聖書箇所 創世記11:19

 

 

 

11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

 

11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。

 

11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

 

11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

 

11:5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。

 

11:6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。

 

11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

 

11:8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

 

11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 

 

 

「キリストを土台としていない教会は混乱を招く」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

1節に書かれていますように、この頃、全世界は1種類のことばでした。今では、100カ国以上のことばがあると思うのですが、当時は「一つの話ことば」でした。その時に、3,4節で言われているように、人々は「町」「塔」を建てました。その理由は、ひとつは「名をあげる」ため、もうひとつは「全地(KJV:外国)に散らさせない」ためでした。そして5節、主は人々が建てた町と塔をご覧になるために降りて来られました。それは彼らを祝福するためでなく、その逆です。7節「彼らのことばを混乱させ、互いにことばが通じないよう」にするためです。この「混乱」ということに今回語りかけを受けましたので、そのことについて話をしたいと思います。

 

 

 

この時、人々は「町」と「塔」を建てました。このことを5節では、「人間の建てた町と塔」と言われています。「人間」のところは、KJV訳で“men”という風にあります。ちなみにキリストのことをKJV訳で、“man”と表現されることがあるのですが、この場合、複数形で書かれているので、「人々」つまり「人間」のことを言われていると思います。たしかに実際に彼らは「町」と「塔」を建てたのかもしれません。しかし、度々話をしていますように、聖書にはたとえの意味合いも使われています。「町」とか「塔」とは、「教会」をあらわすたとえではないかと思います。そうだとすると、「人間の建てた教会」という風にも取れます。「なんで?人が教会を建てたらダメなの?だったら教会は建設できないじゃない?」なんて思う方もいるかもしれません。それはごもっともな心配だと思います。しかしここで言われているのは、「建物」としての「教会」を言われているのではなく、「教会」の中身、分かりやすく言うなら、働きや教理や霊的な事柄関する建て上げのことなのです。そして、「教会」の建て上げに関して、こういうみことばがあります。

 

 

 

参照 詩篇127:1

 

127:1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

 

 

 

ここで「家」とか「町」ということばが出てきます。「家」や「町」も「教会」のたとえです。そして、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」とは、「キリストではなく、人手によって建てられた教会の働きはむなしい」と言っているのです。「むなしい」のところは、英語では“vain”という単語が使われています。「むなしい」の他に、「無駄」という風にも言われています。つまり、キリストが建てたものでない教会、すなわちキリスト(みことば)を土台としていない教会は、神の前にむなしいもの、無駄なもの、という風に見なされてしまうのです。それに関して例を挙げるなら、「イエス・キリストではなく、マリヤに祈る」ことを奨励しているローマ・カトリック教会がそうだと言えます。また、「艱難前携挙説」を提唱しているプロテスタントの教会も同様です。いくら形としての、建物の教会が実在しても、神さまの前の実質は、「むなしい」のです。そして創世記に戻りますが、人が築いた教会に対して、7節にありますように、「混乱」が神によってもたらされてしまうのです。ちなみに、「混乱」ということばで思い出すみことばがあります。それは「バビロン」です。そして、「バビロン」の原語の意味合いは、「乱れる」ということだそうです。時代を正しく見分けるなら、今は終末の時でありますが、終末において混乱し、この世についた教会のことを言われているのではないかと思います。さらに言うなら、「バビロン」とは、獣の国アメリカ由来の嘘、偽りの教理のことをも言われています。クリスチャンは艱難を通らずに携挙されるなんていう教えは、アメリカから来たものです。まさに「バビロン」の教理なのです。みことばにはハッキリとクリスチャンが艱難を通ることについて書かれているのですが、しかしそのことを投げ捨てて「艱難前携挙説」を受け入れていくときに、キリストを土台とする教会ではなくなってしまうのです。神さまの前には、「人手による教会」、いわゆる「混乱した教会」となってしまうのです。そして今の時代は、こういう教会のほうが多いのではないかと思います。しかしこのことに全く御心はありません。教会の建設はともかく、しかし実質、つまり中身に関しては、キリストに建てていただかなければいけません。そうでないときに、「混乱」させられてしまうのですから。そして「混乱」が招く結果ということが、7節の後半で言われています。「互いにことばが通じないようにしよう」とあります。これは、たしかに実際の言語のことも言われていると思いますが、それだけでなく、神によって「混乱」をもたらされてしまうときに、いくら聖書を読んでいると言っても、訳の分からない教理や霊を掴まされていく、ということを言われているのではないかと思います。絶対にそうだ!とは、言えませんが、実際にバビロンゆかりの教理を掴んでいるときに、真理に覆いがかけられて、聖書を読んでいても神さまが本来意図している結論に至ることがないからです。艱難前携挙説を受け入れることによって、書かれているみことばのどこもかしこもつじつまが合わなくなって、挙句の果てには「混乱」を招いてしまうのです。なので教会を建てていくにあたって、キリストであるみことばを土台としていくことがいかに大事か?がお分かりになると思います。そして、主に教会を建てていただくためには、みことばが語っている通りにまっすぐにみことばを解き明かしていくことです。また、霊的な働きに関しても同様です。「聖霊」の働きを求めることです。聞いた話によると、某ペンテコステ派の教会では、悪霊を呼ぶ器を招いて集会を行っているそうです。「デーモン、デーモン」なんていうことばを発する器を歓迎し、あろうことか集会の中で「悪霊」を下しているそうです。教会は本来「聖霊」に満ちた場所なのですが、「悪霊」を自ら招く教会は「キリスト教会」とは言えないですよね?有名な器だから招いたなんて言っていくら働きをしてもそれこそ、「むなしい」結末になってしまうと思います。なので、ぜひ、イエスさまである、みことばを土台した教会として建て上げられていきたいと思います。また、教会もそうですが、個々におけるクリスチャンにおいても、絶えずみことばに堅く着く、いわばイエスさまを土台とした歩みをしていきたいと思います。また、イエスさまを土台とした歩みを全うしていくときに、この地上においても祝福や恵みに満ちていきますし、その延長線上においては永遠のいのちが約束されます。しかし反対に、「混乱」状態のままクリスチャン生涯を終えてしまうときに、天の御国が危なくなる可能性がありますので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。こういうポイントについても見ておいていただけたらと思います。

 

 

 

 

かつては「教会」と名が付けばどこもそんなに変わりはないのでは?と思っていました。それは自分自身がアメリカ由来の教理を信じていたので、おかしなことに対して疑問を抱く、なんていうことにはおおよそ無縁だったからです。しかし神さまの憐れみによって少しずつ変な教理や霊について教えていただくようになり、歩みや働きの方向性を変えていく中において、主が建てた教会と、そうでない教会がある、ということにいつしか気付くようになりました。そして今では、ほぼハッキリ理解できるようになりました。また、教会の働きは、神さまによって進められるという点についてもエレミヤ牧師が語るメッセージを通して繰り返し教えていただき、そのことを受け入れていく中でも、確信を持つことができました。以前は艱難前携挙説を受け入れていた教会に行っていましたが、それが「嘘」だということを理解して、艱難時代を通過することを前提に歩みの方向性を転じて、少しずつ色々なことが明白になってきました。終末がどんな時代で、どんな風に歩めば御国に入れるのか?あるいはさばかれるか?についての理解に次第に至るようになりました。そんな自分自身の体験を通しても、みことばを尊重していくことがいかに大事なのか?を学ばされています。今回の箇所を通して、「教会」は人が勝手に作り出した教理では建て上げられない、反対に主(みことば)を主体とするときに建て上げられていくということについて再認識させていただき、感謝でした。また、自分自身がきちんとみことばに立っているか?について吟味することも非常に大事だと思いました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。