聖書箇所 創世記50:1517

 

50:15 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」と言った。

50:16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。

50:17 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。

 

「神の前に罪を告白するなら赦していただける」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

上記みことばは、彼らの父、ヤコブが死んだあとのことをいわれています。兄たちがいったように、たしかにヨセフの兄たちは、かつてヨセフに対して悪いことをしました。けれども、17節で、「しもべたちのそむきを赦してください」と兄たちはヨセフにおねがいしました。そして、結果として、赦してもらうことができました。

 

ところで最近礼拝のメッセージで、Ⅰヨハネの手紙の箇所をとおしてだいじなことをおしえられました。以下が、その箇所です。

 

参照 Ⅰヨハネの手紙1:810

1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

 

すこし見てみましょう。

 

1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

 

私たちは、どんなに気をつけていても、どうしても罪を犯してしまう存在でありますが・・・けれども、「罪はない」というときに、自分を欺いてしまうことになり、はたまた、真理が消え去ってしまう、ということをいわれています。ですから、万が一にも、「罪はありません」なんてことをいっていましたら、それはただちに悔い改めていきたいとおもいます。

 

1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 

今、申し上げましたように、どんなに注意を払っていても、私たちはどうしても罪を犯してしまうことがあります。けれども、そのことを見過ごしにせずに、きちんと神さまの前に言い表すなら、神さまはその罪を赦してくださって、そして、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。ですから、もし、罪を犯してしまった場合には、ただちに神さまの前に罪を告白して、赦していただきたいとおもいます。

 

1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

 

ここで再度、「罪を犯してはいないと言うなら・・・」ということがいわれています。このように重ねていわれている、ということは、もしかすると私たちは自分の罪をなかなか認めたくない存在である、ということをいわれているのでしょうか?だとするなら、それは良いことではありません。そうしてしまうときに、「神を偽り者」としてしまうことになってしまうからです。しかも、神のみことばが私たちのうちにない、とまでいわれていますので、気をつけていきたいとおもいます。

 

以上の箇所をとおして、学びを受けることができます。ひとつは、ヨセフの兄たちのように、私たちはどうしても罪を犯してしまう、ということです。だからと言って、逃げ道が無いか?というとそうではなくて、神さまの前に犯した罪を言い表していけばよいのです。そうするなら、必ず赦していただけるのです。しかも、すべての悪からきよめていただけるのです。裏返していうなら、罪を隠してしまうときに、神さまの前に言い表さないというときに、赦されない可能性がありますので、はたまた、悪にまみれたままになってしまう可能性がありますので、気をつけていきたいとおもいます。そして、また、罪を持ち続けたまま、つまり、イエスさまにあがなってもらえないまま生涯を終えてしまう場合に、天の御国に入れなくなってしまう可能性がありますので、罪がありましたら、すかさず神さまの前に告白して、赦していただくようにしていきたいとおもいます。

 

もうひとつの語りかけがあります。冒頭のみことばの16,17節で、兄たちは父ヤコブがヨセフに対して自分たちの背きと罪を赦してやりなさい、ということをいっていたことを述べています。ちなみに、父ヤコブは、ヨセフや兄たちの父であると同時に、しかし、これはまた、天の父なる神さまのたとえではないかとおもいます。また、ヨセフは、ヨセフ一個人と共に、イエス・キリストをあらわす型ではないかとおもわれます。そのように見ていくときに・・・『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』とは、天の父なる神さまの命令であるという風に理解できます。そして、ヨセフ、すなわちイエス・キリストはそのことばに応じた、兄たちの罪を赦した、という風に読み取れるのではないかとおもいます。

 

ヨハネの福音書に書かれている姦淫の場でとらえられた女の記述がそのことを物語っているのでは?とおもいます。イエスさまは女のことを罪に定めずに、赦したのです。このことから・・・イエスさまを通して、天の父なる神さまは赦しの神である、ということを私たちに教えられているのです。そうです。天の父なる神さまも、イエスさまも、いずれも赦しの神であられるのです。私たちを赦してくださるお方であるのです。しかし、また、それゆえに、私たちに対しても、人の背きや罪に対して、「赦してあげなさい」ということをもいわれているのでは?とおもいます。

 

今回の要点をまとめます。

 

ひとつは、私たちが罪を犯した場合に、そのことを隠すことなく、神さまの前にきちんと言い表していきたいとおもいます。ヨセフの兄たちは、そのことを実践して赦されたパターンですので、私たちもそれに倣っていきたいとおもいます。そうでないときに、赦されない、なんていうことになりますので、ぜひ、このことは実践していきたいとおもいます。

 

もうひとつは、天の神さまやイエスさまが私たちの罪を赦してくださる代わりに・・・と、言ってはなんですが、もし、自分たちに対して罪を犯した人がいた場合に、それは主にあって、赦すようにしていきたいとおもいます。そうでない場合に・・・これも福音書に書いてあることなのですが、すべての負債(神さまによって赦していただいた罪)が再び戻ってきてしまう可能性がありますので・・・そうすると、せっかくのイエスさまの贖いが台無しとなり、天の御国ではなく、永遠の刑罰に入れられてしまう可能性がありますので、人の犯した罪を赦す、ということも、ぜひ、実践していきたいとおもいます。

 

さいごに、みことばを読んでおわりにしたいとおもいます。

 

“お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。” (エペソ人への手紙4:32)

 

“互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。” (コロサイ人への手紙3:13)