Ⅰコリント人への手紙6章 2011.7.24,7,31

 

6:1 あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。

訴える:この世の裁判に持ち込み、訴訟沙汰にする→このことに御心は無い

このことはコリントの教会で起きたこと

終末、背教のあらゆる特徴:やってはいけないことを教会が起こす

訴訟は起こっている Ex:インターネット

どうでもよいことや悪口でも、次々に訴える→末期的な症状→絶対に行ってはダメ!!

世の中では訴訟沙汰は当たり前

しかし、キリスト教界でも起きている

よくないことを教会は行っている

Ex:同姓愛を罪だと批難してはダメ、これは性同一障害などと、屁理屈を言っている、これは、まさに末期的な症状→このように神の言葉に聞き従わないので、黙示録の語っている裁きに入っていく

教会は、とんちんかんな教えが平気で広まっている

正しく素直に聖書を読んでいきたい

 

6:2 あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。

聖徒が世界をさばくようになる:(原語)聖徒は、この世を裁くようになる

正しく聖徒として、とどまれば、いずれ、この世を裁くという偉い立場の者になる

 

参照

マタイ19:27-29

19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」

19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。

イスラエルの12部族が裁く→12使徒、弟子の型

今の世で偉くなくても、12弟子のように何もかも捨てて主に仕えていくなら、12部族を裁く

私たちのクリスチャンの勝負は、この世ではない

28節に語りかけがある

「世が改まって」と書かれているように、次の世にポイントをおいて歩んでいくべき

私たちは、ここに力点を置く

世が改まるまでは、良いことは、あまり無い

Ex:サウルとダビデの時代

サウルの時代:追いかけられた

しかし、忠実に主の御心を成し遂げたときに、ダビデの時代に恵みを受けた

私たちクリスチャンは今の時代ではない

キリスト→批難され、あざけられ、下着も取られ、最後は十字架につけられて死んだ

ペテロ、パウロも同様→この世のカスとも言われている

たとえ、どんなに素晴らしい学識や啓示があっても、私たちのポイントは世が改まるとき

勘違いする人がいる→世でも成功して、後の世もゲットしようと考えている、しかし、それは間違え、ひっくり返される

両方得ようとしたらダメ!!

イエス様、ペテロ、パウロの歩みが模範

律法学者がこの世についていたからイエス様は酷い目に遭った

今の時代も同様

艱難前携挙説を受け入れ、真理を退けているため、真理を語っても偉くなんかならない

後の世に備えていくのが正しい

イエス様に従う→受けるものを受け、永遠の命を受ける

世を裁くこと関して

 

参照 黙示録2:26,27

2:26 勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。

2:27 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

今の歩みは困難を通る、しかし世が改まったときに、世を支配する権威が与えられる、後の世に希望を持つ

ある意味キリスト教は御利益宗教とも言える→この世では何も得なくても、後の世において報いを得る→このことを望むのは正しい

この世は死ぬまでのこと、ゆえに、的外れにならないこと

この世における成功ではなく、世が改まることに目を留める→このことは永遠に続くこと

後の世を目指すのが現実的

 

参照 ルカ19:12,13,15-17

19:12 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。

19:13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』

19:15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。

19:16 さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』

19:17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』

身分の高い人:再臨に帰って来られるキリスト

しもべは報いを受ける

しかし、クリスチャンのすべてが、しもべではない、お客もいる

今の世でお客になっている人は後の世において得るものは無い

忠実に行っていくときに後の世で高い位につく

今の時代、キリストが王ではない、サタンが王、しかし、キリストが栄光の座につくときに、しもべは誉れを受ける

今の人生は限られている→今は、後の世における備えの時

限られた時間の中で、きちんとしもべとしての歩みに徹することにポイントがある

救いは平等、しかし報いは変わってくる

おすすめ→しもべとして、きちんと全うして、後の世における約束を得る

今の歩みによって、後の世におけることが大きく変わってくる

 

6:3 私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。

御使いをも裁く→御使いよりも上になる

神に造られたもの ○御使い→能力的には人間よりも上、サタンも御使いの一人

            ○人間

しかし、これは後に逆転する

御使いは罪を犯す、しかし人において正しく行っていくときに、後の日に逆転していく

聖書は、いくつかの箇所で、このことを暗示している

Ex:兄が弟に仕える エサウとヤコブ、カインとアベル

私たちがきちんとキリストに従って歩むなら、御使いに勝る栄誉を受ける

だから、大事な事柄にポイントを置くことが正しい

 

6:4 それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。

6:5 私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。

6:6 それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。

コリントの教会:肉的な教会

互いに訴えあっている、これは暗示的

Ex:兄弟が兄弟を訴え、死に至らせる

訴える人は明らかに肉的な人 

 

参照 Ⅰコリント3:3

3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

終末は、正しく真理を見ている人がこの世についている霊的に盲目なクリスチャンに訴えられる

しかし、正しいのは、訴えられる人

 

6:7 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。

そんな訴訟を起こすこと自体が敗北だと言っている

聖霊にあって導かれて訴えられたとしても、そのことに甘んじているのが正しい→すべてのことを見ておられる神が、このことを正しく裁かれるから

弟子の歩みに加わった人でも、肉的な人は、人を訴えたりする、へたをすると、この世の人よりも悪い、しかも、書かれていることは必ず実現し、大規模なものになっていく

 

6:8 ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行なう、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです。

とんでもないことをコリントの人は行っている

兄弟に対して、この世と変わらないことをしている

これからキリスト教界で頻繁に起きてくる

肉的な、この世的な歩みをするクリスチャンが多くなる

しかし、そうではあっても、ますます真理に堅く立ち、悪には絶対に加担しない!!

そして、ますます肉的なクリスチャンは増える→しかし、御国を受け継げない、火の池に入る→このことは、次の9,10節に書かれている

 

6:9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、

6:10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。

色々と悪口を言ったりする人は神の国を相続できない

キリスト教界で、はっきり言われていないため、騙されている人が多い、しかし、騙されてはいけない

Ex:同性愛のことを性同一障害だと言っている

世の風潮が法律でそのように変わっていく可能性がある

アメリカで「同性愛をやめましょう」とプラカードと聖書とハンドマイクを持って、そのように言っていたクリスチャンが「性同一障害の尊厳をそしった」等と、理由をつけられて逮捕された

神の言葉に変わりはない、だから騙されてはいけない

神の言葉は、一点一画も変わることがない

ここに書かれているように、恐ろしいことが実現する→火の池に投げ込まれる

人を恐れずに、神を恐れる→神の言葉を忠実に守る

Ex:そしられても、そしり返してはダメ!

御言葉に正しく立つことを今から体得していないと、惑わされたりこの世の風潮に引っ張られたりする

この警告はコリントの人へ向けられている→正しくないなら神の国は相続出来ないと言っている

「正しくない者」とはコリントの教会の人々のこと

明らかにコリントの人々に、このまま歩むなら神の国は相続出来ないと言っている

しかし、このことは全世界の今のクリスチャンに向けても語られているメッセージであることを正しく理解する

勘違いしている教理、全く聖書的に根拠の無い教理(Ex:艱難前携挙説のように根拠も無い安心感をクリスチャンに与えるもの、クリスチャンと名が付けば裁かれずに皆天国、地獄は無い等)がキリスト教界を覆っている→これはクリスチャンを滅びに至らせるもの

後の日に「こんなはずではなかった」と思わないために、この節では、はっきりと語っている

クリスチャンと言っても全ての人が御国を受け継ぐわけではなく、結局のところ、歩み方次第となる

今は曲がった時代であるという基本の基本を多くのクリスチャンは理解していない

ゆえに後の日に唖然とするクリスチャンがいる

この箇所は世の人々だけでなく、クリスチャンに向けても言われていることを正しく理解する

「クリスチャンがこの世的な歩みをしても問題が無い」とそのような偽りの福音が伝わっている

しかし聖書に書かれていくように実現していくので警戒しなければいけない

アメリカを起点に騙しが出回っている、さっきも言ったように同性愛は聖書で禁じられているにもかかわらず「性同一障害」という名前を付けることによって、そのことがまかり通っている

そして、そのことを多くのクリスチャンが喜んで受け入れている

今の時代、クリスチャンは背教、バビロンの災いに入っている

このことに何も危機感を覚えていない

今のトレンド、つまり9,10節に書かれている「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者」、このようなことが、どれもこれもOKになってきている

それらのことを厳しく指摘すると、宗教的非寛容とか異端とか言われてしまう

しかし、9節に書かれているように騙されてはいけない

今の時代は特にこの言葉(9,10)を強調していかなければいけない→あらゆる惑わしがきているから

 

6:11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

私たちクリスチャンも、この世にあったが、救われた者

この世の罪にあったからと言って、それでお終いではない、このことは尊い

しかし、義とされた人この世に引きずり込むのはNG

 

6:12 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。

クリスチャンはあらゆることが赦されている、しかし、全てが益になるわけではない

Ex:ディズニーランドや映画館に行くこともある→このようなことは赦されている

しかし、このようなことばかり行うことに御心は無い

そのようなことに夢中になるあまり、祈らなかったり聖書を読まなかったりすることはNG

また、「しかし、私はどんなことにも支配されはしません」の御言葉に語りかけがある

神の働き人となっていくときに色々と支配されることがある

Ex:人間関係、結婚関係、仕事関係等→しかし、このことによって神の働きをないがしろにしてはダメ

もし、そのような状況になった場合、どこかで主に祈り求めて改善していく

また、キリスト教界の常識や評判にも支配されてはいけない

クリスチャンは「異端」と言われることに非常に弱い

このこと(異端と言われることを嫌がること)に支配されていたら働きが無くなってしまう→もし、そうだとしたら・・・人の前ではなく、神の前にどうなのか?を、よくよく考える、そして神の前に忠実ならOKと考えを転換する必要がある

人のことを気にする必要は無い

これらに支配されないなら聖霊の自由を得る

もし、これらに支配されているのなら、断ち切っていく必要がある→神以外に支配されるのはNGだから

 

6:13 食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。

食べることに力を入れる人がいる→いずれ体は滅ぶので、このことに力点を置くことに御心は無い

それに時間を費やしても益を得ない

Ex:今住んでいる建物が来年解体される計画になっているとします、もし、そのことを事前に分かっているにも拘わらず、今更あえてリフォームをする必要がありますか?普通は、しないのではないでしょうか?→いずれ滅び行く肉体もそれと同じこと

体は主のために用いるのが正しい、そして不品行に御心は無い

 

6:14 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。

キリストの復活のことを聖書では度々語っている

参照 マルコ5:35-41

5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」

5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。

5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、

5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」

5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。

5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)

5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

参照 ヨハネ11:1,11-15,43,44

11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。

11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」

11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」

11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。

11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。

11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。

11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

上記御言葉は、いずれも復活のことを語っている

そして、その「復活」とは何を言っているのか?→多くのクリスチャンが勘違いしている

ラザロの姉であるマルタも見当違いをしていた

参照 ヨハネ11:23,24

11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」

11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」

アンダーラインを引いたところに注目してください

マルタは、とんちんかんな答えに対して、イエスは不信仰に怒りを抱いて涙を流した

参照 ヨハネ11:35

11:35 イエスは涙を流された。

もし、私たちが「復活」のことを「後の日」のこととしか、とらえていないのなら、それは、とんちんかんなこと

大切なことは、今の時代の私たちがよみがえること

生きている間に、このこと(よみがえり)を体験しないと大事なポイントがとらえられなくなる

キリストは私たちがよみがえるために「死」を経験してよみがえった

私たちも「死」を経験して、「よみがえり」を経験すべき

ペテロたちは「よみがえりの主」に会った

死んでよみがえる経験をしないと入るべきところ(天の御国)に入れなくなってしまう

等しく死んで等しくよみがえる経験をすることは、とても大切なこと

Ex:弱い部分が強められたり力を得たりする

死んだ部分をキリストは、よみがえらせて下さる

そのために、全世界の人々のために死んで下さり、よみがえって下さった

それを日々経験していくのがクリスチャン→経験した人は後の日に主に会う

経験をしていない人は後の日において主に会わない可能性がある

 

6:15 あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。

6:16 遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。

クリスチャンであっても遊女と混じるとあらゆる変な霊や姦淫の霊にやられてしまう→御心が無い

Ex:淫婦バビロン

アメリカ由来の教理を受け入れている日本は、アメリカと一心同体になっている

ゆえにアメリカの災いが下される

今の神学校→遊女の交わりと言える→バビロンの災いに引き込まれる

アメリカのトレンドや教えに一線を引く、そうでないとバビロンの災いに巻き込まれてしまう

 

6:17 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。

主と交わると主の霊と一つになる

私たちが主の霊を選びキリストの霊がとどまるときに非常に大事な事柄を理解する

参照 Ⅰコリント2:15

2:15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。

ポイントは主の霊とひとつになること

Ex:ラジオの電波も同様、周波数を合わせると聞こえる

それと同様に主と一つ霊となるときに主の御声や御心が分かるようになる

多くのクリスチャンが頭で聖書を読んでいても霊(主の)で読んでいなので、正しいことが分からない

このことは理屈ではない

霊的に主と一つになっていれば理屈抜きにすべての正しいことが分かるようになる

Ex:キリスト教界が背教に向かうこと、神の怒りが噴火寸前の状態であること等

主と霊が一つになったときに嫌でも分かる Ex:地震・津波・原発を通して語っている神のメッセージ

クリスチャンに神の怒りが啓示されようとしている

そのことを正しく理解する

レムナントキリスト教会では理屈抜きにこのようなことを感じるゆえに終末の働きを行っている

終末に起きる災いについて、それらのことを神の霊で感じるから

一つ霊になって分かるというポイントについて正しく見ていく

 

6:18 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

不品行は特別な罪→性的なこと

()に対しての罪、かなり深刻なもの

 

6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

買い取られたことにポイントがある

クリスチャンはキリストに買われたものなので神の栄光を現す

神の働きをするために私たちは用いられる者→最も恵まれる、多くの恵みがある

自分の体を用いて神の働きをしていくときに人としても、クリスチャンとしても歩むべき道に入っていく

御言葉を実践して仕えていく人に大きなポイントがある