聖書箇所 創世記29:14

 

29:14 ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です。」と言った。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在した。

 

「キリストの骨肉になる」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

上記みことばはどんな場面か?と言うと、兄エサウが弟ヤコブを殺害しようと計っていたことが母であるリベカにバレたので、息子ヤコブにそのことを告げて、彼女の兄であるラバンの所にしばらく身を寄せなさい、と言われて、実際にラバンのところにヤコブが行った時のことです。その時にはラバンはヤコブに対して「あなたはほんとうに私の骨肉です」ということを言われました。そして今回は、「骨肉」ということばを通して、神さまが語っていることについて学んでいきたいと思います。

 

この世においてもそうですし、教会内においても「骨肉」ということばは、ほとんど耳にしないと思います。意味合いはすでにご存知だと思いますが、念のために辞書を引いてみると、「親子・兄弟など血がつながる者」とあります。要は「血縁関係」のことを言われています。そして事実、リベカはラバンの実の妹であり、ヤコブの実の母にもなるので、ラバンはヤコブから見ると血のつながった叔父にあたります。ゆえにラバンがヤコブに対して、「私の骨肉です」と言われたことはもっともなことなのです。そんな風に聞くと、信仰生活を送っていく上で、「血のつながりはそんなに大事なことなの?」と思われてしまうかもしれません。たしかにこの世において親、兄弟、親戚など、血縁関係というものはあります。だからと言って、たとえば家族や親族にクリスチャンがいないから、と言って、信仰生活に支障があるか?と言うと、それは全くありません。もちろん家族や親族の方々も救われていたり、クリスチャンであることに越したことはありませんが、聖書で言われている「血縁関係」のもっとも大事な事柄と言うのは、個々におけるクリスチャンがイエス・キリストの血縁関係が確立されているかどうか?ということです。あるいは教会においてもそうです。それぞれの教会とイエス・キリストがきちんとつながっているか?という点を言われているのです。そのようなことに類したみことばがありますので、参考までに見てみましょう。

 

参照 創世記2:23,24

2:23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

2:24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

 

23節の「人」とは、神さまが人類の最初に創造された「アダム」のことです。「女」とは、アダムの妻となった「エバ」のことを言われています。つまり人間の夫婦がここで誕生したことが理解できます。しかしそれと同時に、ここではたとえの意味合いもあることを見たいと思います。そしてエペソ人への手紙には「キリスト」と「教会」に関しての奥義について語られています。せっかくなので、その箇所も参考までに見てみましょう。

 

参照 エペソ人への手紙5:31,32

5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる

5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

 

先ほどの創世記2章24節のことばに着目してください。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」とあります。このことばと、上記の「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となるとは、全く同じことを言われているのにお気付きかと思います。続いて32節で「キリスト」と「教会」とを指す、ということが言われています。つまり「人(アダム)」は「女(エバ)」の夫であると同時に、イエス・キリストを指す型でもあるのです。また、「教会」や「クリスチャン」は「キリストの花嫁」とも言われているように、「女(エバ)」は、「教会」や「クリスチャン」のたとえでもあるのです。再び創世記2章のことばに戻りますが、「女(教会)」は、「人(イエス・キリスト」の「骨」や「肉」から造られたものだと理解できますよね?もちろん実際の人間としてイエス・キリストは、今地上にはおりませんので、物理的はそうではありませんが、しかし「霊」においては、教会やクリスチャンはキリストとは夫婦関係であること、すなわち血縁関係にある、ということは正しくとらえておきたいと思います。

 

さて、いましがた申し上げましたように、私たちクリスチャンや教会はたしかにキリストの骨肉であり、それは非常に尊いことではあるのですが・・・そして実際にそのようであって欲しいと願うのですが・・・しかし残念なことではありますが、終末は「背教」が起きることが聖書では預言されています。エレミヤ牧師によると、「背教」とは、「離婚」とか「離縁」という意味合いがあるそうです。そしてそれは、「教会」や「クリスチャン」と「キリスト」との関係を言われているように思います。本来はキリストの妻の立場である教会やクリスチャンが、キリストから離れていくと、そんなニュアンスです。「ええっ、何それ?そんなこと聞いたことがない、しかもそんなはずはない、毎週礼拝にも行っている、奉仕もしている、聖書も読んでいる、祈りもしている」とおっしゃる方もいるでしょう。もちろんそれはすばらしいことだと思います。でも、聖書に書かれていない教理(一例を挙げるなら、クリスチャンが艱難を通らずに携挙されるという艱難前携挙説)やキリスト以外の別の霊(一例を挙げるなら、トロントペンサコーラ等で下されている悪霊)を受けているなら、それはもはやキリストからは離れている、という可能性があります。なぜならみことばにこのようにあるからです。

 

参照 Ⅱコリント人への手紙11:4

11:4 というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、

 

このことばは、パウロの時代もそうだったかもしれませんが、世の終わり、すなわち終末に大きな規模で成就していくと思われます。もう、今すでにそのようなことは起きつつあるからです。先ほど一例に挙げた艱難前携挙説やトロントペンサコーラのリバイバル集会で下されている悪霊は、その最たるものではないでしょうか?もちろんそれはほんの一例でありまして、他にも「地獄は無い(ローマ・カトリック教会で言われているもので、神はあまりにも愛のお方であるゆえに人を地獄へは行かせない)」とか、「セカンドチャンスがある(プロテスタントの某メッセンジャーが唱えたもので、イスカリオテのユダも天国に入った、死んでからもチャンスがあるから大丈夫といった教え)」とか、「福音の総合理解(福音は総合的に見るべきであり、行う必要は無いという教え)」とかも、「異なった福音」だと思います。そのようなものを吟味も無く受け入れ続けていくときに、あわやキリストとの婚姻関係を破棄されてしまう危険性を上記みことばは語っているように思うのですが、私の気のせいでしょうか?そして、もし別の福音や異なった霊を受けていくときに、入れると思っていたはずの天の御国をすべってしまう可能性がありますので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。

 

ゆえにここでのポイントとしては、個々におけるクリスチャンにおいても、教会においても、「キリストの骨肉」になっていくことです。そのことを終わりの時まで保ち続けるなら、天の御国に入れるでしょう。具体的には、みことばに則した歩みや働きをしていくことだと思います。そうしていくなら、キリストの骨肉になれると思います。たとえば人間の血縁関係において、一般的には財産は血のつながった子どもとかに相続されると思います。しかし、もし何かの事情で、たとえば子どもが家出をしてしまったり、あるいは親から勘当されたなどの理由で、血縁関係が無効になる、というときに必ずしも実の子どもが財産を相続するとはかぎりませんよね?それと同じように、もし、私たちがキリストとの血縁関係が切れてしまうというときに、いくらクリスチャンと称していても、あるいは信仰生活を続けていたとしても、天の父の財産を相続することは無理なのでは?と思います。ゆえに本当に天の御国や天の父なる神さまの財産の相続をお考えでしたら、そのあたりのことはまじめにとらえていきたいと思います。重ねて申し上げますが、私たちクリスチャンや教会は、キリストの骨肉の立場として召されておりますので、それにふさわしい歩みをぜひ全うして、キリストと共に後の世を継いでいきたいと思います。