聖書箇所 創世記21:8

 

21:8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。

 

「乳離れ」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

一般的に生まれたばかりの赤ちゃんは、しばらくの間、ミルクを飲んで育ちますよね?そしてある程度経ったら、だんだんと離乳食へと移っていくと思います。さらに歯が生えてくることによって、柔らかい物から堅い物も食べられるようになりますよね?

 

今話したことは、ごくごく一般的な事柄ではありますが、聖書においても「乳離れ」ということについて言われています。そんなことを聞いて、「ええっ?大人になっても、まだミルクだけで生きている人がいるの?」なんて思われるかどうかは分かりませんが、聖書で言う「乳離れ」とは、みことばや霊的な事柄に関するたとえであります。そういった概念に基づいて、今回の箇所を通して神さまが語っていることについて、よろしければ共に学んでいきましょう。

 

「その子」とは、アブラハムの息子、イサクのことです。たしかにイサクも赤ん坊の頃はミルクを飲んでいたのでしょう。しかし、今しがた話しましたように、単にそれだけではなく、たとえとして言われていることがありますので、見てみたいと思います。そして冒頭のみことばによると、イサクの父、アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を行いました。少し考えてみましょう。たとえば、あなたが赤ん坊の時に、ミルクから離乳食に変わったということで、親御さんが何かこう、特別なことをされたでしょうか?少なくとも私に関しては、それは皆無です。けれどもアブラハムは息子のために、わざわざ宴会を催したのです。ゆえに「乳離れ」ということが聖書において特別な意味合いをもたらす、という風に理解できるのではないでしょうか?さて、では「乳離れ」とは、何を意味するのか?について他の箇所を通して見てみましょう。

 

参照 ヘブル人への手紙5:1114

5:11 この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。

5:12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、を必要とするようになっています。

5:13 まだばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。

5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

 

ここで、「乳」ということばが出てきます。これは先ほどの「乳離れ」の「乳」に通じます。そして、「乳」とは、12,14節の「堅い食物」の反対語、すなわち「柔らかい食物」のことを指します。「食物」とはパン、すなわちみことばを指します。さらに「堅い食物」とは、「神のことばの初歩」の反意語、つまりみことばの表面の意味合いだけでなく、たとえの意味合いや奥義に通じていることを意味します。ですから「乳ばかり飲んでいる」とか「乳を必要とするようになっている」とは、それらのものに到達していない状態、いわば聖書のことばの表の意味合いだけを理解していて、裏の意味合いには通じていない、ということを言われているのです。そうするとどうなるのか?について、13節にその答えがあります。「乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じていません」と言われていますように、「義」(KJV:正義)について理解していない、ということになるのです。ちなみに「義」ということばで思い出すことがあります。それは「公義」ということばです。このことばは日本語だと分かりづらいのですが、英語では“judgment”(裁判、判決)とあります。これは当たっているかどうかは分かりませんが、みことばの表面の意味合いしか理解していない、というときに、もしかすると神さまの判決、すなわちさばきに関してあまり良く分かっていないと、そんな風に読み取れます。また、14節にありますように、良い物と悪い物とを見分ける感覚が身に着いていない、ということになってしまうようです。たしかに救われて間もないのでしたら、生まれたばかりの赤ん坊のように乳ばかりを飲む、というのも有りだと思います。まずは、基本的には聖書の表の意味合いを読み取ることが大事だからです。しかし、12節に、「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです」とありますように、もう何年、何十年とクリスチャン生活を送っていながら、「神のことばの初歩~必要がある」というのでは、若干問題があるのでは?ということを言われているのです。なので洗礼を受けてある程度の年数を経たのなら、「堅い食物」すなわちみことばに関してたとえの意味合いや奥義に通じていくことに御心があるのです。

 

そして回りくどい言い方になりましたが、「乳離れ」とは、「堅い食物」を食すこと、つまりみことばの表の意味合いだけではなく、たとえや奥義のことも理解する、ということを言われているのです。そしてアブラハムは息子イサクが乳離れしたことを大いに喜び、盛大な宴会を催したのです。このことはある型をあらわしていると思います。前にも話しましたが、アブラハムはサラの夫、イサクの父であると同時に、しかし天の父なる神さまやイエス・キリストを指すたとえでもあります。そのように見ていくときに、私たちが乳離れして、堅い食物を食べるようになることを天の父なる神さま(イエスさま)がお喜びになる、ということが理解できるのではないでしょうか?そう、聖書のことばは神さまご自身で、神さまが書かれているものなので、私たちが乳離れすること、要は表面のことだけでなく、本来神さまが意図されておられるたとえの意味合いやみことばの奥義に関して少しずつでも知ることを神さまが望んでおられるのだということがお分かりになると思います。

乳離れ、つまり堅い食物に通じていくことが条件のひとつになる可能性があると思うのですが、いかがでしょうか?断定はできませんが、しかし乳離れしていないというときに、義の教えに通じていないとも言われていますので・・・そしてもし、義の教えに通じていなかったり、良いものとそうでないものとの分別がつかない、というときに・・・たとえば聖書にはキリストと苦難を共にする人が御国を相続することが言われているのですが・・・このことはある意味、御国の奥義の事柄ではありますが、しかしそれを理解せずに、クリスチャンは皆、天の御国に自動的に入ります、なんてことを思い込んで、そのことに則して歩みをしないというときに、天の御国に入るのは難しいと思いますので、乳飲み子のままでクリスチャン生涯を終えてしまうときに、クリスチャンが入るべき所(天の御国)に入れなくなってしまう可能性がありますので、堅い食物に通じていくことが、御国に入るための条件のひとつだということは、当たらずとも遠からずとも思うのですが、どうでしょうか?そしてもし、そうかもしれない、なんて思われましたら、聖書のみことばの裏の意味合い、すなわちたとえや奥義を少しずつでも理解していきたいと思います。

 

それではさいごに「乳離れ」をして、「堅い食物」を食すポイントについて少し話をしたいと思います。そのヒントについて、下記みことばを参照してみましょう。

 

参照 マタイの福音書13:111

13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。

13:2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。

13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。

13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。

13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。

13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。

13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。

13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。

13:9 耳のある者は聞きなさい。」

13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」

13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません

 

上記箇所は有名なところなので、多くの方がご存知だと思いますが、イエスさまが、彼につき従っていた群衆や弟子たちに話されたことです。しかし、たとえで語られていたために、群衆には理解できませんでした。でも、弟子たちにはのちにその意味合いを教えてくださいました。そして弟子たちには「神の国の奥義を知ることが許されている」と言いました。しかし「彼ら(群衆)には許されていません」と言いました。このことから、もう、お分かりだと思いますが、残念ですが、「群衆」にとどまっている、という時に、みことばの奥義に通じることはありません。これは私が言っているのではなく、イエスさまが言われていることなので、いかんせん認めるしかないのです。ですから、もし聖書のみことばのたとえの意味合いや奥義に通じていきたい!知りたい!のなら、イエスさまの弟子になることです。弟子になるなら、教えていただけるのです。なので、ぜひ、そのような導きを感じましたら、実践していきたいと思います。そして神さまが本来意図されているみことばの奥義を知り、神さまの御心を正しく行っていけるように祈り求めていきたいと思います。

 

再度繰り返しますが、神さまは私たちクリスチャンが「乳離れ」することを望んでおられます。もちろんそれは強制ではありませんが、聖書がおすすめしていることですので御心を感じましたら、ぜひ行っていきたいと思います。

 

かつてレムナントキリスト教会の礼拝のメッセージで、みことばの奥義の意味合いをきちんと理解するか否か?によって、永遠の区分をもたらす、ということを教えていただいたことがあります。一見聞くと、「本当?」と思わなくもないかもしれません。でも、毎週ごとにメッセージを通してみことばの奥深い部分を教えていただいていく中で、「それは真実かもしれない!」と思うようになり、今ではそのことは、私の内側においてほぼ確信になりつつあります。また、およばずながら、弟子の歩みにも参加させていただくようになり、少しずつではありますが、奥義に通じていくようにもなりました。もちろん、まだまだみことばに関して分かっていない部分のほうが多いのですが、しかしこれからも徐々に理解できたらなぁと願っています。今回も大事なポイントに関して語ってくださった神さまに感謝します。