聖書箇所 創世記38:110

 

38:1 そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、その名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。

38:2 そこでユダは、あるカナン人で、その名をシュアという人の娘を見そめ、彼女をめとって彼女のところにはいった。

38:3 彼女はみごもり、男の子を産んだ。彼はその子をエルと名づけた。

38:4 彼女はまたみごもって、男の子を産み、その子をオナンと名づけた。

38:5 彼女はさらにまた男の子を産み、その子をシェラと名づけた。彼女がシェラを産んだとき、彼はケジブにいた。

38:6 ユダは、その長子エルにタマルという妻を迎えた。

38:7 しかしユダの長子エルは主を怒らせていたので、主は彼を殺した。

38:8 それでユダはオナンに言った。「あなたは兄嫁のところにはいり、義弟としての務めを果たしなさい。そしてあなたの兄のために子孫を起こすようにしなさい。」

38:9 しかしオナンは、その生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないために、兄嫁のところにはいると、地に流していた。

38:10 彼のしたことは主を怒らせたので、主は彼をも殺した。

 

「霊の子どもを産む」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

38章全体は、女性の出産について書かれています。出産と信仰と何の関係があるのか?独身の人とか元々子を産むことのできない男性はどうするのか?と思われるかもしれません。たしかにおっしゃる通りでありまして、既婚者はともかく、男性や未婚者の方において子どもが生まれること、すなわち出産とは無関係かもしれませんが、しかし聖書で言われる出産においても、たとえの意味合いがありますのでそれらを見ながら学びができたらと思います。

 

今話ましたように、この世において男女が結婚をした場合に通常なら子どもが生まれます。そしてかねてから話していますように、「男」はキリストをあらわします。一方「女」はキリストの花嫁、すなわち教会やクリスチャンにたとえられています。つまりキリストと教会やクリスチャンは、夫婦関係にあります。この世の中で夫婦の間に子どもが生まれるように、キリストと教会やクリスチャンの間においても子どもが生まれます。もちろん目に見える肉体の子どもではありませんが、「霊の子ども」が生まれるのです。「霊の子ども」とは、クリスチャンのことを言われています。そう、私たちもかつてはノンクリスチャンでしたが、しかし自分たちよりも先に救われていた兄弟姉妹や教会の働きを通して、救われてクリスチャンとして新生することができました。このことは祝福であり、恵みであり、感謝なことではあるのですが、ひとたび救われたのなら、今度は教会の一員となって「霊の子」を産むことを考えることを聖書ではお勧めしています。今回の章や箇所がまさしくそのことを語っているのです。救われて、それで終わりなのではなく、クリスチャンになったのなら、まだ救われていない人を救いへと導くべくお手伝いをするように、私たちは召されている、ということは正しく理解しましょう。結論から話を進めてしまいましたが、みことばを見ていきたいと思います。

 

38:1 そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、その名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。

38:2 そこでユダは、あるカナン人で、その名をシュアという人の娘を見そめ、彼女をめとって彼女のところにはいった。

38:3 彼女はみごもり、男の子を産んだ。彼はその子をエルと名づけた。

38:4 彼女はまたみごもって、男の子を産み、その子をオナンと名づけた。

38:5 彼女はさらにまた男の子を産み、その子をシェラと名づけた。彼女がシェラを産んだとき、彼はケジブにいた。

 

ここで、ユダがカナン人シュアの娘をめとって、何人かの子どもが生まれたことについて書かれています。よく話をしていますように、「聖書はイエス・キリストについて証をする書」と言われているのですが、ここに登場するユダもキリストのある一面をあらわす型であるという風に理解できます。シュアの娘はユダの奥さんという一個人をあらわすと共に、女性ということから教会を指すたとえでもあります。つまりここで言われていることは、ユダ、すなわちキリストが教会の伝道の働きを通して信者を産んだ、と理解できます。まさに先ほど申し上げたように、伝道に関して聖書が奨励していることがお分かりになると思います。次を見てみます。

 

38:6 ユダは、その長子エルにタマルという妻を迎えた。

38:7 しかしユダの長子エルは主を怒らせていたので、主は彼を殺した。

 

長子エルはユダによって妻タマルを迎えました。ちなみに妻タマルも教会の型ではないかと思います。ゆえに長子エルをはじめ、オナンやシェラは教会に連なる信徒のたとえではないかと思われます。そしてここでは長子エルが主を怒らせてしまい、殺されてしまったことを言われています。日本語の聖書には書いていませんが、7節のところをKJV訳で見ると、「長子エルは罪深い」とあります。私の想像なので当たっているかどうかは分かりませんが、私たちが伝道をするというときに、「罪」があると神さまに用いられない可能性があるということを言われているのではないかと思います。クリスチャンであっても「罪」があり、しかもなおかつその罪をいつまでも悔い改めようとしないときに、神さまに用いられようがないということを言われているのではないかと思うのです。ハッキリ言ってしまうと、役立たたずになってしまうのでは?と思います。そして「殺した」ともありますように、このことにもたとえがあると思うのですが、霊的に死んでしまうことや死後の滅びということをも言われていると思います。絶対にそうだ!とは言えませんが、KJV訳に「罪深い」ということばがありましたので、また、「罪」=「死」(滅び)ということが言われているので、そのように解釈しました。私たちが伝道をするのは非常に良いことではあるのですが、常に罪からきよめられて人さまに救いや贖いに関することを伝えていきたいと思います。そうでないときに、エルのように神さまから怒りを買ってしまったら、せっかくの伝道が台無しになってしまったり、はたまたエルが殺されてしまったように、霊的に死んでしまったり死後、滅んでしまう可能性がありますのでそのあたりはきちんと押さえておきたいと思います。さらに見ていきましょう。

 

38:8 それでユダはオナンに言った。「あなたは兄嫁のところにはいり、義弟としての務めを果たしなさい。そしてあなたの兄のために子孫を起こすようにしなさい。」

38:9 しかしオナンは、その生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないために、兄嫁のところにはいると、地に流していた。

38:10 彼のしたことは主を怒らせたので、主は彼をも殺した。

 

長子エルが主に殺されてしまったので、今度は次男であるオナンにユダから声が掛かりました。「義弟としての務めを果たしなさい。そしてあなたの兄のために子孫を起こすようにしなさい。」と。細かい話で恐縮なのですが、「子孫を起こすようにしなさい」の箇所はKJV訳では“raise up seed”(子を産む)とあります。つまり「子を設けよ!」と言われているのです。けれども9節にありますように、兄嫁のところにはいってもオナンは地に流していたために、子どもができませんでした。それによって彼も主から怒りを買い、殺されてしまいました。

 

先ほど話しましたように、オナンも教会の信徒の型ではないかと思います。つまりここで言わんとしているのは、教会に連なりながらも、しかし子を残さない、すなわち霊的な子どもを産まない、もっと分かりやすく言うなら、伝道する気持ちがゼロというときに、神さまから怒りを招いてしまうのです。そして長子エルと同様、殺されてしまうのです。つまり霊的に死んでしまい、神さまの前に役に立たなくなってしまうのです。そうそう、役に立たないということばで、何か思い出すことばがないでしょうか?マタイの福音書には神さまからタラントをあずかった三人のしもべについての記述があって、ふたりは商売(伝道のたとえ)をしてきちんと儲けを出したのですが、あとのひとりはタラントを地の中に隠していたために儲けはゼロでした。それに対して役に立たぬしもべは暗やみに追い出しなさい。」と主から言われてしまいました。「役に立たぬ」のところは、KJV訳では「儲からない、無駄な、無益な」とあります。これってクリスチャンでありながら、伝道の働きに何ひとつ参加しなかった人のことを言われているのではないでしょうか?そういうしもべに対して神さまは「暗やみに追い出しなさい」と言いました。それに続いて「そこで泣いて歯ぎしりするので」ともあります。この「歯ぎしり」ということばも別の箇所で使われています。「御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」のことばがそうですが、これは、「御国の子ら」すなわちクリスチャンが天の御国を受け継がない、ということを言われているのです。そして長子エルと次男オナンが殺された、というのも同じことを言われているのではないかと思います。

 

ですから、もし救われてクリスチャンになったのでしたら、既婚、未婚に関係無く、「霊の子ども」を産むことについて考慮していきたいと思います。そう、多少なりとも「伝道」についてはまじめに考えていきたいと思います。「そんなこと言われても大クルセードの伝道師にはなれないし、学びをするためのお金も時間も無い!」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、そんなに大げさにお考えにならなくても大丈夫です。それこそ先ほどの三人のしもべの例ではありませんが、神さまが個々におけるクリスチャンにそれぞれの持ち場立場にふさわしいタラント(賜物、能力)を与えてくださるので、それらを用いて伝道の働きに携わっていけば良いのでは?と思います。たとえばお仕事が忙しくて実際の働きに参加する時間が難しいという場合には、献金という形でも伝道の働きに携われますし、また、お金を自由に使える環境ではないし、奉仕をする時間も無いなんていう場合には、どうでしょう?道を歩きながらでも、家族や親族や友人や知人の救いのためにお祈りすることはできませんでしょうか?あるいは実際に伝道に携わっている兄弟姉妹がきちんと働きができますように!なんて祈ってみるのはいかがでしょうか?神さまの前にはそれも伝道の働きに関わっていると見なしていただけると思うのですが、いかがでしょうか?方法は何でも良いと思います。なので、せっかくあずかったタラントを地に隠すのだけは何が何でも避けたいと思います。そうしてしまうときに、あわや神さまの前に「役に立たないしもべ」として扱われ、最悪死後、「暗やみ」に放り出されてしまう可能性がありますので、気を付けていきたいと思います。

 

重ねて申し上げるようで恐縮ではありますが、今回のポイントをまとめます。

 

ノンクリスチャンから救われてクリスチャンに新生することは尊いことであり、喜ばしいことではあるのですが、そのあとのことも視野に入れて歩んでいきたいと思います。自分が救われて晴れてクリスチャンになった、それで万事OKなのではなく、いまだ敵の領土にいる人々の救いについても考慮していきたいと思います。そうなんです。救われたのちにはぜひ、霊の子ども(クリスチャン)を産んでいきたいと思います。また、子を生むためには伝道の働きが必要ですので、何らか方法で、そしてできることからでOKなので始めていきたいと思います。その際に、長子エルのように、もし「罪」がある場合にはきちんと悔い改めて伝道の働きに携わるようにしたいと思います。

 

私たちが伝道をすることに関して、神さまは、イエスさまは、ほんの些細なことであっても喜んでくださり、そしてそれは後の世における報いにも反映されていきますので、ぜひおすすめいたします。もちろんすでに実践されている方には関係の無いことではありますが、しかし伝道はほとんどしていない、あるいは皆無という方におきましては、このようなことを契機にご一考いただけると幸いです。

 

レムナントキリスト教会においても、わずかながらも伝道の働きをしております。クリスチャン向けが主体なのですが、しかし最近はそれにプラスしてノンクリスチャンへの伝道にも励んでおります。半年くらい前から月に一度「月刊バイブル」というものを発行しているのですが、地域にポスティングをしたり、友人や知人に送ったりしています。全国的に広げるというところまではいってはいませんが、しかし神さまから示しを受けた範囲で、そしてできるところから行っております。エレミヤ牧師が、「ノンクリスチャンへの伝道をしばらくしていなかったのでとても気になっていた。でも、このことで肩の荷が少し降りた。少しでもやっていくようにすれば、のちに神さまから叱責を受けることは恐らくないでしょう。」とおっしゃっていましたが、私もそのことに同感です。今回の箇所を通して、神さまが与えてくださる方法や導きでこれからも、ひとりでも多くの人に伝道をしていけたらなぁと思いました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光をお返しいたします。