聖書箇所 創世記18:4

 

18:4 少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。

 

「聖霊の力」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

冒頭のみことばはどんな背景か?と言うと、アブラムに神が現れ、神から遣わされた三人の使いに向かってアブラムが発したことばです。この箇所は一見読むと、長旅で汚れた足を水で洗ってきれいにしてから、旅の疲れを取るために休んでいただく、とそんな風に取れると思います。たしかに私たちが、そう、たとえばどこか遠くへ出掛けて宿泊先に着いた頃には朝と比べて足が少し汚れているかもしれません。また、多少なりとも疲れが出るので、温泉等に入って足をはじめ体をきれいにしてから宿でゆっくり休みたいと思うでしょう。なので冒頭のみことばも、もしかするとそういう意味合いもあるかもしれません。しかし度々話をしていますように、聖書のみことばの大半は「たとえ」で書かれていますのでぜひ、その面も見ていきましょう。

 

「少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い」ということばで、ピンと来るみことばがないでしょうか?よろしければ見てみましょう。

 

参照 ヨハネの福音書13:38

13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、

13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

 

上記みことばは、イエスさまが十字架にかかる前のこと、つまり12弟子たちを集めて最後の晩餐の時のことです。その時イエスさまは弟子たちの足を洗いました。しかしペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください」とイエスさまに言いました。それに対してイエスさまは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言われました。

 

イエスさまとペテロの会話から、イエスさまに足を洗っていただくことにポイントがあるのがお分かりになると思います。そんな風に聞くと、「ええっ、でも、今イエスさまはいないから洗ってもらえないじゃないの?それじゃあ、どうするの?洗ってもらわないと関係が無くなるんだったら、何とかしなくちゃいけないけど・・・」と思う方がいらっしゃるかどうかは分かりませんが・・・でも、実際にイエスさまに「足」を洗っていただかないと、関係が無くなってしまうのも事実のようなので、なんとかしなくてはいけませんよね?! そしてそれに関してご心配は無用です。大丈夫です。ヨハネの福音書のみことばもたとえとして書かれていますので、それを見ていきましょう。しかも創世記に書かれている「足を洗い」と全く同じ意味合いで使われているのです。

 

ちなみに「水」は、霊的な事柄を指します。今回の場合は「聖霊」を指します。つまり私たちクリスチャンは「聖霊」によって洗っていただくことが非常に大事なのです。「今さら何を?そんなこと知っているさ!」とおっしゃる方もおられると思います。でも、冒頭のみことばもそうですし、福音書の中でイエスさまがわざわざそのようにしていることが繰り返されていますので、見落とすことのないように今一度注意深く学んでいきたいと思います。また、アブラムはサライの夫であると同時に、イエス・キリストの型でもあります。そのアブラムが「少しばかりの水を持って来させますから」と「水」にこだわっていることは暗示的だと思います。このことばはまさに新約聖書に書かれている最後の晩餐でイエスさまが弟子たちの足を水で洗うことの予表とも私には思えるのです。そんな視点で見ていくと、アブラムの時代も「水」が重宝され、さらにイエスさまの時にも同様のことが起きた、ということは、今の終末の時代を生きる我々クリスチャンにも大いに関係があることだ、と思うのは自然ではないでしょうか?そしてこんな風にわざわざ「水」のことが強調されている、ということは裏返すなら、クリスチャンだからと言って、必ずしも「水」(聖霊)で洗われているとはかぎらないということをも言われているのではないか?と思うのですが、いかがでしょうか?しかしイエスさまは、聖書は、「水」(聖霊)で「足」を洗うことが強調されています。また、「足」ということばにもたとえの意味合いがあります。「足」は「信仰の歩み」に通じることばです。つまり私たちがどんなに敬虔なクリスチャンであったとしても、あるいは罪を犯さないように極力努力していたとしても、しかしこの世の中で生活していると、どうしてもこの世の事柄や罪に影響されてしまって足(歩み)はどうしても汚れてしまうのです。たとえどんなに気を付けていたとしても、です。だからと言って、そのまま放置しておいて良いか?と言うと、そうではありません。ゆえに「水」(聖霊)によってきよめられていかなければいけないのです。イエスさまがおっしゃったように、「足」をイエスさまに洗っていただかなければ、キリストと何の関係も無くなってしまうからです。

 

では、具体的に「水」(聖霊)によってきよめられるにはどうすれば良いか?について話したいと思います。それこそ目の前にイエスさまがおられるのでしたら、お願いして洗っていただければ良いのですが、あいにくこの地上には今はおりません。そこで登場するのが「水」、すなわち「聖霊」なのです。「聖霊」はたしかに目には見えないお方ではありませんが、イエスさまの霊ですので、いわばイエスさまそのものですので、聖霊さまに洗っていただければ良いのです。どんな風に洗ってもらえるの?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。じつに単純なことなのですが、それはお祈りによってなされるのです。冒頭のみことばは、日本語の新改訳聖書では記載が無いのですが、KJV訳では、“Let a little water”のあとに、“I pray you”ということばが入っています。“pray”とは、「祈る」という意味ですが、「水」、すなわち聖霊と祈りは密接な関係があることがお分かりになると思います。聖霊さまに足を洗っていただくには、祈れば良い、ということなのです。日常において、あるいは些細なことであっても、「あっ、罪を犯しちゃった」「あーっ、つぶやいちゃった」「あぁぁ、人の悪口を言ってしまったー」なんてことがあったとしても、「水」(聖霊)で洗っていただくなら、つまり「罪を犯してしまいました。どうかお許しください。悔い改めへと導いてください」なんていう風にお祈りするなら、赦していただき、きよめていただけるのです。それだけでなく、私たちの霊的な領域に関しても祈り求めていくのなら、聖霊さまの力によって変えていただくことができるのです。たとえば人をさばく習慣があって、それがなかなか直らなくて困っている場合に、祈ってイエスさまに助けを求めていくときに、聖霊さまの力によって徐々に変えれていき、その思いからも解放していただけるのです。ですから「水」(聖霊)は求めなければ「大損」なのです。ヨハネの黙示録に「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」ということが言われていますので、ぜひ求めていきたいと思います。反対に「足」を洗わないで、汚れた状態のままでいるときに、つまり「罪」を続けているなら、「聖霊」の働きがいつの間にか枯渇してしまい、「聖霊」ではない「悪い霊」、サタンとか悪霊と呼ばれる霊に支配されてしまう可能性があります。そして悪霊の支配下にずっと置かれた状態ですと、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言われましたように・・・イエスさまと関係が無くなるということは、最悪「天の御国」に入れなくなってしまう可能性がありますので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。ぜひ、いつも「水」(聖霊)を求めて、神の臨在の中を歩んでいきたいと思います。さらにそのことを生涯にわたって保ち続けていく延長線上には永遠の命、天の御国が約束されていますので、ぜひおすすめいたします。

 

以前、ある牧師さんが書いた本の中で、聖霊の力は、私たちのどんな罪も一瞬にして赦す力があります、ということばを目にしたことがありました。そのことばは私の心を打つものがありました。それ以前は、罪の種類によっては神さまは赦してくださらないかもしれない・・・と思っていたからでした。もちろん「聖霊」を汚す罪はこの世においても、後の世においても赦されないことが聖書には書かれていますので、そのことには気を付けていきたいと思います。それはそうだとしまして・・・また、それからしばらくして、聖書に「罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と書かれていることを知って、イエスさまはどんな罪であっても赦してくださって、悔い改めへと導いてくださるんだぁ、ということを信じるようになりました。メッセージにも書きましたように、いくら気を付けていてもどうしても罪を犯してしまいますが、そのたびに祈って悔い改めへと導いていただければいいのだなぁと思うようになって、とても気持ちが楽になりました。そしてそのことを実践していくようになりました。今でも、罪とは決して無縁ではありません。でも、その都度神さまからご指摘をいただいたり、気付かせていただいたときには、すぐに祈って赦しをいただくことを習慣としています。今回の箇所を通して、これからさらにそのようなスタンスで歩ませていただければなぁと、思います。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。