聖書箇所 創世記35:1,2

 

35:1 神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」

35:2 それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。

 

「神のために祭壇を築く」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

1節にありますように、かつてヤコブは兄エサウに殺されそうになった時に、彼から逃げてある場所に行き、そこで一夜明かすことになりました。その時に神に出会いました。それから翌朝、ヤコブは自分が枕にした石を取って、それを石の柱として立てて、その上に油を注いで「神の家」(教会のたとえ)としました。そしてその場所を「ベテル」と呼びました。つまり、かつてヤコブが神と出会った同じ場所で、「神のために祭壇を築きなさい」ということを神さまはヤコブに語ったのです。

 

ところで、今現在教会において「祭壇」ということばはほとんど耳にしないと思います。じつは私もほぼ聞いたことはありません。もちろん聖書を読んでいるので、そのことばは知ってはいますが、しかしクリスチャン同士の会話の中では滅多に出てこないことばかな?と思います。ちなみにここで使われている「祭壇」とは、捧げものを捧げる場所です。これは、型であり新約の今で言えばメッセージや、奉仕のささげものを捧げる「教会」をさすといえます。ですから「祭壇」を築くことはヤコブの時代だけではなく、今の新約の時代を生きる私たちとも無縁ではないことが理解できますよね?そんな風に言うと、「ええっ!お金の無い人はどうするの?」なんて思う人もいらっしゃるかもしれませんが・・・大丈夫です。当レムナントキリスト教会も、建物としての教会、つまり会堂は持っていませんので・・・しかしそうではあっても、「祭壇」はあります。どこに?目に見える形はともかく、毎週ごとに祭壇で捧げ物をしております。メッセージ、証、賛美などです。つまりですね、先ほど「祭壇」は「教会」だということを言いましたが、具体的には「礼拝」のことを指すのではないか?と思います。だってそうですよねぇ。それこそ予算があり余っていれば、会堂のひとつやふたつ簡単に建てられますけど、そうではない場合に、それでも無理して建設しろ!なんてことをイエスさまはおっしゃっていないと思います。けれども建物の有無はともかく、しかし「祭壇」つまり「礼拝」は行っていく義務が私たちにはありますよね?それこそ、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル人への手紙10章25節)と言われている通りです。

 

そして・・・「祭壇」を建てるにあたっての注意点が2節で言われています。ちなみにヤコブは一家の家長であり、族長であると同時に・・・さらにイエス・キリストを描写する型でもあります。そういう視点で見ると、「自分の家族」とは、まさに「神の家族」つまりそこに集っている兄弟姉妹のことをも言われていると思います。もっと言うなら、イエスさまが私たちに「教会はこのように建てるべきですよ!」という指示をここで行っている、と考えると良いのでは?と思います。それではその注意点について見てみましょう。

 

①異国の神々を取り除く

 

クリスチャンになって、あえて仏壇や釈迦に手を合わせる人はいないと思うのですが・・・しかし聖書でこのように言われている以上、しかも聖書は基本的にはクリスチャンに宛てて書かれているものですので、クリスチャンの間であっても、「異国の神々」が存在するのだ、ということは心に留めておくと良いと思います。では、「異国の神々」とは何なのか?聖書において、「バアル崇拝」とか「アシェラ崇拝」ということばが結構出てくると思うのですが、これは恐らく「器崇拝」のことを言われていると思います。法皇崇拝、聖人崇拝のことです。「別に私はローマ法皇に手を合わせていない」とか「ビリー・グラハムを拝んではいません」とおっしゃるかもしれません。形はそうかもしれませんが・・・しかし、もし、神さまのことばよりも器の言うことを優先するなら、それは「異国の神々」を取り入れていることになるのです。一例を挙げるなら、ローマ法皇は進化論はあまりにも科学的だとか、地獄は無いとか言っているそうですが、しかしこれらの事柄を吟味もせずに安易に受け入れるなら、聖書を否定することとなり、他の神々を拝むことにつながってしまうのです。要は、「人」を「神」の位置に置いてしまうので、ダメなのです。もしもお心あたりがありましたら・・・それは直ちに取り除いていきましょう。「異国の神々を取り除き」とここでハッキリ言われているので実践していきましょう!

 

②身をきよめる

 

神さまを礼拝するというときに、とても大事なことがあります。それは「罪」から、きよめられていることです。礼拝において、それぞれの人が捧げ物(奉仕)をします。司会、賛美、預言、証、メッセージ、奏楽等々、種々の奉仕がありますが、その時に、霊的にきよめられている状態でこれらのものを捧げていくことに御心があります。そうでないとき、人さまにはともかく、しかし神さまからはつき返されたり、はたまた「怒り」を買ってしまう可能性もありますので注意が必要です。特に聖霊ではない、悪い霊を受けたままで、つまりきよめられていない状態で奉仕をしてしまうときに、霊的にさらにおかしくなってしまう可能性があります。かつてアロンのふたりの息子、ナダブとアビフが異火(悪霊の火による奉仕)を捧げてしまったときに、神さまからの怒りを招き、焼かれてしまった(悪い霊にやられて霊的に死んでしまったことのたとえ?)ので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。そしてそれは周囲の人たちにも悪い意味合いで影響を及ぼしてしまいますので・・・・もし、「罪」がある、もしくは「悪い霊」にやられているかな?と思う場合には、すぐに「きよめ」のお祈りをして、聖霊による奉仕を神さまに捧げていきたいと思います。

 

③着物を着替える(KJV訳:衣服を替える)

 

神さまを礼拝する場合、あるいは奉仕を捧げる場合に、「着物」(衣服)を着替える必要があります。そんなことを言うと、「ええっ?スーツとかで正装しなきゃ礼拝には出席できないのか?」とか「おしゃれをしていかないとダメなの?」「普段着だと問題があるのか?わざわざ着替えなきゃいけないなんて・・・」という意見もあるかもしれません。大丈夫です。心配しないでください。これもたとえで言われている事柄ですので・・・「衣服」ということばで、「義の衣」ということばを思い浮かべないでしょうか?これは②で説明したこととおおむね同じ意味合いですが、「罪」からのきよめのことを言われています。もし、「罪」があるなら、「聖霊」によってきよめられて、「義の衣」を着用しましょう!ということを語っているのです。それと同時に、もうひとつの意味合いがあります。聖書のことばは、二重、三重の意味をなしている場合がありますので、その事柄も見ていきたいと思います。

 

「衣服」とは、「義の衣」の他に、「教え」という意味合いもあります。これはつまりこういうことです。「教え」すなわち「教理」が間違えている場合は、それを取り替えなさい!ということです。たとえば聖書では、あちらこちらでクリスチャンが艱難時代を通過することについて書かれているのですが、しかし多くの教会において「艱難前携挙説」とか「艱難中携挙説」が推奨されています。けれどもこのように聖書には書かれていない教理を取り入れてしまうときに・・・そしてそのようにメッセージを語ったとしても、それは神さまの前には受け入れていただくことができなくなってしまうのです。

 

他にも、色々と挙げ出したらキリがないのですが、「福音の総合理解」(福音は総合的に見るべきであって、みことばに行いと書いてあっても、信仰を優先し行う必要は無いという教え)とか、「セカンドチャンスがある」(イスカリオテのユダも天国へ入った。そして、もし死後天国がダメだったとしても、再チャンスがあるから大丈夫という教え)というものも、いくら会衆受けをしたとしても、神さまの前には拒否されてしまうのです。こういう言い方は何ですが、せっかくの捧げ物がパァーになってしまうのです。また、それだけで済めば良いのですが、多くの信徒の方々を恵みから外したり、はたまた神さまから御怒りを買ってしまったり、そしてさいごまで悔い改めないというときに、死後、さばかれてしまう可能性がありますので、もっと言うなら、入れると思っていた「天の御国」を滑る可能性がありますので、要注意である、ということはひと言申し上げておきますね。

 

ゆえに結論としては・・・みことばから正しくメッセージを語っていきたいと思います。そう、どのみことばも曲げることなく、まっすぐに解き明かしていきたいと思います。また、メッセージを聞く立場の人たちにおいては、聖霊にあって吟味して受け入れていくようにしていきたいと思います。間違えた教理を掴んだ状態でも「天の御国」に入れれば良いのですが、そうではなさそうなので・・・こういうことに関しても一考していきたいと思います。

 

以上が、祭壇(教会、礼拝)を建てるポイントとなります。うまく説明できたかどうか分かりませんが、多少なりともご理解いただけましたら幸いです。そして「祭壇」すなわち「教会」は、「キリストのからだ」ですので、イエスさまが言われた通りに建て上げていけるように求めていきたいと思います。特に世の終わりは、あらゆるみことばが曲げられています。先ほども例を挙げましたが、他にも「クリスチャンと名が付けば皆天国」とか「地獄は無い」とかが、言われています。また、アメリカでは復活や処女降誕を否定する教会にはおいては、税金の免除がされる、なんていう法律もあるそうです。器崇拝に関しても、今の時代がまさにそうではないかと思います。ローマ法皇が「進化論は正しい」と言えば、それに倣え!と言わんばかりに、皆こぞって「進化論」を受け入れている、という話ですし、霊的なことを言わせていただくと、「血を流すマリヤ」が聖霊の働きに見えてしまったり、あるいはトロントのリバイバル集会で下されている悪霊のことを「あれは聖霊の働きだ!」なんて言う人たちまでいるそうです。

 

世の終わりは、あらゆる事柄がひっくり返される時であり、かつての常識がほとんど通用しない時ですので・・・そういう意味合いにおいて、冒頭のみことばは、今の時代、すなわち終末を生きる私たちクリスチャンへの警告でもある、ととらえていくのが正しいのではないか?と思いますがいかがでしょうか?

 

ちなみにその前の章、創世記34章25節では、「三日目」ということばが出てきます。「三日目」とは、AD元年から数えて3つ目のミレニアムなので、まさしく今の時代だということが理解できます。その直後に、冒頭のみことばが書かれているので、もしかすると、この「三日目」ということばと関連する可能性がある、と考えてみるのも良いのでは?と思います。

 

キリスト教会が終末に関してどう語っているかどうかはともかく、聖書では「教会の背教」について語っていますので・・・つまり教理や霊的な事柄の変質が起きますよ!ということが言われていますので、今回学んだ事柄において、決して他人事と思わずに謙虚に受け止めていきたいと思います。かつては当たり前のように守られていたことかもしれませんが、今の時代はありとあらゆる事柄が悪い意味合いでひっくり返っていますので・・・余計なお世話かもしれませんが・・・今一度、「本当に大丈夫かな?もしかすると別のものを掴んでいるかもしれない」と、そんな思いでひとつひとつのことをチェックしてみるのも良いかもしれません。

 

繰り返しますが・・・ポイントは神さまの前に正しく「祭壇」(教会、礼拝)を築くことであります。このことをきちんと行うなら、後の世において誉れを受けるでしょう。しかし反対に、どれもこれも神さまが示される逆のことばかりをしていくときに、「永遠の命」は危ないものとなりますので気を付けていきたいと思います。よろしければこういうことも、見ていただけたら幸いです。

 

かつては教会で聞く教えは、どんなことであっても正しいと思っていました。牧師が語るメッセージには一切誤りが無いと、信じていました。けれどもある時を契機に・・・レムナントキリスト教会のHPのメッセージを通してどんなに良い教えだと思っても、「吟味」が大事である、ということを示されて、そのことを少しずつ実践するようになりました。もちろん正しいものはそのまま受け入れていけば良いのですが、しかし「ん?これは違うかもしれない」というものは次第に除外するようになりました。

 

ここに来る以前行っていた教会では、色々と良い学びをさせていただいたのは事実ではありますが、しかし「艱難前携挙説」が奨励されていました。それが誤りであるということを悟ってから、ふと、「教会の教理が正しい方向へ変わるといいんだけどなぁ」なんて思い、しばらく祈っていたのですが、しかし神さまの示しは、「そこを出て、レムナントキリスト教会に行きなさい」というものでした。「本当にそうなのかなぁ・・・」と半信半疑だったのですが、しかし結果としてはそれでOKでした。

 

もちろんいつかその教会も正しく教理を受け入れて欲しいとは思いますが、でも、そのままの状態で自分がそこに通うことは御心ではなかったのだということが分かりました。そして今の教会へ行くようになってから、おかげさまで艱難時代の備えを着々と進めることができております。このことは非常に感謝だなぁと思っています。もし、あのままの状態を続けていたとしたら、それこそ、「艱難前携挙説」に留まり続けていたら、今の自分は無かったでしょうし、はたまた神さまが言われた方向とは全く違う道に入っていたと思います。

 

そして今回のみことばは、まさしく自分にも成就しているなぁと、こんな風にタイプしながらも、そのようなことを感じました。また、メッセージの中でも書きましたが、今はおかしな教理や霊が蔓延している時なので・・・そういうことを念頭に置きつつ歩んでいかなければと、今回の学びを通して強く思わされました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに、栄光と誉れがありますように。