聖書箇所 創世記37:18

 

37:18 彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。

 

「終末は正しいクリスチャンに陰謀が企まれる」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

上記みことばの背景を少し説明したいと思います。ヨセフはヤコブの息子のひとりです。そしてヨセフには10人の兄たちがいました。けれどもヤコブはヨセフのことを特別に愛していました。それを見た兄たちはそのことに嫉妬して、日頃からヨセフに対して穏やかに接することができませんでした。しかもヨセフは兄たちがじきに自分を拝むという夢を見た、という話をしました。それで益々兄弟たちは、ヨセフのことを憎むようになりました。そんな中、ヤコブはシェケムで羊の群れを飼っている兄たちのところに、彼らや羊の群れが無事であるかの報告をしてもらうためにヨセフを使いにやりました。そしてヨセフが兄たちのところに向かっているさなかに彼らが言ったのが、冒頭みことばであります。

 

ヨセフが向かってくるのを遠くから見た兄たちは、彼(ヨセフ)を殺そうとたくらんだ、とあります。細かい話ではありますが、「彼を殺そうとたくらんだ」のところは、KJV訳聖書では「彼を殺そうと、彼に対して陰謀を企んだ」とあります。たしかにこの世において、「陰謀」は珍しいことでも、何でもないですよね?テロ、ハイジャック、拉致、監禁等々。しかしながら、この世のことだけではなく、「陰謀」ということばは、聖書にも出てきます。つまりクリスチャンやキリスト教会の世界においても、「陰謀」の企みや殺人がある、ということを述べているのです。たとえばパウロにも陰謀が企てられました。よろしければその箇所を見てみましょう。

 

参照 使徒の働き23:1214

23:12 夜が明けると、ユダヤ人たちは徒党を組み、パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓い合った。

23:13 この陰謀に加わった者は、四十人以上であった。

23:14 彼らは、祭司長たち、長老たちのところに行って、こう言った。「私たちは、パウロを殺すまでは何も食べない、と堅く誓い合いました。

 

13節で「陰謀」ということばが出てきます。そしてまた、「殺して」とか「殺す」とありますように・・・これは先ほどのヨセフの兄たちが「殺そうと」と同じことばとして使われていると思うのですが、「陰謀」と「殺害」とは、どうもワンセットのようであります。けれどもパウロにしても、ヨセフにしても、なぜ命を狙われたのでしょうか?ちなみに創世記の「ヤコブ」は「天の父なる神さま」のたとえでもあるのですが、ふたりの共通点は、いずれも神さまのお気に入りだったことです。彼らは何も悪いことなんてしていないのです。反対に神さまから喜ばれる歩みをし、働きをした人たちだったのです。それであるがゆえに、そうでない人たちから「陰謀」を企てられ、殺害を謀られてしまったのです。しかもこの世の神さまを知らない人たちにそうされたのか?と言うと、そうではありません。使徒の12節に「ユダヤ人たちは徒党を組み」とありますように・・・そして「ユダヤ人」とは「神の民」のことを言われているので、つまり今で言うクリスチャンのことなのです。また、ヨセフの兄たちに関しても同じです。「兄」とはクリスチャンの「兄弟姉妹」のことをも指すからです。つまり「兄たち」とは、実際に血のつながった関係を指すと同時に、それはクリスチャン間の「兄弟姉妹」のことをも言われているのです。さらに言うなら・・・「ヨセフ」は「イエス・キリスト」のたとえでもあるのです。創世記を続けて読むと理解できるのですが、その後ヨセフは兄ユダによって銀二十枚でイシュマエル人に売られました。「ユダ」ということばにも何か語りかけを感じませんでしょうか?「ユダ」とは他でもない、イエス・キリストを銀貨30枚の約束でパリサイ人や祭司長に引き渡したイスカリオテのユダに通じます。ユダもそれこそキリストと同じ食卓に与ったのですが、ゆえにキリストの兄弟の立場にいたわけですが、しかしあろうことかキリストの殺害に加担してしまったのです。

 

以上のことを通して申し上げたいことは・・・もし、私たちもヨセフ(キリスト)やパウロのように神さまの前に正しく歩みをしていくというときに・・・たしかに神さまには愛されたり、気に入られたりと、それはそれで尊いことであり、非常に光栄なことではありますが・・・けれどももう一面として、陰謀を企てられたり、「命」が狙われたりする可能性がある、ということは心に留めておきたいと思います。イエス・キリストがまさにそうだったと思います。パリサイ人や律法学者をはじめ、ユダヤ人には殺す機会を狙われていて、実際に十字架において命を失いました。もちろんその背後には「サタン」がいました。つまりサタンが正しく歩むクリスチャンに嫉妬や怒りを燃やし、そのために人を通して陰謀を企て、命を狙おうということが起きてくるのです。そしてそれらをもって、あわや「永遠の命」を取ろうとするのが敵の狙い目なのであります。けれどもイエスさまにしても、パウロにしても、決してそのようなことに乗せられることなく、勝利をしてみごとに永遠の命を勝ち取りました。ゆえに私たちもそのことに倣うべきなのであります。

 

そしてヨセフ、すなわちイエスさまに起きたこと、また、パウロにも起きたことは、世の終わり、この終末に再現するであろうと思われます。ヨセフは「弟」の立場でありますが、「弟殺し」が終末にも起きるということの予表ではないかと思うのです。また、「弟殺し」とは、兄である御使い(サタン)が弟であるクリスチャンを殺す型とも言えます。なぜか?サタンはクリスチャンの永遠の命に嫉妬を燃やし、そのことを憎んでいるからです。ですから肉体の命だけではなく、クリスチャンの永遠の命を取ろうとすべく陰謀が、これから企てられて施行されていくのでしょう。いえ、もうすでにそのようになりつつあるように思います。現にアメリカやカナダでは強制収容所があちこちに建設されています。艱難時代に正しいクリスチャンをそこに入れるためなのです。しかも棺桶まで沢山用意されているそうです。これって、まさに「殺し」に直結するのでは?と思います。また、その兆候として・・・アメリカでは正しいクリスチャンがあちらこちらで逮捕されているそうです。なんでも、路傍で祈っただけでもそうですし、路傍伝道をしたり、家庭集会をしただけでも逮捕されるそうです。場合によっては、罰金まで科せられたりするそうです。これって立派な「陰謀」ですよね?こういったことは、今はアメリカで起きてはいますが、しかしやがて全世界に及んでいくと思われます。そのことを拡大化したもの、規模を大きくしたものが、三年半の艱難時代なのでは?と思います。強制収容所はまさにその時の陰謀の一部として、用いられていくのだと思います。そう、正しいクリスチャンを殺戮するための準備段階としてありとあらゆる陰謀は着々と進められていることが理解できるのではないかと思います。

 

けれども、このことはずーっと、しかも永遠に続くわけではなく、どんなに長くても「三年半」ということは正しく心に留めておきたいと思います。たしかに黙示録では、獣の国(アメリカ)が全世界を支配することについて書かれていますが、しかし一時的なものだということを視野に入れて正しく歩んでいきたいと思います。その時は周囲のクリスチャンに訴えられたり、場合によっては逮捕されたり投獄されたり、はたまた殉教が起きてくることもあるかもしれませんが・・・しかし艱難時代が終わったのちに、そのようなことに対するさばきが下されるので、そこでヤケを起こしたり、もうダメ~、なんて音をあげたりすることのないように気を付けていきたいと思います。いずれも、神さまがあらゆるすべての事柄において公正にさばかれますので・・・イエスさまにしてもパウロにしても、何も抵抗せずに一切を神さまに委ねられたように、私たちもそのことに倣っていきたいと思います。

 

繰り返しますが、神さまの前に正しく歩むというときに一面は、それは神の前には誉れを受けることではあるのですが、もう一面として、これから来る艱難時代においては陰謀を企てられたり、ともすると死に渡されてしまう、ということも正しく捉えておきたいと思います。かつてイエスさまが十二弟子に「父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。」ということを言われていましたが、終末もまさしくそのことが起きてくるであろうと思われます。けれども前もって分かっていれば、それほど慌てる必要はありませんので、その日に向けて今からしっかりと備えていきたいと思います。反対に・・・ヨセフの兄たちやイスカリオテのユダや徒党を組んだユダヤ人の立場に回ってしまうときに、永遠の命は非常に危ないものとなりますので気を付けていきたいと思います。ですから結論としては・・・たとえ陰謀を企てられようとも、最悪死に渡されようとも・・・そんな風に艱難を経ても、なおかつ永遠の命を得ていけるように今から求めていきたいと思います。

 

コメント

礼拝が終わったあとに兄弟姉妹と少し話をすることがあるのですが・・・私たちはどうも艱難時代を目前に生きているようですね~、なんていう話題があがったのですが・・・それはもちろん喜ばしいことではないのですが、しかし「うん、その通りだ・・・」とうなずくものがありました。

 

また、最近礼拝のメッセージでの学びを通して、アメリカのクリスチャンがすでにそうであるように、正しく行なっているにもかかわらず訴えられたり、逮捕されたときにどうするのか?ということが問われていく、ということを教えていただきました。日本にいるとあまりピンと来ないのですが、アメリカでは正しくみことばにつくクリスチャンを何とか逮捕したり、投獄しようとしたりと、そういったことが謀られているそうなのですが、自分の身の上にそのようなことが実際に起きた時に果たしてどうなるのか?ということを少しずつ真面目に考えるようになりました。

 

今回の箇所を通して、もし本当に正しく歩みをしてみことばに堅くついていくなら、どうもこういったことからは逃れようがないので、ある程度の覚悟は今から決めておく必要があるかな?と思いました。艱難の始まりがいつからなのか?は現時点では分かりませんが、あらゆる陰謀に対して正しく対応できるようにしていきたいと思います。また、同胞のクリスチャンに訴えられたりした場合にどうするのか?について心を定めておくことも大事なのでは?と思いました。今回も大事なポイントについて語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。