聖書箇所 創世記45:8

 

45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

 

「あらゆる事柄は神の御手にある」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

ここでヨセフは兄弟たちに自分の身を明かしました。上記のことばは、かつて自分を売り渡した兄たちに対して言われたことばです。「今、私をここに遣わしたのは~」と。普通に考えるなら、何か嫌なことをされた場合に、とんでもない!と誰もが思うと思います。けれどもヨセフは兄たちに恨みを述べたわけでもなく、自分がされたことに悪い報いをするわけでもなく、「実に、神なのです」と、我が身に起こったことを肯定さえしているのです。すごいですよね?!

 

かつてクリスチャンになったばかりの頃、救われればすべてがハッピーになる、と思っていました。けれども歩んでいくうちに、そのことがだんだんとくつがえされるようになっていきました。ノンクリスチャンの時代には起きなかったことがゆるされたり、また、理不尽だなぁと思うことを時折体験するようになりました。なぜ、そんなことがゆるされるの?と思うこともありました。でも、だんだんとそのことを理解するようになりました。そのことも含めて、すべては神さまのご計画のうちなのだということを。今でも、納得できないこととかが時としてありますが、しかし少しずつ考えをシフトしていく中で喜びや平安を徐々に得るようになってきております。そしてわずかではあっても実を見るようにもなっています。まさに、あらゆる事柄は、神さまのおゆるしの中で起きているのだと、そしてそれだけで終わるのではなく、すべてのことが益になることに希望を持てるようになりました。

 

私の体験はこんな感じなのですが・・・人間的に見るなら、ヨセフに起きたことはとんでもないことのように思えます。しかしヨセフ自身が言われたように、彼が売られたり、牢に入れられたりしたのは、じつに神さまのご計画だったのです。事実、それによってヨセフの兄たちをはじめ、多くの人をききんから助けることができたのですから。それこそ、「塞翁が馬」の「災い転じて福となす」なんていうことわざがありますが・・・たしかこれって中国の漢文か何かで教えていただいたと思うのですが、その話の中で、ある男の人がケガをするのですが、そのために戦争に行かずに済んだ、という出来事があったように思います。それと同じように、私たちの身の上に起きてくるひとつひとつのことも、意味があって、しかもそれがのちに大いに益をもたらすために起きているのでは?と言えると思います。

 

さて、ヨセフの話もそのことを代表するものではありますが・・・今まで何度かリピートしていますように、聖書のあらゆる登場人物はイエス・キリストの一面をあらわす型でもあります。ゆえに、ヨセフもキリストの型なのですが、イエス・キリストの生涯のことを少し振り返ってみましょう。

 

イエスさまの公生涯の三年半に起きたことはどうだったか?と言うと、はじめの頃は山上の垂訓とか、5千人の給食のことをはじめ、多くのキリストファンがいました。しかしそれがずっと続いたか?と言うと、そうではありませんでしたよね?だんだんと人が去って行き、さいごはほぼ12弟子しか残らず・・・しかもその中のひとりであるイスカリオテのユダはキリストを裏切りました。そして主は十字架にかかって命を失いました。

 

それだけを聞くと、なんと不運なむなしい生涯だと、多くの人は思うでしょう。特に、まだクリスチャンになっていない人はそう感じると思います。しかし・・・キリストの受難は、前もって預言されていました。イザヤ書53章にそのことが書かれています。よろしければその箇所を見てみましょう。

 

参照 イザヤ書53:112

53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

53:2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

 

少し見てみましょう。

 

53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと

53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 

3節は、イエスさまが十字架にかかる前の状態だと思われます。多くの人たちから嘲られ、ムチ打たれ、そして十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かう姿ではないかと思います。「彼は罰せられ、神に打たれ~」と書かれている通りです。しかし10節「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」とありますように、イエスさまがこのような目に会うことは神さまのご計画だったのです。人間的には最悪の状態にさえ見えますよね?けれども、「主のみこころであった」のです。なぜ、そうだったのか?について、5,6節にあります。

 

53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

 

5節「私たちの背きの罪のために刺し通され」のことばが、その理由です。罪も何も無いキリストが・・・それどころか良いことしかしなかったキリストがそういう目に会ったのは、私たちを「背きの罪」から解放する(贖う)ためだったのです。本来、滅ぶべき存在の私たちを何とか罪(滅び)から救って平安をもたらすために・・・もっと言うなら、永遠の命を得させるために、キリストは十字架にかかって死なれたのです。6節で「すべての咎を彼に負わせた」とありますが、私たちが永遠の命を得るために、私たちの身代わりとなってイエスさまは咎を背負ってくださったのです。そうしなければ、贖いが成立しないからなのです。そして実際にイエスさまがこのことを成し遂げてくださったので、多くの人が救われるようになったのです。そう、すべての人を救いへと導くためだったのです。そしてこのことは神さまのご計画であり、創世記のことばにもそのままつながるのです。同章の5節「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」のことばが、そのことを証しています。「いのちを救うため」ということばは、まさに「罪からの贖い」と同じことを言われています。そして「あなたがたより先に、私を遣わしてくださった」とのことばは、イエスさまがこの世に遣わされたのは私たちのありとあらゆる罪から解放するためだった、ということに通じるのでは?と思います。

 

今回の結論を述べます。ヨセフやイエス・キリストのことをはじめ、見えるところにおいては悲劇と思われることが時としてゆるされてしまう場合があります。また、ヨセフやイエス・キリストに起きたことは、終末をはじめ、これから来たらんとする艱難時代に起きてくると思われます。福音書の中でイエスさまが弟子たちに世の終わりについて語っているときに、「人々があなたがたを苦しい目に会わせ、殺します」とか「わたしの名のために、あなたがたはすべての国々の人に憎まれます」とか言われているからです。また、「あなたがたを会堂へ引き渡す」とか「訴える」とか「死に渡す」とも、言っているからです。

 

事実、このことは起きつつあると思います。たとえばアメリカでは路傍伝道をしたり、トラクトを配っていたクリスチャンが逮捕されています。また、同性愛に異を唱えるクリスチャンのことを「非合法者」として、つまり法律に背く者として逮捕し、投獄をして多額な罰金まで科しているそうです。

 

また、それとは別に、アメリカやカナダには強制収容所が数多く建設され、多くの人を収容できるよう、準備が整えられています。しかも棺桶までかなりな数が用意されていて、それらは増え続けているそうです。このことは、艱難時代にかつての12弟子のように真にキリストに着く、いわばみことばに忠実なクリスチャンを逮捕、投獄、死に至らせるためのものであります。人間的には、「なんということを!」と眉をひそめてしまうかもしれませんし、信じがたいことかもしれませんが、しかしこのことも神さまのご計画の一部なのです。と、言うのは、単に捕らえられたり、引き渡されたり、訴えられたりと、それで終わるのではなく、それこそ主が言われたように、キリストのことを「弁明」する良い機会ともなるのです。そのことを通じて悔い改めて救われる人が起こされていく、ということをも意図されておられるのです。

 

ですから万が一、そういったことが身の上に起きたとしても、慌てふためいたりすることのないようにしていきたいと思います。たしかに目に見えるところでは、悲惨、悲劇と思ってしまうかもしれませんが、けれどもそのことも神さまのご計画の一部なんだなぁと受けとめていくときに、ヨセフやイエスさまのような対応ができると思いますので、その時になって落胆することのないように、その日に備えて今から準備をしていきたいと思います。

 

リピートしますが、起きてくるあらゆる事柄は神さまの御手の中にあります。それがたとえ人間的には悪く見えるようなことであっても、です。そして他の箇所に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とありますように、すべてのことを働かせて益としてくださることを信じていきたいと思います。特に世の終わりにおいては、たとえ正しく歩んでいたとしても、「なぜ、このようなことが・・・」ということに遭遇する機会がこれから多々あるかと思いますが、しかし神さまのご計画だから・・・と前もって理解しているならそれほど驚嘆することもなく、そんな中でも神さまの平安や喜びのうちに歩んでいけると思います。よろしければこのようなこともご理解くださると幸いです。