聖書箇所 創世記23:13

 

23:13 その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げて言った。「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」

 

「代価」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

「代価」ということばを聞いて、どんなことを思い浮かべるでしょうか?一般的には、商品や食品などの品物の値段とかを連想しますよね?そして国語辞典によると、「あることを行うために必要な犠牲」とあります。ここでアブラハムは妻のサラが死んだので、彼女を葬るための畑地が必要となりました。その際に、代価をヘテ人エフロンに払うことになりました。その前の11節を読むと、「畑地をあなたに差し上げます」とエフロンは言ったのですが、しかしアブラハムはそれを断って、あえて代価を払って畑地を手に入れることをエフロンにお願いしました。そうするなら、「死んだ者を葬ることができる」とアブラハムは言ったのです。

 

さて、このことを聞いてどう思われますか?縁起でもないことで恐縮なのですが、もし、私たちがアブラハムと同じ状況になったときに、「無料でお墓の土地を差し上げますよ」なんて言われたら、普通の人なら思わず飛びついてしまいますよね?エフロンはアブラハムにそのようなことを言ったのですが、しかしアブラハムはそれを断って、わざわざ代価を払う、と言ったのです。そして今回は「代価」の意味合いについてご一緒に考えてみたいと思います。「代価」に関して書かれている他の聖書箇所を見てみましょう。

 

参照 Ⅰテモテへの手紙2:6

2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

 

ここでも「代価」ということばが出てきます。KJV訳で「贖いの代価」のところは“ransom”(身代わり)とあります。そしてキリストは誰の身代わりになったのか?と言うと、「すべての人」の身代わりになったのです。これは何を言っているのか?と言うと、キリストが私たちを罪から救うために、すべての人の犠牲となってご自身の命を十字架で捧げられた、ということを言われているのです。そしてこのことはアブラハムがサラを葬るために畑地の代価を払ったことに通じるのです。そう、いつも申し上げていますが、聖書はイエス・キリストを証する書でありまして、ここに登場するアブラハムもイエス・キリストの型なのです。私たちの罪を葬って命(永遠の命)を得させるために、イエス・キリストはご自分の肉体の命を犠牲にしてくださったのです。それこそはじめに「あることを行うために必要な犠牲」という話をしましたが、「代価」とは、私たちを死(滅び)から免れさせるために、キリストが十字架にかかってくださり死んでくださった、つまり私たちのために命を犠牲にされたということなのです。ご自分の命を捧げ、その代わりに私たちクリスチャンを買い取ってくださったということを言われているのです。そう、イエスさまの十字架での犠牲のゆえに、私たちクリスチャンは救われたのです。改めて考えてみると、すごいことですよね?そしてそうまでして救ってくださったイエスさまに対して、私たちはぜひ、ほんのわずかでも恩返しをしていきたいと思います。

 

「恩返し」ということで、私個人が示されたみことばがあります。ヨハネの福音書に、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。「友」とは、友人のことを言われているかもしれませんが、しかしこれはイエス・キリストのことをも言われています。たとえばあなたが友人から何か良くしていただいたらどうでしょうか?もし、その友人が何か困ったりしているのを見たら、できることをしていこう!なんて思って手を差し延べますよね?それと同じように、たとえ目には見えなくても、しかしイエスさまを本当に「友」と思うなら、イエスさまの喜んでくださることや必要としていることをしていきたい!なんていう思いになりませんでしょうか?もちろん一切強制はありませんが、しかし私たちのために命まで捨ててくださったのですから、私たちもイエスさまのために多少なりとも犠牲を払ってもいいかなぁ、なんていう風に思いますよね??もちろんもちろん、強制ではありません。でも、「人がその友のために~」と書かれていますので、もしかすると、神さまは、イエスさまは、そういうことを望んでいらっしゃるのでは?と思います。

 

繰り返しますが、イエスさまは私たちを救うために、永遠の命を与えるためにご自分が身代わりとなって、十字架で命を捧げられました。そんなことはクリスチャンの間では常識かもしれませんが、しかしこのことを粛々と受け止めて、少しでも神さまがお喜びになることや御心を行っていきたいと思います。福音書に「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」ということが書かれていますので、もし御心を感じましたら、ぜひ実践してみてください。生涯にわたって行っていくときに、「みこころを行なう者がはいる」ということばが成就しますので、私個人としてはこのことを、おすすめいたします。しかしこのように書かれているということは、裏返すなら、また、いくら自由意志を尊重される神さまではあっても、みこころを行わない、というときに、御国に入れない可能性がありますので、そのあたりは恐れを持っていきたいと思います。よろしければこういうポイントについても、見ておいていただけたらと思います。

 

最近礼拝のメッセージで、「贖い」について聞いていく中で、イエスさまが自分の罪のためにも犠牲なってくださったことを改めて考えてみました。そのメッセージの中で、私たちはキリストから恩を受けたので、少しでもキリストに恩返しをしていきましょう!とおすすめをされていたのですが、本当にその通りだ!とうなずくものがありました。日々、お祈りをしたり、聖書を読んだりしているのですが、でも、改めて考えてみると、そんな風にできるのは、まさにイエスさまが犠牲になってくださったからだなぁと思いました。いつも当たり前のように、クリスチャン生活を送っている自分がいるのですが、でも、すべてはイエスさまのおかげということを心に留めながら、神さまの御心をほんのわずかでも行えたら・・・なんていう風に思いました。今回も大事なポイントについて語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。