聖書箇所 創世記30:28


30:28 さらに言った。「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう。」


「報酬は後の世で受ける」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。


突然この箇所だけを示されても今ひとつピンと来ないかもしれませんので、少し説明します。このことばはヤコブの叔父ラバンが、甥のヤコブに発したことばです。ヤコブは自分の命を狙っている兄エサウから逃げて、母リベカの兄であるラバン(ヤコブから見ると叔父)のところに身を寄せました。そしてそのひと月後にラバンはこのように言いました。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください」(創世記29章15節)と。ラバンにはふたりの娘(姉:レアと妹:ラケル)がいたのですが、その時にヤコブはラバンの下の娘(ラケル)のために七年間仕えましょう、と答えました。結果としてラケルはヤコブの妻になったのですが、しかしレアも彼の妻として与えられました。つまりレアのために七年間、ラケルのために七年間、さらにそれから七年間、計21年間ラバンに仕えました。そのような一連の流れに続いて、書かれているのが冒頭のみことばなのです。「あなたの望む報酬を申し出てくれ」と。


さて、今回は「報酬」ということばを取り上げてみたのですが・・・それに関連して、たとえばこの世においても「報酬」をいただく、なんていうことがあると思います。それはどんな時か?と言うと、身近なところではアルバイトとかをして働いたら、のちに賃金をいただきますよね?それがまさに「報酬」ですよね?時給900円の約束で3時間仕事をしたら、2,700円が当たり前のように支払われますよね?そのようなことと比較してはなんですが、私たちクリスチャンもそれと同じく、神さまの働きに携わっていく、というときに、「報酬」をいただけるのです。ただし、いついただけるのか?については、この世のこととは少し異なります。先ほどのように、この世で仕事をした場合は、給料日になったら手渡しでいただくか、あるいは口座のほうに振り込まれますよね?でも、神さまの働きに関しては、この世ではなく、「後の世」でいただくことになります。もちろん神さまの働きをしてこの世でも報いを受ける、ということも時としてあるかも知れませんので、全てが全てとは言いませんが、基本的には「後の世」で受けるものだ、というのが聖書で言われている主張であります。そのことに若干関連する箇所がありますので、参考までに見てみましょう。


参照 マタイの福音書6:5,16

6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです

6:16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです


上記みことばは、イエスさまが山上の垂訓で群衆や弟子たちに言われたことです。5節に「祈る」ということばが、6節では「断食」ということばが使われています。祈りも、断食も、クリスチャンの歩みにおいて行われるものですし、一面聖書で奨励されている事柄でもあります。しかしそれに関しての注意事項が述べられています。それは人に見られたいとか、人に見えるように行うのはよろしくない、ということであります。「彼らはすでに自分の報酬を受け取っているのです」とありますように、人から認められたいとか誉れを受けたいとか、そんなことを期待してそれらのことをするのはやめなさい、ということをイエスさまは言われているようです。要するに、この世において、それがたとえお金を受け取らないまでも、人々から賞賛を得ているようであれば、それは神さまの前に「報い」と見なされてしまうのです。人から褒められて何が悪いのか?!と思うかもしれませんが、しかし聖書において、また、イエスさま御自身はそんなものは受け取るな!もし受けたとしても、一切気にするな!と言われているのです。なぜ、そこまで厳しいことを言われているのでしょうか?この世の常識とはあまりにもかけ離れていることなので、理解に苦しみますよね?それに関してこんなことが言えるのでは?と思います。絶対にこうだ!と断定はしませんが、「すでに」ということばに語りかけを受けます。この箇所はKJV訳では“Verilyという単語が使われていて、「真に」とか「たしかに」と訳されています。彼らはこの地上でたしかに報酬を得ている、だから後の世で受ける報酬はありませんよ、とそんな風に理解できます。また、人からの賞賛に関して、他の箇所ではこのように書かれています。


参照 ルカの福音書6:26

6:26 みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。


ここで、みなの人にほめられるときに、「哀れ(KJV訳:災い)」ということを言われています。そして、「にせ預言者(KJV訳:間違えた預言者)」も同じように扱われたとあります。ちなみに「にせ預言者」がほめられるとは、どういうこと?と思われるかもしれません。このことは今の時代で言えば、こういうことではないでしょうか?聖書には「地獄(火の池)」の存在についてハッキリ書いています。しかしそれを曲げて「地獄は無い」なんていうメッセージを語ることです。そのことを聞いた会衆は、「ああ、そうなんだぁ。良かった~、じゃあ誰も地獄へ行く人なんていないんだね。ばん万歳だね!いやぁ、良いメッセージだった!」なんて評価するでしょう。たしかに「地獄がある!」というメッセージよりも、「地獄は無い」というメッセージのほうが耳にも良いでしょうし、人受けもするでしょうし、はたまた「すばらしいメッセージだ」と褒める人々もおられるでしょう。しかし、神さまの前にはNGであります。それこそ「みなの人にほめられる」としても、しかし神さまの前には「哀れ(KJV訳:災い)」なのであります。ゆえにこのように語るメッセンジャーはまかり間違えても、後の世において神さまからの「報酬」は期待しないほうが良いと思います。いくら人からの誉れを受けたとしても、です。そして反対に「地獄はあるので、そこに行かないようにきちんと歩んでいきましょう!」とか「艱難前携挙説や二段階携挙説は間違えた教えです。クリスチャンは艱難時代を通るので、そのために備えていきましょう!」と語るときに、人からの誉れを受けることなんて、ほぼ無いと思います。しかしたとえそうではあっても、そう、この世では認められなくても、はたまた多くのクリスチャンから悪口雑言を言われたとしても、しかし神さまの前にはそれでOKなのです。そしてその報いは、「後の世」でいただけますので、心配は無用です。もちろん人間的にはこの世でも認められて、なおかつ神さまの前にも認められる、ということを望むかもしれませんが、しかしどうもそれは両立しないようですので、どちらかひとつを私たちは選ばなければいけないようであります。


話は少しそれてしまいましたが、はじめに申し上げましたように、神さまの働きには「報酬」がついてきます。そしてクリスチャンであれば、大なり小なり奉仕や働きを担っていると思いますが、しかしいずれもその報いは「後の世」で受けるものである、ということは繰り返して申し上げておきますね。ゆえに誰からも認められないから、とか、何ももらえないから、なんて思わずに、神さまから言われた働きはきちんと全うできるように求めていきたいと思います。そして奉仕や働きの注意点がいくつかあるのですが、そのひとつとして、人から認められたいとか、この世において誉れを受けたいとか、そういう思いで奉仕することのないように気を付けていきましょう。たとえ人々から何か賞賛を受けた場合があったとしても、すぐに神さまに栄光を帰すことを習慣にしていきましょう。また、特にみことばを扱う奉仕者においては、きちんと聖書のことばから語っていくように、よくよく注意を払っていきましょう。聖書に書かれていないようなことを語ったり、みことばを曲げて別のことを語ることのないように気を付けていきましょう。まっすぐにみことばを解き明かしていけるように求めていきましょう。そのために人からは相手にされなかったり、嫌われたりすることがあったとしても、神さまの前に正しく語ることに心を留めていきたいと思います。そういう方向性で奉仕や働きを生涯全うしていくときに、「よくやった!良い忠実なしもべだ」と神さまからの誉れや報いを受けますので、御心を感じましたらぜひ実践していきましょう。また、奉仕や働きにかぎらず、「善」を行っていくときに、そのことがたとえ人々の目には留まらなくても、神さまの前にはしっかりカウントされていますので、このことも忍耐をもって生涯にわたってぜひ全うしていきたいと思います。反対に、あの働きもしない、この奉仕もしない、あるいは罪ばかり犯している、善を行うことを拒否する、とそんな風にクリスチャン生涯を終えてしまうときに、神さまからの報酬を受けないばかりか、悪い報酬(永遠のさばき)を受けてしまう可能性がありますので、気を付けていきたいと思います。


ある時、以前通っていた教会の某クリスチャンの方に、とても親切にしていただいたことがありました。奉仕に関連することだったのですが、私のために手間隙を惜しまずにその方は、労を割いてくださいました。そして思わず、「本当に助かりました。ありがとうございました」と声に出して言ったのですが、その方は、「神さまの働きなので当たり前のことです。他の人にも同じことをしていますから」と、ニッコリ笑いながらも淡々とおっしゃっていました。私にとっては大ごとだったのですが、でも、ご本人にとってはごく普通のことだったようです。そんな風にキッパリと言えるなんて、すごいなぁ、なんてその時はとても感心しました。そして自分も、ほんのわずかでも、そのような信仰姿勢に倣っていければ・・・と思いました。今回の箇所を通して、ごくごくわずかであっても、どこまでも神さまに向けて奉仕させていただければ幸いなのでは?と思いました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。