聖書箇所 創世記20:5,6

 

20:5 彼は私に、『これは私の妹だ。』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ。』と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」

20:6 神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。

 

「心の思いをご覧になる神」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

この場面は、アブラハムがゲラルに滞在していた時のことです。その時にアブラハムはゲラルの王アビメレクに自分の妻であるサラのことを「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクはサラを召し入れたのです。しかし実際にサラはアブラハムの妻だったので、神は王アビメレクに忠告を与えました。「あなたが召しいれた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である」と。その流れの中で冒頭のみことば、つまり王アビメレクと神との対話がなされているのです。王アビメレクは、本当にサラはアブラハムの妹だと思っていたのです。ゆえに「私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」と言いました。それに対して神さまは「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。」と答えました。続いて、「それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ」と言われました。このふたりの会話を通して何か語りかけを感じませんでしょうか?

 

もし、私たちが王アビメレクのように何も知らずに誤った方向へ進んでいこうとするときに、心の思いを神さまに正しいと判断していただくなら、神さまのほうからストップを掛けてくださるのです。そして心が正しい、という風に神さまが判断されたときに、「罪を犯さないようにしたのだ」とありますように、「罪」から守っていただけるのです。これは裏返すと、もしこの時、王アビメレクの心が正しくなった場合、別の結論になっていた可能性がある、と言えるのです。もしかするとそのまま「罪」に引っ張られてしまったかもしれません。王アビメレクが「罪」を犯すような方向性に行くことを、神さまがお許しになっていた可能性があるのです。しかし王アビメレクは神さまの前に「心が正しい」という風に見なしていただいたので、「罪」から守られた、ということを言われているのです。このことを通して知らなければいけないのは、私たちの心の思いがどんな状態なのか?心がどっちの方角に向いているか?によって、神さまからの扱いが変わってくる、ということです。たとえば箴言に「燃えるくちびるも、心が悪いと、銀の上薬を塗った土の器のようだ。」とあります。ちなみに口語訳では「くちびるはなめらかであっても、心の悪いのは上ぐすりをかけた土の器のようだ。」とあり、新共同訳では「唇は燃えていても心に悪意を抱いている者は、混じりもののある銀で覆った土器のよう。」とあります。いずれも、口ではいくら良いことを言っていたとしても、しかし心が悪い、というのはNGだということです。このことからも、神さまは私たちの口先だけではなく、心が良いのか?悪いのか?もご覧になられていることが理解できますよね?ですから事の他、「心の思い」が大事だ、ということをお分かりになるのではないでしょうか?

 

話は元に戻りますが、私たちが何かをしようとするときに、良い心で行うのと、そうでないのとで、「罪」を犯すことになるのかどうか?ということにまで関わってくる、ということか理解できますよね?王アビメレクはアブラハムの妻サラに関して勘違いしていたものの、あるいは知らなかったものの、しかし正しい心だったので、「罪」から守られたわけですから、それと同じように、私たちもあらゆる事柄に関して、正しい心で行ったのか?そうでないのか?によって結論が大いに変わっていく、という面においても心に留めておきたいと思います。箴言の別の箇所で、「打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹の底まで打ちたたけ。」ということが書かれていますが、私たちはぜひ、心の奥底まできよめられていきたいと思います。

 

繰り返しになりますが、神さまは私たちの心がどういう状態なのか?によって、対応を変えるお方のようですので、このことに恐れを持っていつも心を正していきたいと思います。私たちが正しい心でいるときに、神さまはあらゆる悪しき事柄から守ってくださいます。しかし反対に、私たちの心が悪い思いに満ちているときに、「罪」に渡されてしまうこととなり、はたまたさいごまで心を正さずに悪い状態で生涯を終えてしまう、という場合に・・・「罪」とは「永遠の死」や「永遠の滅び」のことをも言われていますので、もしかすると永遠の命を得られない可能性がありますので気を付けていきたいと思います。もし、そうかも知れない、なんて少しでも思われましたら、神さまの前にいつも正しい心でいられるように、ぜひ祈り求めていきたいと思います。

 

生きていると色々なことがあって、個人的なことを言わせていただくなら、正直、神さまの前に正しい心を保つのは、難しいなんて思うことが多々あります。でも、いつだか新約聖書から「良心」について学びをしたときに、基本的に私たちの良心は邪悪な思いで満ちている、でもきよめられていきましょう!なんてことを教えていただいたので、そのことを信じて日々、細々と祈り求めております。口先や行動はともかく、しかし心が悪いというときに、私自身「罪」に入ってしまうことがよくあるからです。なので、今回の聖書箇所は「その通りだ!」と自分の苦い体験を通して同感させられます。ふと気が付くと、ろくでもないことを考えている自分がとても恥ずかしいのですが、でも、今回の学びを通してやはり心の奥底まできよめられていかなければ、なんていう風に思わされました。人前も大事かもしれませんが、しかし心の行き着く所まで見抜き見通しの神さまを恐れて、神さまの前にいつも正しい心で歩んでいけたらいいなぁと思います。今回も大事なポイントについて語ってくださった神さまに感謝します。