聖書箇所 創世記24:50,51

 

24:50 するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。

24:51 ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」

 

「神から出たこと」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

冒頭の節だけを読んでも今ひとつピンと来ないと思いますので、背景を少し説明させていただきます。まず、このことばは、アブラハムのしもべに対して言われたことです。アブラハムのしもべはアブラハムの故郷へ行って息子イサクのために妻を迎えるよう託されました。そして実際にその地に行き、イサクの妻にふさわしい女性、リベカに会うことができました。その後しもべは、リベカの家に行き、リベカの兄ラバンと父ベトエルに会い、リベカさんをイサクの妻にどうでしょうか?という風に問いました。その時に彼らが返答したことが、冒頭のみことば「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」です。そして結論としてリベカはイサクの妻になったのです。

 

さて、これはイサクが誰を妻に迎え入れるか?という話ではありますが・・・普通に考えれば、リベカが了承すればそれでOKじゃあないの?と思われるかもしれません。たしかにそれも一理あるのかも知れませんが、しかしここで少し目を留めていただきたいことがあります。それは「神から出たこと(KJV訳:発したこと)」ということばです。リベカをイサクの妻にする、ということは、じつは神さまから出たことだったのです。なぜ、そんな風に言えるのか?と言うと、その前にしもべは彼らに事の経緯を話していたのです。42節から48節を見てみましょう。

 

参照 創世記24:4248

24:42 きょう、私は泉のところに来て申しました。『私の主人アブラハムの神、主よ。私がここまで来た旅を、もしあなたが成功させてくださるのなら、

24:43 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。おとめが水を汲みに出て来たなら、私は、あなたの水がめから少し水を飲ませてください、と言います。

24:44 その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう。」と言ったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』

24:45 私が心の中で話し終わらないうちに、どうです、リベカさんが水がめを肩に載せて出て来て、泉のところに降りて行き、水を汲みました。それで私が『どうか水を飲ませてください。』と言うと、

24:46 急いで水がめを降ろし、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言われたので、私は飲みました。らくだにも水を飲ませてくださいました。

24:47 私が尋ねて、『あなたはどなたの娘さんですか。』と言いますと、『ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘です。』と答えられました。そこで私は彼女の鼻に飾り輪をつけ、彼女の腕に腕輪をはめました。

24:48 そうして私はひざまずき、主を礼拝し、私の主人アブラハムの神、主を賛美しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。

 

読んでご理解いただけますように、しもべはイサクの妻のことで神さまの御心を求めました。その結果、しもべが祈った通りになったのです。そのことを聞いたラバンとベトエルはリベカがイサクの妻になることは神から出たことである、という風に理解をし、納得したのです。ゆえに「私たちはあなたによしあしを言うことはできません」という風に言われたのです。これはイサクとリベカの結婚の話ではありますが、しかしこのケースにかぎらず、どんなことであっても、もし神さまから出たことだと判断した場合に、「よしあし」を言うことはできないのです。私たちの理性や感情や思惑は一切関係無しにそのことに従うべきだ、ということをこの箇所ではストレートに語っているのです。たしかに私たちには思いや考えや好みがあると思います。しかし一旦神さまが「こうだ!」とか「このように進みなさい!」と言われたときには、すべてのものを振り捨てて従っていくのです。そうするなら、恵みや祝福を受けるのです。「こういう事情があるから無理なんですけど~」なんてことは、神さまの前にどうも認められないようです。神さまが決めたことに関しては、私たちは一切口出ししてはいけないことが分かります。もし、万が一にもそんなことをしてしまった場合にどうなってしまうのか?について、少し見てみましょう。

 

参照 使徒の働き5:38,39

5:38 そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。

5:39 しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」彼らは彼に説得され、

 

上記みことばは、使徒たちの働きについて言われています。ここではっきりと「その計画(KJV訳:助言、忠告)や行動(KJV:働き)が人から出た者ならば、自滅する((KJV訳:ゼロ、無し、無益)」とあります。働きに関して、もし人の考えや思惑で進められ、行われた場合は自滅してしまうことが分かります。しかし、39節「もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼす(KJV訳:ひっくり返す、打ち倒す)ことはできない」とありますように、神さまから出た働きにおいてはそれを崩すことはできない、ということを言われています。さらに、「もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者(KJV訳:神に対して戦闘する者)になってしまいます」と言われているように、神さまから出た働きを妨害したり、留めたりしようとするときに、神さまに反発することになってしまうのです。なので、よくよく気を付けていきたいと思います。もし、本当に神さまから発している働きがあって、ろくに吟味もせずに人間的な思いや判断を優先して留めるような行動に出た場合に、神さまから怒りを買う可能性があります。その前の節で、「というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました」とか「その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました」とあるのですが、使徒たちの働きに反乱を起こした人は滅んでしまい、また、彼に従った人たちはみな散らされてしまったのです。なので、神さまの働きを妨害したり、留めたりした場合に、最悪滅ぼされてしまう、ということには恐れを持っていきたいと思います。もし、滅ぼされてしまったら、どうでしょう?天の御国に入れるでしょうか?どうでしょうか?私は恐らく、厳しいのでは?と思います。ですから働きのことをはじめ、あらゆる事柄に関してむやみやたらに、「これは神さまからではない!」なんて安易に決め付けたりせずに、まずは聖霊にあってきちんと吟味していきたいと思います。その上で正しく判断していきたいと思います。また、もし仮に、神さまから出たものでない、ということが判明したとしても、「あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。」という風に言われていますので、放っておくのが安全だと思います。

 

繰り返しますが、イサクとリベカの婚姻が神さまから出たことのゆえに成立したように、私たちのありとあらゆる事柄においても、神さまから出たことは必ずそのようになっていきますので、素直に従っていきたいと思います。また、神さまから出たものと、そうでないものとの区別は意外と難しいケースが多いので、万が一にも、「これは絶対に違う!」なんて思われたとしても、「ひょっとしたら0.01%の確率で、もしかすると神さまからからも知れない」と、今一度神さまを恐れて謙遜な態度を取っていたいと思います。そして、そうではない!としても、留めるような行動に出ることの無いようにしたいと思います。万が一にも、神さまから出たことでしたら、御怒りを買ってしまい、入れると思っていた天の御国に入れなくなってしまう可能性がありますので、「放っておく」ことをおすすめいたします。よろしければ、神さまから出たことに恐れを持って歩みをしていきたいと思います。

 

エレミヤ牧師から聞いた話ですが、大分前にレフトビハインドの本がキリスト教書店に置かれた時のことです。その時すでにエレミヤ牧師が「艱難前携挙説」は作り話、空想話、ということをHP上でお話されていたとのことですが、ちょうどその本が出たばかりの時に、クリスチャン新聞がある教会の牧師に本へのコメントをお願いしたそうです。そうしたら、ひとりの牧師が「レフトビハインドは終末の空想話です」という風なことを本のコメントとして書いたらしいです。今はどうか分かりませんが、私をはじめ、当時「艱難前携挙説」を盲信しているクリスチャンは結構多かったのではないか?と思います。しかし、そのようなコメントをしてくださった方はそんな中、「艱難前携挙説」はおかしいと判断されたのでしょう。その結果、「終末の空想話」というコメントをされたのでしょう。私自身も、今ではそう思っています。でも、まだエレミヤ牧師のメッセージを読むまでは、クリスチャンは、艱難は通らずにその前に天に挙げられる、ということを信じていました。しかしエレミヤの部屋のメッセージを通して、仮に艱難前携挙説を信じる人が大多数であったとしても、それは違う、ということをハッキリ理解しました。なぜ、理解できたのか?と言うと、神さまから出たメッセージだからです。なので、この先、いくら多くの人がこのことに反論したとしても、恐らく覆すことは無理だと思います。いくつものみことばからクリスチャンは艱難を通ることがハッキリと証されているからです。ですから、この教理は神さまの前に残るのでは?と思います。これからも色々な学びを受けていくと思いますが、神さまから出たものには、くれぐれも恐れを持っていきたいなぁと、今回の箇所を通して思わされました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。