聖書箇所 創世記27:13


27:13 母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」


「聖霊の語りかけ」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。


上記みことばの「母」とはリベカのことです。「彼」とか「わが子」とは、リベカの息子ヤコブのことです。そして母リベカがどんな背景でこのようなことを言われたのか?と言うと、27章のはじめのほうから読んでいくと分かるのですが、父イサクがヤコブの兄エサウを祝福するために自分のためにおいしい料理を作ってくるよう、彼(エサウ)に命じました。その話を聞いていたリベカはそのことをヤコブに伝えて、「群れのところに行って最上の子やぎを私のところに持ってきなさい、そしてそれで父上(イサク)の好きなおいしい料理を私が作るので、あなたがそれを父上に持っていきなさい。そうすれば父上が死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう」と言いました。しかし、そこには問題がありました。兄エサウは毛深い人で、ヤコブの肌はなめらかだったので、いくら年老いて視力が衰えているイサクとはいえ、触ればすぐにバレてしまいます。ゆえにヤコブは「もしや父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう」とリベカに言いました。それに対して言われたのが、冒頭のみことばです。


さて、皆さまも聖書をよく読んでおられると思いますが、私自身、幾度か通読している中で気付いたことがあります。それは聖書には「父」とか「母」ということばがよく使われているなぁということです。今回の箇所においても、「母」ということばが出てきます。これはもちろん実際の親子関係、すなわち人間としてのエサウとヤコブの母、ということもあります。しかもどうでしょう?「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい」なんてことをリベカは言っていますが、正直、リベカって随分傲慢で自信の強いお母さんだなぁ、なんてことを私は思いました。ただしそれはたとえの意味合いを理解する以前のことではありますが・・・また、「父」とか「母」とは、肉親の親子関係の他に、教会の牧師とか指導者とか教師のことをも言われています。しかしこの箇所において、「ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい」とリベカは命令口調で言っています。しかもかなり強固な確信を持って、言われています。ちなみに「私の言うことをよく聞いて」のところはKJV訳では「私の声に服従しなさい」とあります。「服従」、すなわち「従いなさい!」とまで言われているのです。いかがでしょうか?たしかに、そして基本的には肉親の父や母、そして教会の牧師の言うことには聞き従うべきではあります。でも、もし、万が一、親御さんが、「誰かを無差別に殺してきなさい」とか「お店のこれこれの商品を盗んできなさい」なんて言ってきたらどうしますか?従いませんよね?また、属している教会の牧師さんが「隣人を憎みなさい」と言っても、従わないと思います。いずれも、みことばに反することなのでそういう場合は従ったらダメなのです。しかし唯一、何が何でも従っていかなければならないお方がおります。それはまさに天の父なる神、イエス・キリスト、そして聖霊の声であります。そう、そして「私の声に服従しなさい」と言われたリベカは、ある意味「聖霊」の型なのであります。つまり「父」とか「母」とは、天の父なる神さまとかイエス・キリストとか聖霊のことをも言われているのです。また、かつてアブラハムの妻サラのことを「聖霊」のたとえだという風に説明したことがあったと思います。それと同じように、ここに登場する母リベカも「聖霊」の型として描写されているのではないかと思われるのです。それでも、そんなはずはない!と思われる方もおられるかと思いますので、「父」や「母」に関して説明しているみことばがありますので、紹介したいと思います。


参照 箴言1:8,6:20

1:8 わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。

6:20 わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。


ここでも、「父」と「母」ということばが出てきます。そして「聞き従え」とか「教えを捨てるな」とか「命令を守れ」とか、何かこう、「父」「母」に対して、「絶対的な服従」というニュアンスを感じませんでしょうか?ここまで聖書がハッキリと自信を持った言い方で書かれているということは、これは人間レベルを超えているという風に私個人はとらえました。つまり、私たちクリスチャンの霊の父や母である「神さま」とか「イエスさま」とか「聖霊さま」の訓戒や命令や教えには、何が何でも聞き従うべきだ、とそのように解釈しました。そしてここで使われている「母」ということばは、まさしく冒頭の「母」と同じ意味合いで使われているのでは?と思いますが、いかがでしょぅか?


そう、そして創世記に戻りますが、リベカはヤコブに若干無理難題なことを言われていますが、しかし、それは聖霊さまが言われていることでして、ゆえに「あなたの呪いは私が受けます」と言われたのです。明らかにリベカが命じていることは人間的には非常識のように思えます。何と言っても、父イサクをだますことなのですから。しかし、そこには神さまの深い意図やご計画があり、聖霊さまはそのことをよくよく御存知で、「私の声に服従しなさい」と言われたのです。当たり前のことですが、神さまのなさること、聖霊さまが語ることには、一切の誤りや間違いはありません。たとえどんなに人間的には常識を超えていることであっても、しかしそれは神さまの前には正しいのです。ゆえにもし、聖霊さまが語ったのなら、私たちはその声に従うべきなのです。反対にもし、従わない、というときに、「呪い」が私たちの上にかかってしまう可能性があります。なので要注意です。そして結果として、ヤコブは母リベカ(聖霊)の声に従い、父イサク(祝福を与えるという意味合いから天の父なる神さまの型と思われる)から祝福を相続することになりました。従う前のヤコブにとっては、まさかそのような結果になるなんてことは夢にも思わなかったことでしょう。しかし実行に移したのちには、彼にとって祝福は現実のものとなったのです。このことから私たちも教訓を受けるべきだと思います。神さまから祝福を受けるというときに、それは何もしないで受けるということは、ほぼ皆無だということです。アブラハムがイサクを祭壇に捧げることによって義と認められて「祝福」に入ったように、「祝福」の前には必ずと言ってよいほど、神さまへの服従が要求される、というポイントは覚えておくと良いと思います。アブラハムも神さまにイサクを捧げるよう、神さまに求められ、その声に応じました。その結果として「祝福」を得たのです。ゆえに私たちも同じようなものだという風に考えて間違いが無いと思います。ヤコブにしても同じです。もし、ヤコブが母リベカの語る声に応じなかったら、恐らく「祝福」を逃していたと思います。それどころか「呪い」や「災い」を最悪招いた可能性もあるでしょう。ですからもし、「祝福」に入りたい、得たい、ということでしたら、神さまやイエスさまや聖霊さまが語る声にその都度きちんと応じていくことだと思います。そうするなら、アブラハムやヤコブのように、もれなく「祝福」が約束されていくでしょう。反対にいつも聖霊の声に逆らってばかりいくときに、この世においてもそうですし、死後、ろくでもない結論を招いてしまいますので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。もし、「祝福」を求めるのでしたら、こういうポイントについても見ておいていただけたらと思います。


もう随分前のことですが、私はある人から理不尽なことをされました。しばらくその人への苦い思いが消えませんでした。でも、「それでは良くない」と思って、お祈りしました。するとある本を通して神さまからの語りかけを受けました。「その人を許してやりなさい」と。そしてその週の日曜日の礼拝の時に、献身者の方にお願いして、「これこれこういうことがありました。でも、私はその人を許したいと思います。どうかそのために一緒にお祈りください」と。はじめに献身者の方が私のためにお祈りくださいました。続いて私も一緒に祈りました。しばらく祈っていく中で、感謝の思いが沸いてきて、苦い思いから徐々に解放され、祈り終えるともう、すっかりその人への嫌な思いが消えていました。その時に思いました。「あの時の声は神さまからだったのだ」と。そしてその声に従って本当に良かったと思いました。反対にもし、神さまの言われることを聞かなかったら、全く違う結論になっていたのでは?しかも良くない方向に行ってしまっていたのでは?と思います。そしてクリスチャン生活とは、そういった繰り返しであり、その延長線上に永遠の命がまさに約束されているのでは?と思います。これからも色々な形で従いが要求されていくと思いますが、すぐに応じられるかどうかは別として、方向性としては「服従」に徹していけたら・・・と、それがたとえ自分の思いや考えとは異なっていても、そういった歩みをしていけたらなぁ、という風に思いました。今回も大事なポイントに関して語ってくださった神さまに、栄光と誉れがありますように。