤ書23:10

 

23:10 国は姦通する者で満ちているからだ。地はのろわれて喪に服し、荒野の牧草地は乾ききる。彼らの走る道は悪で、正しくないものをその力とする。

 

 

 

ここで「乾ききる」ということばが使われています。これは先ほどの「かわいた」ということばと同じ意味合いです。また、エレミヤ書でも「地」ということばが使われています。このことばは「地の上」「地」と、同じことを言われていると思います。まず、「かわいた」ということばですが、「乾く」とは、干上がった状態、つまり「水」が無い状態ですよね?こんなたとえが良いかどうか分かりませんが、洗濯をした直後は、衣類が水で湿っていますよね?でも、しばらく干していくうちに完全に乾きますよね?その時にはもう、「水」は一切含んでいない状態ですよね?それが「乾いた」状態です。もちろん次回着用したり、使ったりするために洗濯物は完全に乾かしたほうが良いのですが・・・でも、クリスチャンの歩みにおいて「水」が無いというのはマズイのです。「水」は先ほどの「いのちの息」ではありませんが、「水」も「聖霊」のたとえです。そしてクリスチャンは海や川に生息する魚のように、「水」の中で生活する存在なのです。言うまでもありませんが、実際のプールとか海や川で生活するわけではありません。今、話しましたように、「聖霊」の臨在の中に生きるのです。そうするなら、「かわいた地」に住むことは無いのです。しかしもし、「聖霊」を内側に宿していないのなら、「かわいた」状態になってしまうのです。

 

 

 

もう、お分かりだと思いますが、つまり「かわいた」とは、「聖霊」が無い状態で歩んでいることを言っているのです。繰り返しますが、「水」(聖霊)が無い状態のことを「かわいた」とか「乾ききる」ということなのです。そして「かわいて」しまうとどうなるのか?と言うと、「地はのろわれて」とありますように、祝福や恵みから疎遠の歩みになってしまうのです。しかも「彼らの走る道は悪で、正しくないものを力とする」とありますように、「善」と「悪」が逆転した状態で歩んでしまうのです。その理由は「水」(聖霊の働き)が枯渇しているからです。聖霊の働きが無いというときに、「分別」が無くなり、「正しい良心」に従って歩むことができなくなってしまうのです。「正しくないものを力とする」とは、そのようなことを言われているのでは?と思います。このことは、「かわいた地の上にいたもの」と同じことを言っているのでは?と思います。そしてそのまま「かわいた地の上にいたもの」で生涯を終えてしまうときにどうなるのか?と言うと、「死んで」しまうのです。つまり「天の御国」を受け継ぐことができなくなるのです。

 

 

 

そして怖いことに、「水」(聖霊の働き)が無い状態でも、クリスチャン生活が送れてしまうのではないかと思います。ともすると、そういう状態の中に置かれていても、そのことにすら気が付かないなんていうことも往々にしてあり得るのでは?と思います。恐らくノアの時代の滅ぼされてしまったクリスチャンはそうだったのでは?と思います。と、いうのは福音書に、「洪水が来て、すべての物をさらってしまうまで、彼らは分からなかったのです」ということが書かれているからです。また、「かわいた地の上にいる」とは、「この世に着いた歩み」のことを言われていると思います。そうなんです、たとえこの世に着いた歩みをしていても、周りのクリスチャンも同じように歩んでいたから、分からなかったのではないかと思います。「洪水が来て、すべての物をさらってしまうまで・・・」とありますように、悲惨なことに、「滅びる」まで、分からなかったのです。

 

 

 

そして旧約時代の「ノアの洪水」はある意味、世の終わりの型ではないかと思います。私たちが滅んでしまった人々と同じ轍を踏むことのないようにと、このようなことが書かれていると思います。なぜなら、「洪水が来て~彼らは分からなかったのです」のことばに続いて、「人の子が来るのも、そのとおりです」と言われているからです。「人の子」とは、イエス・キリストのことです。つまり、「人の子が来る」とは、「再臨」のことです。つまりこのことは、イエスさまの再臨の前、つまり終末時代もノアの時のように、神さまの前に「悪」を行うような歩みのクリスチャンが続出するぞ!だから大半は滅びるぞ!ゆえに例外的に正しく歩みなさい!ということを言われていると思います。もし、「地」(この世)に着いた歩み、もっと言うなら聖霊の働きの無い歩みをしているなら、再臨の時に裁かれてしまって天の御国に入れなくなる可能性がある、ということです。クリスチャンは、水、つまり「御霊」による歩みをしてなんぼのものです。ですから私たちは、後者、つまり聖霊を内側に宿す歩みをしていきたいと思います。すでに実践されていらっしゃる方はともかく、もし、「地」(この世)に着いた歩みにお心当たりがありましたら、直ちに方向を変えていきたいと思います。黙示録には、「地と地に住む人々」(KJV:地に定住する者)は、「獣の像」を拝んで滅びに入ることが書かれていますので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。しかし、「水(聖霊)」の中を歩んでいくなら、そして最後まで全うするなら、神さまの前にはノアと同じように「正しく歩んでいる」と見なしていただけるので大丈夫です。ちなみに「聖霊」によって歩み続けていくコツは、イエスさまの言われることに従い続けることです。祈りやみことばをはじめ、あらゆる方法で神さまが語ってくださる声に従っていく、そしてそのことをひたすら続けていくことです。ぜひ、聖霊による歩みに最後まで徹して「天の御国」を相続していきたいと思います。