聖書箇所 創世記34:1,2


34:1 レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを尋ねようとして出かけた。

34:2 すると、その土地の族長のヒビ人ハモルの子シェケムは彼女を見て、これを捕え、これと寝てはずかしめた。


「主の来臨の時まで、貞潔を保つ」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。


度々話をしていますように、聖書のあらゆるみことばは「終末」に成就します。たとえばあまり良い話ではないのですが・・・第二テモテの手紙には、人々が「空想話」にそれて行くような時代になる、ということについて書かれています。そして実際に今、クリスチャンにとって耳に良く、都合の良い「艱難前携挙説」が多くの教会で言われています。しかし聖書のあちこちを読むと、クリスチャンは艱難を通ることが理解できます。ゆえにこの教理は「空想話」ということになります。そしてまさに今の終末の時代に、テモテの手紙のことは成就していることが分かります。それと同じように今回のみことばも、もしかすると終末に成就するのでは?なんていう概念で学びができたら・・・と思います。よろしければ共に見ていきましょう。


読んで理解できるように、レアの娘ディナがその土地(シェケムの町)の娘たちを尋ねに出掛けたところ、あろうことか、その土地(KJV訳:国)の族長の息子(KJV訳:王子)が、彼女(ディナ)を捕らえてはずかしめました。これだけを読むと、ディナはアンラッキーな子ねっ!可哀想に・・・とか、もっと用心したり、気を付けるべきだったんじゃあないの?なんていう風に思いますよね?たしかにディナという一個人の女の子がはずかしめに会ってしまったと、あるいはそうならないように思慮深くなるべきだったと、そういう意味合いもあると思います。たしかに表の意味合いとしてはそうなのですが・・・しかし、よく話をしていますように、聖書のことばは「羊皮紙の巻物」にもたとえられていて、要は「表」にも「裏」にも文字が書いてあるのです。そう、表面の意味合いもありますが、裏の意味合い、つまりたとえの意味合いや御国の奥義についても言われていますので、そのことをも見ていきたいと思います。


さて、レアの娘「ディナ」は、たしかに文字通りヤコブとレアの間に生まれたお嬢さんです。ヤコブ、すなわちイスラエルの子どもなので、クリスチャンの姉妹でもあります。また、しかしそれと同時に、「ディナ」は女性であることから、「教会」を指すたとえではないかと思います。2節の「彼女」のところに「教会」ということばを入れてみると、「教会」がはずかしめられた、ということになります。「ん?なんのこっちゃ!よく分からん!」と思われるかもしれません。そうですよねぇ、「教会」がはずかしめに会ったなんてこと、聞いたことなのですよね?こんな風にタイプしている私も、じつは一度も耳にしたことはありません。しかしこのように聖書に書かれているということは・・・もしかすると、そういうこともあるかも?!と思って考えてみるのも良いかもしれませんね。ちなみに、「はずかしめた」のところは、KJV訳では「汚す、神聖を汚す、純粋さを傷つける」と書かれています。「教会を汚す」とか「教会の純粋さを傷つける」ということも、今ひとつピンと来ないと思います。ですが、そのことを説明しているかな?と思う箇所がありますので、参考までに見てみましょう。


参照 Ⅱサムエル記15:16,16:21,22,20:3

15:16 こうして王は出て行き、家族のすべての者も王に従った。しかし王は、王宮の留守番に十人のそばめを残した。

16:21 アヒトフェルはアブシャロムに言った。「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにおはいりください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたに、くみする者はみな、勇気を出すでしょう。」

16:22 こうしてアブシャロムのために屋上に天幕が張られ、アブシャロムは全イスラエルの目の前で、父のそばめたちのところにはいった。

20:3 ダビデはエルサレムの自分の王宮にはいった。王は、王宮の留守番に残しておいた十人のそばめをとり、監視つきの家を与えて養ったが、王は彼女たちのところには通わなかった。それで彼女たちは、一生、やもめとなって、死ぬ日まで閉じ込められていた。


上記みことばは、どんな背景か?それについて簡単に説明したいと思います。「王」とか「父上」ということばが出てきますが、これはダビデのことです。15章16節に「王は出て行き」とあります。じつはこの時、ダビデ王は息子であるアブシャロムが父ダビデに代わってエルサレムで王になったということを聞いて、そこから逃げることになったのです。その際に、「十人のそばめ」はエルサレムに留まったのです。つまり、ダビデと共にエルサレムを離れなかったのです。ちなみに「十人のそばめ」のところは、KJV訳では“ten women”とあります。前にも話をしましたが、“woman”とか“women”、すなわち「女」は、教会を指すたとえでもあります。また、ダビデは「キリスト」の型でもあります。ですからダビデがエルサレムを離れた時に残ったそばめとは、それはつまり、キリストから離れてしまった教会だということを言われているのでしょう。そう、そしてダビデ、すなわちキリストから離れてしまった教会のその後の運命はどうなったのか?と言うと・・・16章21,22節にそのことが書かれています。これらの教会は、アブシャロムと関係を持ったのです。ちなみにレムナントキリスト教会では、「アブシャロム」は「反キリスト」の型である、と理解しております。要はキリストから離れてしまった教会は、反キリストを受け入れる、キリストとではなく、反キリストと契約を結ぶようになる、ということをこれらの節では言われているのです。そしてこのことは、かねてから言われていますように、世の終わりや艱難時代に成就していくであろうと思われます。反キリストを受け入れ、礼拝し、契約を結び、その後はどうなるのか?それについて、20章3節に書かれています。この場面は、アブシャロムが死んだあと、ダビデがエルサレムに戻った時のことですが、彼は「十人のそばめ」のところには行きませんでした。なぜか?これらの女性、すなわち教会(もしくはクリスチャン)は、アブシャロム、すなわち反キリストと関係を持ったため、ダビデ、すなわちキリストとは全く関係の無いものとなってしまったからです。


そしてこのことは冒頭のみことばに登場するディナとオーバーラップします。ディナはシェケムにはずかしめられて汚され、貞潔を失いました。シェケムはヒビ人ハモルの息子と言われていますが・・・ちなみに「ヒビ人」とは、聖書のあちこちを読むと、イスラエル人の出ではないとか、苦役に徴用されているとか、あまり良い意味合いではないことが分かります。また、ハムやカナンの子孫でもあり、「カナン」とは「商人、奴隷」という意味だそうです。「奴隷」とは、人身の奴隷という意味合いもあるかもしれませんが、聖書では、「罪の奴隷」という意味もあります。ゆえに「ディナ」は、「罪」によって汚された、貞潔を失った、という風に取れると思います。そしてまた、「反キリスト」とは、「キリストの代わり」とか「不法の人」ということが言われていますが、「罪の人」とも言われています。つまり、「罪」とか「罪の人」を受け入れたり、はたまた関わりを持つときに、クリスチャンの純粋な信仰が汚されてしまい・・・クリスチャンと称していても、結局のところキリストとは関係の無いものになってしまうと、そのようなことを言われているのではないかと思います。絶対にそうです~、なんてことは言えませんが、しかし今回のみことばや引用箇所は、そういったことを語っているのでは?と私個人は思いました。


そしてまた、ディナがその土地の娘さんをたずねて行ったことにも語りかけを受けました。「娘」も、私の見解では「教会」を指すたとえではないかと思います。教会をたずねて出掛けた結果、貞潔を失ったとは、びっくりではありますが・・・このことはある型を示していると思います。終末の多くの教会は残念ながら、キリストではなく、反キリストを受け入れていくのでしょう。「反キリスト」とは、抽象的な言い方ではありますが、反キリストの教えやキリストではない別の霊を受けていくのではないかと思います。その一例として、復活は無いとか地獄は無いとか、クリスチャンと名が付けば皆天国、そして艱難は通らずに携挙される、キリスト以外にも救いがある、これからはキリストの名で祈るのはやめましょう!なんていう教えがそうだと思います。また、トロントのリバイバル集会で下されている悪霊を受け入れたり、血を流すマリヤ像が神からの霊だと思ってそれを受け入れたりすることがそうなのでは?と思います。そのようなことを受け入れている教会は要注意であります。もし、そういった教会と何らか関わりを持っていくときに、そして教えや霊を受け続けていくときに、ディナや十人のそばめのように・・・本来持っていた「純粋な信仰」が汚されて、いつしかキリストとは関係の無いものになってしまいますので要注意です。ですからむやみにやたらに、あっちの教会、こっちの教会、あちらの集会、そちらの集会に行くことに関しては、多少なりとも警戒することをおすすめいたします。もちろん聖霊の働きもありますので、すべてを否定するわけではありませんが、教理や霊には要注意&要吟味であります。特に今の時代は、吟味に吟味が必要なのでは?と思います。それこそ聖書には、今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」(第一ヨハネの手紙2章18節)ということが書かれているからです。世の終わりに、反キリストが現れる、しかも「多くの反キリスト」が登場することが預言されていますので、そして今はまさしく「世の終わりの時」(終末)なので、気を付けていきたいと思います。今回登場したディナや十人のそばめのことは、今の時代を生きる私たちクリスチャンと決して無縁ではない、ということについては正しく理解し、とらえていきたいと思います。


繰り返しますが、万が一にも、反キリストを受け入れたり、関係を持ったりしていくなら、「貞潔」が失われて、キリストとは何ら関係が無くなってしまい、あわや「永遠の命」を失う可能性がありますので、そのあたりはきちんと押さえておきたいと思います。また、聖書ではその逃げ道として一面、「地下教会」(仮庵の祭り)を奨励していますので、上記事柄において何かお心当たりがありましたら、ぜひそのことを実践していきたいと思います。ぜひ、主イエス・キリストの来臨の時まで「貞潔」を保って永遠の命を得て、天の御国を相続していきたいと思います。


エレミヤ牧師から、「命に至る道は狭い」ということを度々聞いています。そしてかつてこのようにもおっしゃっていました。「特に終末は永遠の命を得るのが難しい」と。正直、当時はあまりピンと来なかったのですが、しかし色々と学びをしていく中で、「本当にそうだなぁ」と思いました。何せこれから「艱難時代」がやって来るのですから・・・しかしその中で「獣のしるし」を付けられることにないように、また、「反キリスト」を拝むことのないように気を付けていきたいと思います。そして今回の箇所を通して、これは他人事ではない、ということに気付かされました。その時にならないと細かいことは分かりませんが、教理や霊には、よくよく気を付けていこうと思わされました。そして主の来臨の時まで、何とか「貞潔」を保って、「永遠の命」を得ていけたら・・・と思います。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。