聖書箇所 創世記13:4

 

 

 

13:4 そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。

 

 

 

「主の御名」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

この世の神さまを知らないノンクリスチャンは、他の神々を拝んでいたり、あるいは無宗教だったりするために、「主の御名」ということばを聞いてもほとんどピンと来ないと思います。しかしクリスチャンとして歩んでいるなら、あるいは異邦人からクリスチャンに新生した時点で、「主の御名」を唱えるようになります。このことはクリスチャンにとっては当たり前過ぎることなので、今さらあえて考えることはあまりないかもしれません。しかし上記みことばに「主の御名」ということが書かれていますので、今一度振り返って見てみたいと思います。

 

 

 

その前の節を読むと分かるのですが、アブラムはベテルに行く途中に「祭壇」を築きました。上記みことばは、そのことを指して「彼が最初に築いた祭壇の場所である」と言われています。「祭壇」と聞くと、この世の「仏壇」のように、何か特別なものが置かれているようにイメージするかも知れませんが、聖書で言う「祭壇」の意味合いとして、「献身」とか「教会」とか「祈り」ということが挙げられます。さらにここで言われている「祭壇」とは、「主の御名」を指します。「主の御名によって祈った」のところは、KJV訳ではAbram called on the name of the LORD.とあり、「アブラハムは主の御名と呼んだ」と訳せます。ですからここでの「祭壇」の意味合いは、「主の御名」のことと理解できると思います。

 

 

 

さて、先ほども申し上げましたが、クリスチャンが「主の御名」を唱えるなんて、あまりにも当たり前過ぎて、「何を今さら?」と思われるかもしれません。たしかにそうかもしれませんが、せっかくですので「主の御名」について、もっと言うなら、「主の御名」がもたらす「効力」について今一度おさらいも兼ねて見ていきたいと思います。

 

 

 

参照 使徒の働き4:12

 

4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

 

 

 

「この方」とは、「イエス・キリスト」のことです。その前の10節には、「この人が直って、あなたがたの前に立っているのは~イエス・キリストの御名によるのです」とあります。そのことばの流れに沿って12節のことが言われています。ここにはっきりと「この方以外には、だれによっても救いはありません」と書かれています。つまり「イエス・キリストの御名(主の御名)」以外に、「救い」はないということです。「そんなこと、当たり前だろう?何を言うのか、今さら!」とおっしゃる方もいるかもしれません。でも、キリストのみに「救い」があること、つまりキリストの御名だけが唯一、人を「救い」へと導いていく、ということは正しく正しく理解しましょう。なぜ、そんな基本的なことを今さらあえて言うのか?と言いますと・・・

 

 

 

聞いたところによると、ローマ・カトリック教会では、イエス・キリスト以外の宗教にも、要は仏教徒やヒンズー教徒やイスラム教徒にも救いがある、なんていうことを言っているそうです。このことを聞いてどう思われますか?これって今お読みした使徒の働きのことばを真っ向から反対することばだと思いませんか?ローマ・カトリックもたしかにクリスチャンではありますが、それはおかしいと思いますよね?また、カトリックのみならず、アメリカのプロテスタント教会においても「キリスト」の御名でお祈りすることをやめて、「全能なる至高者の名によって」なんていう風にお祈りのさいごを締めくくっているそうです。しかもそれはアメリカだけでなく、日本にも一部入ってきているそうです。大分前にエレミヤ牧師が代々木のオリンピックセンターでクリスチャンが集まっている某集会に参加されたそうですが、その時に外国の方も招かれていて、その中でお祈りされた方が「イエス・キリスト」の御名を唱えずに、「全能なる至高者の名によってお祈りします」という風に祈っておられたそうです。もちろん英語でお祈りされていたそうですが少なくとも、“name of Jesus”とは言われていなかったらしいです。しかしこれは「大問題」だと思います。クリスチャンは皆、キリストを御自分の「救い主」としているわけですが、キリスト以外の別の名を唱えることによって、それを否定することになるからです。そうなると、どうでしょう?いくら「自分はクリスチャンです」とか「救われています」と言っても、「救い」が「無効」になってしまう可能性があるのではないでしょうか?

 

 

 

いずれアメリカでは、「キリストの名」によって祈る教会と、そうでない教会とにおいて、「区分」を設けられそうです。それは「キリストの名」によって祈らない教会には、「税の優遇」をする、しかし「キリストの名」によって祈る教会に対しては「税を課す」ということなのでしょう。聖書のみことばを優先するなら、逆はあっても、その逆はあり得ないことなのですが、あろうことか、みことばとは反対のことを行う教会がなんと、認められようとしているのです。しかしこれはあくまでも、人前のことです。神さまの前にはどうか?と言うと、全く御心はありませんし、反対に神さまから「怒り」を買うことなので、決して従うべきではありません。そして単にそうするだけでなく、そのようなことには、むしろ「異」を唱えることが正しいのです。たとえみことばに反したことを奨励したり行っている人たちから反論されたり、迫害されたり、罵られたりしたとしても、です。

 

 

 

そうなんです、このような時代なので、私たちは「救い」は「キリスト」のみにあることを、益々言っていきたいと思います。黙示録セミナーや礼拝のメッセージ等でエレミヤ牧師が語っていることですが、時代が進むにつれて、さらに艱難時代に入ると、「キリスト」の評判が益々落ちていき、それどころか「キリスト」を正しく信じる人たちが「カルト扱い」を受けるようになっていきます。しかしそんな中にあっても、正しく「キリスト」を告白すること、要はキリストのみに救いがあること、そしてキリストの御名によって祈ることがどんなに大事かが分かります。よく話していますように、「聖書」という書物は、艱難時代や終末に向けて焦点を置いている側面があります。それこそ冒頭のみことばは、今から何千年前にも書かれたものではありますが、しかし終末に「キリスト」の御名が否定されることをも予測して書かれたのでは?とも思います。現時点(2014年10月)では、「キリスト」の御名を唱えたからと言って、我が国日本では、「税金」を必要以上に徴収されたり、逮捕されたり、ということは起きていないかもしれません。しかし、すでにアメリカでは、路傍伝道をしている牧師さんが逮捕されたり、政府の指示に従わない教会には「税」を課せられているということですので、早かれ遅かれこういうことは、日本にもじきに到来すると思いますので、その時にどうするのか?キリストの御名を告白するのか?それとも否定するのか?については、今からはっきりと決めておいたほうが良いと思います。そしてその時に、「事の軽重」を見誤って、間違えた選択をすることのないように気を付けていきたいと思います。たとえ「キリストの御名」のために「税金」を課せられたり、最悪逮捕されたり、死罪に定められたりしても・・・所詮「この世」におけることですので、しかもそれは「永遠」のことではなく、「一時的」なことなので、判断をミスすることのないようにしたいと思います。それに関しては個々における「自己責任」になりますが、正しく判断するなら「いのち」を救うことになりますし、一方、キリストの名を否定するときに、「永遠のいのち」は危ないものとなりますので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。これから「イエス・キリストの御名」による「揺るがし」が「全世界」にやって来る時代に入っていくと思いますが、ぜひ今からきちんと土台をキリストに据えて、そんな「揺るがし」に対しても正しく対応して、「永遠のいのち」に入っていきたいと思います。

 

 

 

 

最近、礼拝でヘブル人の手紙を通して、口できちんと「イエス・キリストを告白」することが、「永遠の区分」をもたらすということを学びました。メッセージを聞いたあと、「自問自答」しました。「自分は果たして主の言われるレベルでの告白がきちんとできているだろうか?しかも口でちゃんと告白できているだろうか?」と。日々の祈りの中で、「主の名を否まないように」とか「きちんと告白できるように」とか「イエスさまを証することを恥とすることがないように」ということは実践させていただいているのですが、しかしその時にはっきりと「いや、全然出来ていない」と自覚しましたので、そのためにきちんとお祈りしていきたいと思いました。そして今は、いつの時か、実際に主が要求されているレベルに到達できることを信じて祈り求めています。今回の箇所からも、とても大事なポイントについて主が示してくださったので、益々そのことを行っていかなければ!と決意することができました。冒頭のみことばは、決して他人事ではなく、自分にも、いや、自分にこそ大いに関係があることなので、そのことに恐れを持って、ぜひ実践していきたいと思います。いつも大切なことを語ってくださる神さまに心から感謝を捧げます!