聖書箇所 創世記33:10


33:10 ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。


「敵との間にも、平和をもたらしてくださる神」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。


上記みことばは、弟ヤコブと兄エサウとの会話の中で、ヤコブがエサウに向かって発したことばです。これはどんな状況か?と言うと、ふたりが約20年ぶりに再会する場面です。前にも話をしましたが、ヤコブはエサウに命を狙われました。母リベカによってそのことを知らされ、それでリベカの兄、ヤコブから見ると叔父にあたるラバンのところにしばらくの間、身を寄せていました。けれども主からの御告げを受けて、妻や子どもたちを連れて自分の生まれ故郷に帰ることになりました。しかしその時、ひとつ心配事がありました。それは兄エサウのことです。かつて自分の命を狙おうとした彼が、再び自分をはじめ、妻や子どもたちを打つ(KJV訳:強打する、殺す)のでは?と思っていたのです。ところがいざ、再会という段階になってどうなったのか?と言うと、意外や意外、みことばに書かれているように、エサウはヤコブのことを快く(KJV訳:喜んで)受け入れてくれたのです。今回はふたりの兄弟の再会を通して、神さまがこんな風に語っているかな?ということについて話したいと思います。


話は少し過去に戻りますが・・・兄エサウが弟ヤコブの命をなぜ狙ったのか?について若干説明します。兄エサウは・・・何と言っても長男ですから、父イサクの財産を受け継ぐ予定でした。しかしあろうことか、弟ヤコブの前で、「長子の権利など、今の私に何になろう」(創世記25章32節)と言って、財産の相続権を放棄したのです。これだけを読むと、「もしかすると父イサクって、ほとんど財産を残していなかったんじゃあないの?ひょっとすると十万円くらい?それとも案外借金だったりして~。エサウが放棄するくらいなんだし、財産なんていったって、じつは大したことないんじゃないの?」なんて思わなくもないかもしれません。いえいえ、そうではないんです。度々話をしていると思いますが、聖書はイエス・キリストについて証をする書でありまして、「イサク」もある意味、神さまとかイエスさまの型でもあるのです。つまり「イサクの財産」の「イサク」の部分に「神さま」ということばに代えて見ると・・・「神さまの財産」になります。そして「神さまの財産」とは、要はクリスチャンがのちに受け継ぐべき「御国の相続」のことを言われているのです。なので、兄エサウはとんでもないことをしてしまったのです。エサウがその権利を放棄したので、それはそのまま弟ヤコブに渡ったのです。それを知ったエサウは、「悔しい!」と後悔し、父イサクに願ったのですが、「祝福はひとつしかない。先にヤコブを祝福してしまったから。」と断られてしまったのです。自分はもう、「天の御国」を相続することはない、でも、それだけではおさまらないぞ!と、思ったのでしょう。それで弟ヤコブの殺害に踏み切ろうと決断したのです。


ところで少し前に、エサウは「御使い」(神に仕えるほうではなく、サタンのほう)のたとえだということを話したと思います。そしてエサウはある種のクリスチャンを指す型でもあります。それはどんなタイプのクリスチャンかと言うと・・・エサウとは、別名「エドム」のことで、「聖書人名地名小辞典」によると、「赤い、赤土」という意味だそうです。さらに黙示録には「サルデスの教会」ということばが出てきます。「サルデス」も同じく「赤いもの」という意味があります。しかし「サルデスの教会」に関して、聖書では良いことが言われていません。やれ、行いが死んでいるだの、「いのちの書」から名前が消されるだの、ろくでもないことが言われています。これって、この世の人のことではありません。「教会」と名が付いている以上、クリスチャンのことを言っていることが理解できますよね?そして「行いが死んでいる」とは、まさしくクリスチャンとしての行いがなっていない、要するに神さまの目から見て、この世の人と大差が無い、もっと言うなら、「俗悪なクリスチャン」だと、ゆえに「いのちの書」から名前が消される、天の御国を受け継がないぞ~、ということを言われているのです。回りくどい話になりましたが、つまり「エサウ」とは、この世に着いたクリスチャンの型を示しているのです。「この世に着いている」というときに、どうでしょう?聖霊に導かれているでしょうか?全く導かれない、とは断定はしませんが、歩みの大半は恐らく敵に用いられている可能性があると思って良いでしょう。そして敵に用いられる、というときに、ヤコブのように御霊に導かれているクリスチャンを憎むこととなり、あわや「あの人がいなければ・・・」と言わんばかりに、迫害したり、攻撃を加えたりして、何とか歩みをとどめようとするのでしょう。そして聖書を読んで理解できることは・・・サタンに用いられているクリスチャンが、聖霊に導かれているクリスチャンを嫌がる、このことは創世記の時代のみではなく、今日に至るまで、ある意味不変の教理だ、ということは心に留めておきましょう。「しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです」(ガラテヤ人への手紙4章29節)と書かれている通りです。


前置きが長くなりましたが・・・このようなことをヤコブは理解していたのでしょう。兄エサウがこの世に着いた、いわば「御霊」ではなく、「肉的」なクリスチャンだということを重々承知の上で、エサウとの再会を決意したのでした。いかがでしょうか?普通なら、「二度と会いたくないし、会わないほうが身のため・・・」なんて思いますよね?私も、正直ふしぎに思いました。故郷に帰ると言っても、何もわざわざエサウに会う必要なんてあるのだろうか?と。ところが兄エサウとの再会に関しては、じつは神さまの御心だったのです。創世記27章には、このように書かれています。


参照 創世記27:41‐45

27:41 エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」

27:42 兄エサウの言ったことがリベカに伝えられると、彼女は使いをやり、弟ヤコブを呼び寄せて言った。「よく聞きなさい。兄さんのエサウはあなたを殺してうっぷんを晴らそうとしています。

27:43 だからわが子よ。今、私の言うことを聞いて、すぐ立って、カランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。

27:44 兄さんの憤りがおさまるまで、しばらくラバンのところにとどまっていなさい。

27:45 兄さんの怒りがおさまり、あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れるようになったとき、私は使いをやり、あなたをそこから呼び戻しましょう。一日のうちに、あなたがたふたりを失うことなど、どうして私にできましょう。」


42節以降のことばは、母リベカがヤコブに語ったことばですが・・・45節にありますように、兄エサウの怒りがおさまったら、ヤコブを呼び戻す、ということを言われていたのです。そしてそれはまさに成就しました。以下、みことばです。


参照 創世記31:1‐3

31:1 さてヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ。」と言っているのを聞いた。

31:2 ヤコブもまた、彼に対するラバンの態度が、以前のようではないのに気づいた。

31:3 主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」


上記3節のことばは、兄エサウの怒りがおさまったことを主がご存知で、それでヤコブにこのように言われたのです。27章45節のことばと、このことばとはつながっているのです。ゆえにヤコブは故郷に帰ることと、そして兄エサウと再会することを決意したのでしょう。ではあっても・・・かつて敵に用いられていたエサウが、何かするかもしれない、という不安は持ち合わせていたと思います。しかし幸いにも、再会を無事に果たすことができたのです。


これらのことから、私たちは学びたいと思います。エサウのように、たしかに敵に用いられるタイプのクリスチャンは存在します。それは一面の事実であります。また、そういうタイプのクリスチャンは、ヤコブのように御霊によって歩んでいるクリスチャンを迫害したり、何らか妨害してきたりします。それも一面の真理です。しかしだからと言って、ずーっとそのままの状態なのか?敵に用いられているクリスチャンのすべてが、さいごのさいごまで敵の領土にいるのか?と言うと、必ずしもそうとはかぎらない、ということです。もちろん当時のパリサイ人や律法学者はさいごまで悔い改めることなく、「火の池」のさばきに入ってしまいました。けれども主イエス・キリストを十字架に付けたことを悔いて、改めた人々もいました。ですから今現在において、敵の領土にいたとしても・・・しかし、誰が、いつ、どんなことをきっかけに悔い改めるかは私たちには分からない、ということです。ですから、どこかで状況や状態が変わる場合がある、ということを念頭に置くことは非常に大事なのです。どの人に関しても、それがたとえノンクリスチャンであったとしても、現時点がそうだからといって、「絶対に変わること無い!」なんていう風に決め付けてはダメなのです。その理由は、私たちクリスチャンは、「敵」の領土に置かれている人々を、「聖霊の支配下」に連れて来るべく働きに、常に召されているからです。なので、こういうことが言えると思います。神さまが先々どのように導くかどうかは別として・・・そして明らかに「サタンの支配下に置かれている」と思ったとしても、まずはその人のためにお祈りすることが先決なのです。見えるところで何ら変化を感じられなかったり、それどころか変な対応を取られたりしたとしても、です。「そんなこと絶対に無理だし、嫌だ!」と思うかもしれませんが、しかしそのことを根気強く実践していくときに、神さまの方法で形勢が少しずつ変えられていくようになります。私の想像ではありますが、神さまがそもそもヤコブに生まれ故郷に帰るように命じられたのも、じつはその前に、ヤコブがエサウのことを真剣に祈っていたからなのでは?と思います。もちろんこのようなことは聖書には書かれてはいないので、絶対にそうだ!なんてことは言えないのですが、ヤコブの熱心な祈りを神さまが徐々にお聞きになってくださり、そしてそのことを通してエサウの心がだんだんと変えられていったのではないか?と思います。箴言にこのように書かれていることをご存知でしょうか?


参照 箴言16:7

16:7 主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。



ここでも、「敵」ということばが出てきます。そうなんです。クリスチャンの歩みの中で、「敵」の存在というのは切っても切り離せないものですし、しかもそれって、神さまに許されていることでもあるのです。私もそうですし、誰だって「敵」なんていないほうがいい!と思いますよね?しかも、「敵」は「サタン」なので、私たちよりも知能が高く、力も上なので、強い存在とも言えますよね?でも、「勝ち目」は全くないか?と言うと、決してそうではなく・・・上記にありますように、「私たちの行い」が神さまの前に喜ばれるものとなるときに、「敵」とも和らぐ(KJV訳:平和になる)ことができるのです。うまく言えませんが、このことはつまり、「敵」の働きを打ち崩す、ということを言われているのではないか?と思います。それはその時の状況やケースによって方法は異なるとは思いますが、神さまがいずれも良い方向へと導いてくださるのです。ただし、それには私たちのほうで条件を満たすことが必須です。それは神さまに喜ばれる「行い」をすることです。そしてそれは恐らく、敵となる人、すなわち迫害したり、罵ったり、悪口雑言を言ったり、はたまた害を加えてくる人たちのために祈ることなのだと思います。そうしていくときに、ヤコブとエサウのように和解する場合もあるでしょうし、しかしそうではなくても、必ず良い結果になっていくことを信じて実行していく人には、上記のことばがそのまま成就していきます。ゆえに御心を感じましたら、あるいは今、敵となる人が身近にいる、なんていう人には、ぜひこのことをおすすめいたします。


ちなみに聖書には、「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい」(第二テモテの手紙3章1節)と書かれています。そして今は、まさしくそのような時である、と私は理解しています。そんな中で、残念ながらこれから恐らく「敵」に用いられるタイプのクリスチャンが益々増えていくのでは?と思います。むろん自分もそうなりたくはありませんし、そういう人が増えるなんてことは全く望んではいませんが、このように言われている以上、きっとそうなっていくんだろうなぁ、なんてことを心に留め置きながら歩んでいくと良いでしょう。でも、だからと言って、全く恐れる必要は無いと思います。神さまの前に歩みを糾しつつも、万が一にも「敵」に囲まれてしまった~、誰も味方になってくれる人がいない、なんていう場合にも、その人たちのために祈っていくなら、神さまのふしぎな方法で助けが来たり、守りが与えられたりしますので、思い煩ったり、心配したりすることのないようにしましょう。祈りの中で、もしかすると悔い改めの思いが起こされる人もいるかもしれませんので、神さまに期待しつつ、忍耐をもってとりなしていきましょう。そして万が一にも、全く状況が変わらない、としても、あなたにとって「損」をすることなんてひとつもありませんので・・・相手の人が相変わらず悔い改めなかったとしても、しかし祝福や恵みはすべてあなたに返ってきますので大丈夫です。


でも、反対に、いくら「敵」に用いられている人であっても、そういう人に対して妬みや敵対心や党派心(英語:野心)などを抱いてしまうときに、あわやあなたさま自身の「永遠のいのち」が危なくなってしまうので、絶対にそのようなことは避けましょう!人間的には「悪に対して悪に報いる」というのが普通の考えではありますが、聖書はそんなことは言っておらず、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ!」と、逆説的なことを申しておりますので、そのことに従っていきたいと思います。、創世記の時代のヤコブはそのことばを知っていたかどうかはともかく、しかし恐らく彼はそのことを躊躇することなく実践して祝福に入ったパターンですので、ぜひ私たちもそのことに倣って、約束の地である「天の御国」を受け継いでいきたいと思います。


人から嫌なことを言われたりされたりしたときに、すぐに神さまに祈るのですが・・・そんな時に示されるのは、「善をもって、悪に打ち勝て!」とか「汝の敵を愛せよ!」とか「迫害する者のために祈りなさい!」ということばです。正直、「もっと優しいことばはないでしょうか?」なんてことを思わなくもないのですが、しかし毎回示されるのは、このようなことばかりです。もちろんそれに対して何ひとつ文句はありません。聖書に書かれていることですから・・・そしておよばずながら、聖霊さまから助けや力を受けながらも少しずつ実践していくときに・・・特別大きな変化は無くても、内側には聖霊にある喜びと平安が必ず訪れます。それだけでなく、「感謝の思い」までが沸いてきます。その時に、「ああ、神さまが言われることを信頼して実践して良かったなぁ」と思います。そんな感じに毎回助けられております。


これから艱難時代が来るに連れて、理不尽な目に会ったり、ありもしないことで悪口を言われたり、はたまた迫害されたり、場合によっては訴えられたり、なんてこともあり得るかもしれませんが、しかしそんな時にも、そういう人たちのことを祈れたらなぁ、ほんのわずかでも祈る力が与えられたらなぁ、それだけでなく、敵となる人たちがあわや聖霊の支配下へと移っていけることを願っていけたらなぁ、なんてことを今回の箇所を学んでいく中で思いました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。