聖書箇所 創世記44:9

 

44:9 しもべどものうちのだれからでも、それが見つかった者は殺してください。そして私たちもまた、ご主人の奴隷となりましょう。」

 

「『主人の奴隷』いうことばを通して語っていること」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

このみことばの背景に関して簡単に説明したいと思います。前のほうから読むと分かるのですが、ヨセフの兄弟たちは、ききんのために食物を求めてエジプトに下っていきました。その際に、かつて兄たちから反感を買ったためによそに売られた弟ヨセフは、その時にエジプト全土を支配していました。けれどもヨセフの兄たちはそうとは知らずにエジプトへ行き、ヨセフから穀物を買っていました。一方ヨセフは兄たちのことに気付いていたので、代金を袋に入れて返してあげたり、食事に招待したりしていました。

 

上記の出来事は、食事が終わったあとに起きたことなのですが・・・兄弟たちが自分の国に帰ろうとしたときに、ヨセフは家の管理者に命じて、「あの人々の袋を彼らに運べるだけの食糧を満たし、おのおのの銀を彼らの袋の口に入れておけ。また、私の杯、あの銀の杯を一番年下の者の袋の口に、穀物の代金といっしょに入れておけ」と言いました。つまりヨセフは故意に9節の「それ」、すなわち「銀の杯」を弟ベニヤミンの袋に入れたのです。そして一旦、自分たちの国に帰ろうとして出て行った彼らを引き戻して、「あなたがたのしたことは悪らつだ」と言ったのです。それに対して兄たちが述べたことばが、9節のことばなのであります。

 

このことだけを見るならば、たしかにヨセフの兄弟たちには何の非もありません。何せヨセフが故意に銀の杯をベニヤミンの袋に入れたのですから・・・おもてだけを読むと、「変なの~」と思いますよね?しかしよく話をしていますように、聖書のことばに関しては、表面だけを読んで理解する部分と、そしてもう一面、裏の面(たとえの意味合いとか御国の奥義)と言われる部分がありますので、そのことをもよろしければ見ていきたいと思います。

 

レムナントキリスト教会の礼拝のメッセージでも繰り返して言われていることですが、「聖書」という書物は、「イエス・キリスト」について証をする書であります。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネの福音書5:39)とある通りです。ゆえにヨセフも「キリスト」の型をあらわしています。つまり、「ご主人の奴隷となりましょう」とは、「キリストの奴隷となりましょう」ということを言われているのです。そして「キリストの奴隷」ということばにひとつの語りかけを受けましたので、今回はそのことについて話したいと思います。

 

聖書の中で、「奴隷」ということばが所々で使われています。一般的に「奴隷」と聞くと、奴隷制度とか植民地の奴隷とか、そういうイメージがあると思いますが、聖書で言われているのは、たったの二種類です。結論から言ってしまうと、「罪の奴隷」もしくは「義の奴隷」のいずれかです。そして「ご主人(キリスト)の奴隷」とは、「義の奴隷」と同じことを言われています。一方「罪の奴隷」とは、「義の奴隷」とは反対の意味合いとなりますので、「サタンの奴隷」とでも言ったらよいでしょうか?そして私たちクリスチャンは、自分の意志で決断をして、いずれかの奴隷となって歩むことになります。もちろん理想はキリストの奴隷なのですが、しかし残念ながらすべてのクリスチャンがそうなのか?と言うと、どうもそうではなさそうです。そして生涯にわたって、罪の奴隷となって歩みを終えてしまうというときに、どうなってしまうのか?と言うと、天の御国を相続できない可能性があるのです。それに関して以下みことばを見てみましょう。

 

参照 ヨハネの福音書8:34,35

8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。

8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。

 

下線の部分に目を留めていただきたいのですが、「奴隷はいつまでも家にいるのではありません」とイエスさまがハッキリと言われていますように・・・ちなみに「家」は、「天の御国」とか「天の住まい」のことを言われていると思いますが、要するにそこにはずっといることはない、ということを言われているのです。これってどうでしょう?たとえばどこか旅行をした場合に、宿に何泊かしますよね?でも、それは一時的なことであって、ずっとそこに滞在することはありませんよね?つまり、よその者なので宿屋の家族になる、ということはないわけでありまして・・・それと同じようにもし、キリストの息子、いわばキリストの奴隷となっていない、という場合にキリストの家である天の御住まいにずっといる、ということはない、ということをこの箇所において言われているのでは?と思います。

 

ゆえにここでの結論は・・・「罪」ばかり犯しているというときに、あわや天の御国に入れなくなってしまう可能性がありますので、万一「罪」に束縛されているかな?と思うことがありましたら直ちに解放されていきたいと思います。そうしていくときに、自ずと「義(キリスト)の奴隷」の道を歩ませていただくことができますので・・・そして生涯にわたってそのことを全うしていくなら、天の御国が約束されていきますので、よろしければおすすめいたします。ちなみに他の箇所では、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」ということが書かれているのですが、キリスト(義)にも仕え、サタン(罪)にも仕える、ということはどうもできないようですので、どちらかひとつを選んでいきたいと思います。

 

繰り返しますが・・・クリスチャンの歩みにおいてはふたつのパターンがあります。「キリスト(義)の奴隷」もしくは「サタン(罪)の奴隷」のいずれかです。そしてどちらを選ぶか?によって、死後の結論が変わっていきますので・・・そして万が一にも、「罪の奴隷」となってしまう場合に、天の御国は危ないものとなりますので、ぜひ「義の奴隷」としての歩みをしていきたいと思います。よろしければこういうポイントもご理解いただけると、幸いに思います。

 

かつての私は、特に洗礼を受けてしばらくの間は、この世ともうまくやって、そして天の御国もゲットしたい!と思って歩んでいました。でも、それはさきほどの「だれも、ふたりの主人に~」のみことばに相反するものだったために、うまくいきませんでした。結局のところ、「罪」に引っ張られてしまい、一時期はイエスさまのことも、教会生活のことも、すべて投げ出してしまうこととなりました。

 

それからしばらくして神さまの憐れみによって、再びイエスさまと教会生活に立ち返ることができたのですが、しかし当初は、やはりこの世と信仰生活を両立させていく方向で歩んでいました。しかしそれからほどなくして、あらゆることがうまくいかなくなりました。その時に思いました。「もしかすると、自分の思いが神さまの御心の反しているのでは?」と。その頃は、聖書をまじめに読んでいなかったので、今回引用した箇所のこともよく分からなかったのですが、でも、霊的に何となく「神さまから何か怒りを買っているのでは?」ということを感じましたので、自分の思いや考えを少しずつシフトすることにしました。あまり偉そうなことは言えませんが、やるならやる、やらないならやらない、ということに心を定めることにしました。そしていつしか神さまの憐れみによって、「どうせ歩むのなら、きちんとやっていこうかな」という志が与えられましたので、それから徐々にこの世のことと一線を画していく方向に歩んでいくようになりました。

 

ではあっても・・・すぐにうまくはいきませんでした。周囲の人たちからは変な目で見られたり、家族や親族からは反発の声を受けたりもしました。でも、そのたびに神さまが助けてくださって、何とか聖霊さまが示す方向に少しずつ歩ませていただけるようになりました。

 

今でも、完全に「義の奴隷か?」と聞かれれば、全く自信はありませんが、今回の学びを通して、キリストの奴隷として歩むことの大切さを改めて教えられたように思いましたので、そのようにしていけるといいなぁと思いました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに感謝します。