聖書箇所 創世記8:20

 

 

 

8:20 ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

 

 

 

「きよいクリスチャンとなって、神さまに用いていただく」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

聖書を読むと「きよい」とか「きよめられた」ということばが度々出てきます。また、類似語で「聖別」とか「聖なる」いうことばもあります。冒頭のみことばでも、「きよい」ということばが使われています。そしてノアは「きよい家畜」と「きよい鳥」を選んで、祭壇の上で全焼のいけにえを捧げました。このことばを読んで、どんなことを連想するでしょうか?誰かが狩りに出かけてしとめたものを、炭火を起こして焼いて神さまに食していただく、なんていう風にとらえるでしょうか?聖書をどのように読むか?なんてことは千差万別なんだから、どうとでも取れるだろう?なんて思う方もいらっしゃるかもしれません。たしかにそんな意見も一理あるかもしれませんが・・・しかし私流に、と言いますか、いえ、聖書流に読ませていただくならば、福音書の中で「イエスはたとえによらないで話されることはなかった」と言われていますように、もしかするとたとえとして書かれているかもしれない?なんていう概念に基づいて理解するのが正しいのでは?と思いますが、いかがでしょうか?また、Ⅱペテロの手紙には「聖書の預言はみな、私的解釈を施してはならない」ということが言われています。このことを多くのキリスト教会やクリスチャンは、なんでも「霊的に解釈をしてはいけない」という風にとらえているそうですが、原語の意味合いでは「そのテキストのみから、預言の解釈をしてはいけません」すなわち「他の箇所をも参照しなさい」ということだそうです。日本語の聖書とは、随分違う訳ですよね??なのでたとえの意味合いを理解していくのも大事ですし、それと同時に他の箇所も参照しながら全体を通して神さまがどんな風にその箇所を語っているのか?について知ることも大事なのでは?と思います。これは私個人がそんな風に思っているのではありません。先のことをそのまま素直に受けていくなら、聖書はそのように読んでいくのが正しいのでは?というところに辿り着くのでは?と思います。

 

 

 

前置きが長くなりましたが、冒頭の箇所も「たとえ」が使われています。たしかに旧約の時代には、聖書に書かれているように実際に動物が祭壇の上で捧げられていたのかもしれません。ですが、これらに関してはある意味、今の時代、すなわち新約を生きる私たちクリスチャンがどのように歩むべきなのか?ということを示す型として書かれている、ということも理解しながら学んでいきたいと思います。その際に、文字通りにそのまま読む「おもて」の意味合いだけを読んでいては理解できませんので、「裏」の意味合いに関しても目を留めていきましょう。そしてそこから教訓を得ていきましょう。まず、ここで使われているたとえの意味合いについて見てみましょう。

 

 

 

「祭壇」は、「献身」「教会」「祈り」のことを指します。今回の場合は、「礼拝での奉仕」のことを言われていると思います。「家畜」とか「鳥」は、「クリスチャン」のたとえです。どこの教会でもそうかもしれませんが、毎週の礼拝の中で奉仕をするクリスチャンがいますよね?しかも神さまの前の奉仕なので、それは非常に尊いことであります。ただし、そのことに関して若干注意点がある、ということを今回の箇所では言われています。「ええっ、何それ?奉仕に関して教会とか牧師から何か言われたことなんてないよ。しかもそんなこと聖書には書いていないでしょ?」と言われるかもしれません。そうです、おっしゃる通りです。人はよほどでないかぎり、注意しないかもしれません。あるいは聖書にもズバリ「注意事項」なんていう風には書かれていません。しかし、冒頭の箇所ではたとえとして、静かに、しかもさりげなーく書かれているのです。そのポイントとなることばは、はじめに話しましたように、「きよい」ということばです。もし、私たちが「きよいクリスチャン」という風に神さまの前に見なしていただけるなら、捧げ物、つまり奉仕を神さまに喜んで受け入れていただくことができるのです。でも、反対に、「きよくない」と見なされるときに、どうなってしまうのか?と言うと、弟アベルを殺害したカインの話ではありませんが、いくら奉仕をしても、「目を留めていただけない」あるいは「受け入れていただけない」という可能性があるのです。きよいクリスチャンなのか、そうでないのか?は、もしかすると人前にはあまり分からないかもしれません。でも、神さまの前にはどうもあからさまのようです。なので、もし、奉仕を捧げていくのなら・・・こと、メッセージや証や預言のように、みことばを扱ったり、霊的な事柄を反映する奉仕に関しては、神さまの前に「きよいクリスチャン」になるのが必須のようです。いいえ、ひょっとすると“must”かもしれません。そうでないときに、カインと同じ轍を踏みかねないからです。

 

 

 

では、「きよいクリスチャン」の基準について話したいと思います。それに関して、「きよい」の反対語「汚れた」ということばについても、他の箇所を参照しながら見ていきたいと思います。

 

 

 

参照 レビ記11:17

 

11:1 それから、主はモーセとアロンに告げて仰せられた。

 

11:2 「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。

 

11:3 動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。

 

11:4 しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。

 

11:5 それから、岩だぬき。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。

 

11:6 また、野うさぎ。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。

 

11:7 それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。

 

 

 

ここで、種々の「動物」が登場します。これらは皆、「クリスチャン」のたとえです。その際に、反芻するとか、しないとか、あるいはひづめが分かれているか?いないか?などということが言われています。これは何を言っているのでしょうか?このこともたとえです。「反芻する」とは、「聖書を繰り返し読む」ことです。ですから「反芻する動物」とは、聖書の通読が習慣になっているクリスチャンのことです。したがって「反芻しない動物」とは、聖書を読む習慣が身に付いていないクリスチャンのことを言われています。また、「ひづめが完全に割れているもの」とは、「この世と分離している」ことです。分かりやすく言うと、この世と一線を画しているクリスチャンのことを言っています。反対に「ひづめが分かれていない」とは、この世に着いた歩みをしているクリスチャンのことを言っているのです。そして、両者を満たす者が「きよいクリスチャン」と見なされます。片方だけを満たしていても、もう片方を満たしていないときに、「汚れたもの」と書かれていますように、神さまの前に「きよいクリスチャン」とは見なしていただけないのです。なので、奉仕者としては「不適格」という風に、神さまの前には見なされてしまう可能性があるのです。しかし、聖書通読を習慣とし、世の中のこととは一線を引いた歩みをしているのなら、奉仕を捧げるにふさわしいと認められ、奉仕、奉仕者共々、神さまの前に受け入れていただけるのです。奉仕を担うにあたって、こういうことを耳にすることってあまり無いと思います。私自身も、聖書を丹念に読み、学びをするまでは知りませんでした。でも、聖書で言われている基準なので、こういうことに関しても尊重していくことに大いにポイントがあります。いくら牧師が言わなくても、しかしことばである神さまがハッキリ言われていることなので、このことも守っていきたいと思います。そしてきちんと行うなら、祝福や恵みに入りますので、しかも神さまに喜んでいただけることなので、ぜひ、おすすめいたします。裏返すと、こういうルールを軽視したり、無視して、自己の判断で奉仕を進めていくときに、いくら当人が良かれと思っていても、奉仕を受け入れていただけないのもそうですが、神さまの目に「卑しい器」と判断されてしまうのではないかと思います。そうなると、クリスチャンだからと言っても、神さまが用いてくださらないのでは?と思います。そして、「卑しい器」となってしまうなら、アロンの二人の息子、ナダブやアブヒのように、異火(聖霊意外の別の霊)によって奉仕をして神さまから怒りを買って最悪滅ぼされてしまう可能性がありますのでくれぐれも気を付けていきたいと思います。繰り返しますが、聖書通読を繰り返すことと、世の中とは線引きした歩みを志していく中できよめられていく、というポイントは正しくとらえていきましょう。そして神さまの前に「きよいクリスチャン」、他の箇所では「尊い器」とも表現されていますが、そのようになって奉仕を捧げていきたいと思います。そうするなら、神さまに喜んで受け入れていただけますし、神さまに用いていただけますので・・・そして最後まで全うするなら、「天の御国」も約束されていますので、よろしければぜひ、実践してみてください。

 

 

 

 

私がまだ、弟子の歩みを志して間もない時のことですが、土曜日の弟子訓練の集会のおすすめで、本日引用したレビ記の箇所から「奉仕者」についての定義のようなことを学ばせていただきました。その時にエレミヤ牧師が、「レビ人の奉仕は正しく行えば祝福に入ります。しかしそうでないときに、呪いを招いたり、災いとなってしまうので気を付けてください」ということをおっしゃっていました。そしてみことばを反芻すること、つまり繰り返して読むことの重要性や、世の中に対してどのように対応するのか?についての学びを受けることができました。それ以前は、神さまが言われている「奉仕者の条件」について一切考えたこともありませんでしたし、まさか聖書でそのようなことを言われているなんて夢にも思っていませんでしたが、このことを知ってから及ばずながら実践するように心がけています。特にみことばを伝える奉仕や霊的な事柄を扱う奉仕(具体的にはメッセージ、証、預言)に関しては、ヤコブの手紙の中で「教師のさばき」という側面から、かなり厳しいことが言われているので、これは何が何でも死守しなければ!と思っています。今回の学びを通して、今一度我が身を振り返り、聖書で言われていることを尊重して、厳かに働きをしていかなければという風に思いました。いつも大事なポイントについて語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。