聖書箇所 創世記48:10

 

48:10 イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。

 

「肉体の目がかすんでしまっても」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

「イスラエル」とは、「ヤコブ」のことです。そして、「彼ら」とは、ヨセフのふたりの子どもたちのことです。ここで、イスラエル、すなわちヤコブの目が老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった、ということが言われています。このことは、人間的にはとても大変なことだと思います。目が見えないと、実際の生活の面で困難なことや不自由なことが多いからです。それはそうなのですが・・・けれども、それ以降の節を通して、「目」に関して、とても大事なことを語っているかな?と思いましたので、聖書的な視点でそのことをみていきたいと思います。

 

参照 創世記48:1219

48:12 ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。

48:13 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。

48:14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。

48:15 それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。

48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」

48:17 ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。

48:18 ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。」

48:19 しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」

 

上記箇所で、ヤコブはヨセフのふたりの子、マナセとエフライムを祝福するために、自分のところに引き寄せました。その時に、本来なら、長子であるマナセの頭の上に右の手を置くべきだったのですが、しかし、14節に書かれていますように、手を交差してそれぞれの孫の頭の上に置いて、祝福のことばを述べたのです。それに気づいたヨセフは、「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、・・・」と言いましたが、しかし、19節にありますように、「わかっている。わが子よ。」とヤコブは言いました。

 

このことを通して・・・たしかにヤコブは老年のために、肉体の目は見えなかったのですが・・・それゆえにヨセフのふたりの子どもの顔も見えていなかったとも思うのですが・・・しかし、彼は、マナセとエフライムのことを、霊的な目で見分けていたのではないかと思われるのです。つまり、彼らのそれぞれの歩みを、霊においてきちんとご覧になっていて、祝福を与えたのではないか?と思うのです。それと同じようなことについて書かれている箇所が他にもありますので、よろしければ見てみましょう。

 

参照 Ⅰ列王記14:16

14:1 このころ、ヤロブアムの子アビヤが病気になったので、

14:2 ヤロブアムは妻に言った。「さあ、変装して、ヤロブアムの妻だと悟られないようにしてシロへ行ってくれ。そこには、私がこの民の王となることを私に告げた預言者アヒヤがいる。

14:3 パン十個と菓子数個、それに、蜜のびんを持って彼のところへ行ってくれ。彼は子どもがどうなるか教えてくれるだろう。」

14:4 ヤロブアムの妻は言われたとおりにして、シロへ出かけ、アヒヤの家に行ったが、アヒヤは年をとって目がこわばり、見ることができなかった

14:5 しかし、主はアヒヤに言われた。「今、ヤロブアムの妻が子どものことで、あなたに尋ねるために来ている。その子が病気だからだ。あなたはこれこれのことを彼女に告げなければならない。はいって来るときには、彼女は、ほかの女のようなふりをしている。」

14:6 アヒヤは戸口にはいって来る彼女の足音を聞いて言った。「おはいりなさい。ヤロブアムの奥さん。なぜ、ほかの女のようなふりをしているのですか。私はあなたにきびしいことを伝えなければなりません。

 

4節で、「アヒヤは年をとって目がこわばり、見ることができなかった」とあります。ここでも、ヤコブと同様、目が見えないことについて言われています。そして、ヤロブアムの妻はアヒヤを訪ねに行く際に、変装をして出掛けたのですが・・・しかしアヒヤは、前もって語られた主のことばによって、彼女の足音を聞いただけで、ヤロブアムの奥さんである、ということを理解したのです。

 

そうなんです。ヤコブ、アヒヤの両者の共通点は、肉体の目は見えなかったことです。しかし、だからと言って、霊的な目も見えなかったのか?あるいは霊的な耳も聞こえなかったのか?と言うと、そうではなく、肉体の目が見える、見えないに関係無く、霊的には正しく見たり、聞いたりすることができたのです。

 

こういったことから教訓を得ることができます。ひとつは、彼らの肉体の目のことについて言われているのですが・・・しかし、このことを通して、このようなことをも言われているのでは?と思いました。それは、「目」は「肉体」の一部なのですが・・・そして私たちの肉体、というのは、目が見える、見えないは関係無しに、非常に弱いものである、ということです。また、「肉」は、聖書では、「罪」を示します。その他、「生まれつき」という意味合いがあります。そのことから、たとえ私たちの生まれつきのものが弱かったとしても・・・たとえば、人間的には特別な才能が無かったり、あれもこれも何をやってもダメ~、なんて思ってしまっても・・・けれども、聖霊が働くときに、霊的に正しく見たり、聞いたり、あるいは判別したりすることができる、ということを言われているように思います。それこそ、老年のために体が弱ってしまって、目が見えなくなっていたヤコブとアヒヤがそうではないかと思うのですが、いかがでしょうか?絶対にそうです~、なんてことは言えませんが、今回の箇所はそのようなことをも語っているのでは?と思いました。当然、人間的には、目は見えたほうがいいでしょうし、どこも不自由しないのが良いのではありますが・・・そうではあっても、しかし、聖書においては、私たちが霊的にどうなのか?きちんと見えているのか?聞こえているのか?ということに力点を置いているように思えます。

 

また、サムエル記に登場する祭司エリもそうでした。少年サムエルがエリの前で主に仕えていたときのことですが・・・その時、すでにエリの目はかすんできて、見えなくなっていました。そしてふたりは寝ていたのですが・・・そんな中、主はサムエルを呼ばれました。けれども、サムエルにはエリが自分を呼んだと思って、エリのところに走って行きました。でも、エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ」と言いました。そのことが再度ありましたが、そのときにも、エリは同じことをサムエルに言いました。さらに三度目にサムエルが来たときには、「『主よ。お話ください。しもべは聞いております』と申し上げなさい」と言いました。聖書にも書いてあるのですが、この時エリは、主が少年サムエルを呼んでいる、ということを悟って、そのように言ったのでした。エリも目は見えませんでした。しかし、主の声をきちんと聞くことができたのでした。

 

ですので、ここでのポイントをくりかえして言いますと・・・私たちが霊的に正しく見えるか?聞こえるか?ということは、非常に大事だ、ということであります。そしてきちんと見えるなら、聞こえるなら、それはとても尊いことでもあります。なぜなら、主ご自身も、「あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」と言われているからです。

 

また、正しく見るか?見ないか?というのは、もしかするとクリスチャンの後の世の行き先にも大いに関わってくる可能性があるのでは?とも思います。それこそ、かつてイエス・キリストの初降臨のときに、パリサイ人や律法学者をはじめ、イエス・キリストを認めることができなかった人々は、結局のところ、キリストを十字架に付けて殺してしまって、のちにおいて神さまからの怒りのさばきに入ってしまいましたので・・・今の時代も、まさに同じではないか?と思うのですが、どうでしょうか?

 

そういうわけで、私たちは、日頃の歩みにおいて、きちんと霊的に見聞きできるように、祈り求めていくことは大事ではないか?と思います。そう、ヤコブやアヒヤやエリのように、たとえ肉体の体が衰えてきたとしても、あるいは人間的には特別なものがなくても、そのことに力点を置いていくように心がけていきたいと思います。もし、そうかもしれない・・・なんて思いましたら、ぜひ、実践してみてください。

 

他の教会もそうかもしれませんが・・・レムナントキリスト教会においても、聖霊の賜物を求めております。その中で、特に、「預言の賜物」を熱心に求めています。さらに「霊の見分けの賜物」も求めるようにしています。およばずながら、わたしもそのお祈りに参加しております。

 

そして今回の箇所を通して、霊的に見聞きすることの大切さを学ばせていただき、また、そんな風に賜物を求めていくことは本当に大事なことだと思いましたので、これからも実践していけたらなぁと思います。いつも大切なことを語ってくださる神さまに、栄光と誉れがありますように。