第Ⅰコリント人への手紙9章1~12  20011年9月11日

 

9:1 私には自由がないでしょうか。私は使徒ではないのでしょうか。私は私たちの主イエスを見たのではないでしょうか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。

9:2 たとい私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、主にあって、私が使徒であることの証印です。

 

パウロは、この第一コリント9章で、わたしは、使徒ではないのか? と言っているのです。そして また、2節では、たとえ他の人に対しては使徒でないとしても、少なくともコリントの人々に対しては使徒であって、そもそも コリントの教会とは私がたてたのではないのか?とそういうことを語っているのだと思います。

ここで分かることは、今の我々から見るならば、パウロこそ使徒の中の使徒なのです。 パウロ以上に神の前に用いられた使徒はありません。彼は、12使徒ではないのですが、、、、12使徒の中で一番用いられたのは、ペテロやヨハネなのかもしれませんが、ペテロやヨハネが書いている手紙よりもパウロの手紙の方がずっと多いのです。殆どそうです、ローマ書もコリントもガラテヤもエペソ、ピリピ、もそうです。また、働きも当時の世界であった地中海一帯を伝道して回ったのは殆どパウロなのです。ペテロ、ヨハネは何をしていたのか?と言うとエルサレムの辺りにいたらしいのですけれども、それに対してもちろん悪いとは言いませんが、パウロの働きの実についてはたいへんなものなのです。だけれども、ここでパウロが、わたしは使徒ではないのか? と言っている事柄について、明らかに彼パウロは本当に使徒なのか?という疑問が少なくともコリントの教会に中にあったのです。他の箇所でもパウロは似たようなことを言っています。----(わたしは、他の大使徒達ペテロのような使徒達に比べて決して劣ることは無いんだ!)と、自分で弁解していますから----

結構この様な疑問質問は公に また、パウロの目の前で言っている人が多かったのではないのかと思います。みなさんは、どう思われるでしょうか?コリントは例外ではなく、その当時このようなことが言われていたと考えられます。しかし、今の我々は、新約聖書の全巻を持っています。パウロの時代の人々が全巻を持っていたとは限りません。コリントの人はコリントの手紙を見ているかもしれないけれども、ガラテヤ人への手紙、ローマ人への手紙等は、彼らが遠く離れていたのでみんなが持っていたとは限らないと考えられます。また、どのようにパウロがダマスコで回心したのかすべてを分かっていたのではないのです。ですので、この様な疑問がその時有ったということは確かにそうなのです。このような事と言うのは、神の働き人に関しては往々にしてあるのです。このような事とは何かと言うと、本当の使徒であり紛れようのない使徒であり使徒の中の使徒と言えるくらい---少なくとも新約の手紙の数からいったらNO.1の使徒であるパウロは、本当にお前が使徒なのか?と ひそひそと言われたり、または 厚かましい人は、面と向かって言っていたのかもしれません。----(ところで あなたは、本物ですか?)  パウロに対して、そういう状態であったということを覚えていてください。====そして こういうパターンがあるのです。それは、他でもないイエス・キリストに関してもそうなのです。メシヤであると当初思っていたのだけれど、結局こいつは偽物だということが最終的にはエルサレム、ユダヤの人々の結論なのです。だから、この偽物は殺してしまえと言うことで、異端者だと言うことで十字架につけろと言う結論になったのです。誰も反対しないでみんなでピラトが聞いた時にそのように言っていたのです。だから ここで、知らなければいけないこと、または、聖書の箇所から何かメッセージがあるのならば、本物 神の前に本当に働きを担っていて---(パウロの場合は本当に神から使徒の中の使徒であったり、または、イエス・キリストは唯一無二の方であった)---本当の救い主が来たと言う時に神の民が背教である時 本物は見逃すと言うことです。また、見誤ってしまうと言うことです。これは、聖書の中で一つのパターンみたいに受け継がれているパターンなのです。旧約聖書の中の預言者をみてもそうです、エレミヤとかエゼキエルとかすぐに殺されそうになったり、井戸に投げ込まれたり、怒ってこんな奴は、こういうトンデモナイ預言者は、働きをとどめなければならないと言って、ひどい目に会っているのです。延々と聖書の中で繰り返されているパターンというのは、神が本当に働きをその人に任せた時に、面白いものなのですけれども、そんな風にその人は見えない。たいていの場合間違えてしまうことであります。そして、ああ あれが本物だと分かるのは、イエス様の場合は十字架につけられて そして長い年月が過ぎて後、ああ あれが確かにそうだとか。パウロの場合もそうであります。パウロは殉教しましたけれども殉教した時まで殆どの結構多くのクリスチャンは、あんな者は、偽物だと言っていた人は多かったのではないのか?という感じです。今になっておもえば、新約聖書はまとめられているし、そしてパウロの書簡はずっと本物だということで残っていますけれども。少なくともパウロが生きていた時に、たびたび同じ様な事を言われていたという感じがします。人間的に考えれば、間違えそうな要素もあるのです。間違えた人が必ずしも悪いというばかりではなく、パウロの場合 目に見えるような使徒の資格はあまり無いのです。ペテロとかヨハネは明らかにイエス様に任命されました12使徒なのです。パウロの場合目に見える形でそもそも生前のイエス様に会っていません。また、ダマスコ途上で幻を見たということも、お前が言っているだけではないのか?といわれる可能性もあるわけです。ナザレのイエス様だってそうです。神の子だと言ったって、旧約聖書をみれば 王の子だから王家から出てくると思っていたのに、違っていました。大工の息子じゃないか?ベツレヘムから生まれてくると言われているのに、ナザレではないか?---そういう様な事が許されるのです。それはまた、ある意味では神様が許した引掛け。本当に真理を求めていない人というのは、必ずこれに引っかかるようになっているのです。そういうものなのです。(本物というものはそういうものなのです)  そして、みすみす本物を殺したり、批判したりという事がよくあるパターンなのです。だから延々とみなさんが気づくか気づかないか分かりませんが、聖書の中で繰り返されているパターンなのです。我々にとっては、イエスはキリストでありメシアであり そのことは、何の間違えもないのですけれども、しかしイエス様が生きておられた時には 90何パーセントの人は間違えておりました。ですので、見える形の本物であっても見えるような しるし を持っているとは限らないのです。繰り返して言います、パウロは生きておられたイエス・キリストから任命された12使徒の中には入っていません。でも神によって明らかに使徒として召された働きとか、その実をみれば明らかなのです。でもそれは、生前のパウロの時代の人には必ずしも見えていたとは限らないのです。ですので、今の時代でも本当に神が働きを担わせるという時に、見える形のしるしがあるとは限らないのです。たとえばの例ですが我々自分達の事を言うと自画自賛と言われるかもしれませんが、もし我々のレムナント教会に本当に終末のことが--他の教会に見えない様なことが見えたとしても、それでは何か見える証拠でもあるのか?と言われても我々は、かつての12使徒みたいに生きているイエス様に任命されたわけでもありません、モルモン教の様な金のしるし なんて言うものはないのです。見せられるものとか、物質的なものは無いです。どこかアメリカの一流の神学校を出たとかそういう事もない。すごい日本の大教団の中で任命されたお墨付きそのようなものは無いのです。言えばいう程 しるし が無いことが分かります。そのような感じです。そのようなものなのです。でも、霊的なことから言えば、明らかに終末の事に関して預言は開かれており、啓示は開かれており、正しい道は、明らかにレムナントに開かれていると思います。でもそれって 結局は、分かれるのです。万人に客観的にすべての人がそれを認める訳ではないという事は事実です。レムナントに来たけれども去って行った人も結構多かったり、また、それよりも異端だと言っている人も多いかもしれません。だけど、これって、良くも悪くも聖書的なのだという事を覚えておいてください。ですが我々の働きが本当に神からの働きだとすると、誉は後の世にあるのです。明らかにイエス様もこの世にあっては、十字架に架けられてすべてのプライドも誉もまたは肉体の命までも奪われ、弟子たちも去って行ったりと、最悪であります。だけど天において受けるべきものは受けたし、またパウロもそうなのです。彼は、走るべき道のりは走り通して天において受けるべき報いは受けるんだ!と語っています。ですので、我々もゴールを間違えてはいけません。本物になったなら 何かしるしがあるかもしれないとか あまりそんなことにこだわると、ひっくり返されます。つまずいてしまいます。そのようなものでは無くて、我々が真に望んでいるのは、パウロが受けたように後の世に受ける栄光であります。今の時代はいいのです。分かる人は分かればいいし、分からない人は残念ながらという感じです。今の世で政治家みたいに選挙で当選するとか、沢山の票を得る事を目的にしている訳ではありません。しかし大事な事は真に神が、終末の事を、たとえば、レムナントに啓示されて、それが嘘や偽りを掴んでいる人が沢山いる中で、真理を掴んでいるという事に大きなポイントがあるのです。そして それは天において大きな報いを受けるだろうと思います。そこにポイントがあるのです。勘違いをしてはいけないのです。違うものを掴む時にひっくり返されたり、ズッコケたりします。ので パウロやイエス様の歩む道は、明らかに我々の模範であります。この事柄を見て想像しなければいけません。コリントの人達だけが何か意地悪でパウロを使徒と認めなかったんじゃなくて、これは、明らかにその当時のパウロに関して教会の多くのクリスチャンが思っていた事なのです。パウロはそう言うならば、人間的にハンデがあるのです。彼は、救われる前にあろうことかクリスチャンに対する迫害者だったのです。クリスチャンを とっ捕まえたり、牢屋へ入れたり そんなことを一生懸命やっていたのです。だから、彼を信用しない人が多かったと言う事は、ある意味で無理のないことだったのです。それで、あいつは、今までエラそうな事をいろいろべらべらあっちこっちの教会で喋っているけれど、あいつの過去の事を知っているのか?とか 俺の親戚はあいつに捕まったやつがいるんだとか,みんなそういう風に言っているわけですね! これは、残念ながら彼の働きの終わり迄付いて回ったというような感じです。でもこれは、ある意味でよいのかもしれません。高ぶりたくても高ぶれない。どうせろくなもんじゃないとか、人気がない評判が伝わってしまったりとかがあったと思われます。でも大事なことは、過去がどうであろうと、何であろうと真に神がパウロを用いたという事に意味があり、それが故にかれは受けるべき報いを受けたのです。レムナントも評判が悪かったり、ますます悪くなったりしても、そういうことはあまり関係無いのであります。ポイントは、本当に終末に関しての真理をレムナントに主が語られたという事と、また実際に語られた通りに物事が進んでいる事であります。地震、原発に関して我々が、主から語られた警告は、本物だろうと思います、それで主から示された警告をなしているのです。その警告の働きがそのように進んでも誉は、レムナントには来ないんじゃないのかと思います。他の人にそれが行ってしまうかもしれませんが、それはそれでよいのです。主の言われた事を忠実に行い、しかも、それが神から来たものであるという事に大きなポイントがあるのです。人間の評判とは、この様なものであり、本物の使徒の中の使徒であるパウロでさえ、あいつは偽物だと言っている人が結構多かった。パウロはこの類の事は、何度か言っています。書簡の中であっちこっちの教会に言っています。だからよっぽど耐えかねたんだろうと思います。かわいそうと言えば可哀想なのですが、其のくらいが、ちょうどいいのです。高ぶらない。あいつはろくなものでは無いと言われても其のくらいがちょうどいいのでしょう。褒められていい気になってすぐその気になって 高ぶってしまうかもしれませんので、だいたい其のくらいがちょうどいいのでしょう!

 

9:3 私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。

9:4 いったい私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか。

9:5 私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。

9:6 それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働きをやめる権利がないのでしょうか。

 

ここでパウロはいろんな事を言っているのですが、3節で私を裁く人達に対して、弁明するとパウロは言っています。 ここで、いろいろとパウロの事を、批判したり、批評したり、悪口を言ったり、あいつは偽もんだとか、あいつが本物の使徒で無い証拠にああだ、こうだと言う人が居たという事が類推できます。彼に対する言っている内容が底が浅いものであり、しかも重箱の底をつつくように細かい事を言っています。それがこの箇所から類推できます。ひどい事を言っています。たとえば4節 私たちには飲み食いをする権利がないのでしょうか。飲み食いは、昼間、弁当を食べていたら文句を言われるのでしょうか?昼間断食していなければいけないのでしょうか?お茶とか飲んでいるといけないのでしょうか?食ってばかりいるから 

あいつは信仰が弱いとそうとでも言いたいのでしょうか?それで非難されているのです。 あと5節では、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか? 奥さんを連れて歩いていても、やはり非難されちゃうのです。信仰に徹しなければいけないのか? 奥さんを連れて歩いてもまずい! それで非難されるのです。 6節では、わたしとバルナバだけには、生活のための働きをやめる権利がないのか。要するに、あいつらは、いろいろメッセージはうまい事を言っているけれども、全然仕事もしていないじゃないか?我々のように昼は、きちんとサラリーマンとして仕事をしているようなものでは無い、やっぱりロクなもんじゃない。人の献金で食ってロクなもんじゃない。いろいろ言われるわけであります。ここから学ぶことがあります。強いて学ぶ事があるとすれば、昔も今も、クリスチャンという者は、自分が清いのか正しいのか分かりませんが、平気で人の批判をするという事であります。パウロでさえこのように言われるのですから、私達も言われても当然かもしれません。そういうものなのだという事です。私たちが、人の目に触れるような、何か神の働きをして行く時に、クリスチャンの非難を気にしてはいけないと思うのです。何をやっても非難されるのですから。箸の上げ下ろしでも何でも言われてしまうのですから。何言ったって批判されるので要は気にしなくてもいいのです。逆にそんな非難批判を気にしていたら、すべての人、万人のクリスチャンに納得いく奉仕などあり得ないのです。でも、人の目はどうであっても、しかし、神の前に正しければいいと徹しなければ奉仕などやっていけないのです。ロクでもない訳のわからない盲人のクリスチャンは多いんだ、くらいのつもりでやっていく方が正しいくらいに思ったほうがいいのです。

 

9:7 いったい自分の費用で兵士になる者がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない者がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない者がいるでしょうか。

9:8 私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。

7節 自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない者がいるでしょうか。

ぶどう園とは、教会の たとえ です。そして、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とイエスさまが言われた様に、多くのクリスチャンは、ぶどうの枝だったり、ぶどうの実だったりするのですけれども、パウロが言う、しかし その実を食べないと言っていることは、自分が一生懸命労した信徒から献金をもらって、それでもって生活してサラリーマンを辞めるという様な事。それが何か問題があるのか?と、弁明している訳なのです。

7節 羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない者がいるでしょうか、、、これも同じことです。羊の群れとは、クリスチャンの群れですので、教会を牧して多くのクリスチャンを養って、そして それから報いを受けたり、献金で食べているからって問題があるのか、、、これは、基本的に何も問題が無いのです。

 

9:8 私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。

9:9 モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。

9:10 それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。

「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」  ここで、穀物をこなしている牛とは、牧師メッセンジャーのことを言っているのです。牛は、4回程反芻する動物なのですが、この何度も反芻するものが、穀物をこなすとは、この様に麦とかを(反芻するように)噛みやすく、食べやすくしていく、そういう意味合いなのです。この牛とは牧師なのです、み言葉を反芻して そして 人々に分け与えるという事です。そうやってその咀嚼する仕事をしている牛にくつこを掛けてはいけない、だから、他の仕事をしろとか、こんなところでクチャクチャ食っているなとか言ってはいけないという事です。これは、聖書の教えであります。だから、み言葉の奉仕に誰か教会の中で立ったならば、基本的にその人は、み言葉をこなすという奉仕に専念させてあげる事が良い、それは、牧師一人何もしないでいるという事ではなくて、結局それは、信者の人の益になるのです。何故なら、そうでないと、あれもして これもして となると、、、、クチャクチャしているのに、そのうえで田畑も耕して、あれもして これもして いっぱい仕事して結局ロクに牛も咀嚼出来ないで、消化が未了のままになってしなったりという事があるのです。そして、同じように、あんまりこの世の仕事に関して、この仕事もして、あの仕事もしてという風に 牧師がそれらの仕事にさんざん時間を費やすと結局メッセージする時に、インスタントなメッセージとか、この世的なメッセージになってしまうのです。このことは、わたしも去年までずっと仕事をしていたので、分かります。どうしても おせおせになってしまうのです。だから、その意味では、この世の仕事のことであまり時間が取られないで、牧師の働きに集中出来るならば、それに越したことはありません。それは明らかです。今は、仕事から離れていますが、やはり違います。若干時間が取れるようになったので、祈りもきちんと5時間~6時間祈ったり、聖書もかなり時間かけて読めるようになったのです。ちゃんと咀嚼出来るようになってきているのです。それで、このみ言葉は、確かにそうなのです。このことは、一般的にそうなのです。肉的な信者は、それに対し非難するらしいのですが----(牧師は何も仕事はしないのに!)等々言う人もいるようです。しかし、牧師が牧師の仕事に専念出来る事は、教会の益になったり、一人一人の益になったります。そのようでないと、何か中途半端な牧会になったり、インスタントなものになってしまう可能性が多いにあると言う事をぜひ覚えておいて頂きたいと思います。

 

9:11 もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。

 

ここも同じ様な事です。霊的に益が受けられるのなら、物質的なもの(献金)を受けたからって何か問題があるのでしょうか?。 という事です。これは、一般的であり、問題の無いことです。

 

9:12 もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。

 

12節 もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。  我々だって、献金をもらって問題ないという風にパウロは言っているのです。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。   パウロの偉いところは、そういう権利があるのですけれども、コリントの人達は肉的なので献金をもらうと文句を言う人がいっぱい出そうだからかどうか分かりませんけれども、その権利は用いなかったという事です。それは、その様にしてコリントの教会の人がつまずく様な事が有りそうなので、その躓きにならない為にパウロは敢えてそういう事はしなかったという事なのです。   献金に関連してもパウロはそういう道を選んだという事です。ですので、我々に関してもそうなのです。一般的に言っても牧師が献金で食っていくのは全く聖書的な事であります。先程も言ったように、くつこ に関しても旧約聖書にはっきりと書いていることであります。だけど場合によって、それ程の人数の信者も居ないといった、そのような場合は、パウロがそうであったように、主が守って下さったり、道を開いて下さると思います。またそれを信じてよいのではないかと思います。

わたしの場合もそうでありました。昼間の仕事はしているのですが、教会の奉仕がずっと増えてきたので、会社の上司に言いました。------すでに私は週休二日制でありました。土、日は休んでいましたし、有休も結構多かったのですが、明らかに教会の奉仕(黙示録セミナーの開催、礼拝メッセージの作成、弟子育成の働き、本の原稿の執筆、ホームページエレミヤの部屋のメッセージの作成、角笛の記事の作成,等々)が増える一方だった(関西への弟子の育成の為の出帳、ニュースレターの発行 等々)ので、上司に言いました。どうしても教会の奉仕が忙しいので たいへん恐縮なのですが、もう一日休みを頂いて、週休3日としてください、それでどうでしょうか?と言ったら 上司は呆れた顔をしていました。こいつ気は確かか?と思ったのでしょう!-- でも、その分給料は減らしてもいいですから、といったら、それじゃー ということで もう一日休みをくれたのです。その結果どうなったかというと、一年後に見事にリストラされました。

でも、不思議なものですけれども神様は、経済的なものも含めて守ってくれるのです。ですので、パウロはこの時、献金を貰う権利が有ったけれども、でもこの場合は、コリントの教会に関しては、すべきでないと思った時に、パウロはもらわなくても、やはり支えられたのです。それを見ながら思います。神様って我々の信仰に応じて下さる方だなあと思います。その時に、人間的に損だったこととか、不幸だったり、あれ!と 思いがけない事だったりするけれども、信仰を持って歩みに入ったことは益になってくると思います。  パウロの判断を守り また養って下さった神様は今も生きておられます。だから必要に応じてそういう事は守られるのです。基本は、やはり神の事を優先した方がベターだろうという風に思います。神様は生きておられるということは、実際の我々の生活の中に生きておられるという事です。わたしは、週休2のところを週の真ん中の水曜日も休ませてくれと週休3日を上司に願い、それを認めてもらいました。人間的な考えならば、この様な時代にリストラされるのは当たり前なのに、そんなことを言うと、殆ど気違いじみた事なのに。----その結果一年後に見事にリストラされました。しかし今思うと、それって主の時だったのかなと思います。もしその時に私が祈り求めなければ今でも会社員であって、レムナントの奉仕は限定されたものしか出来なかったかもしれません、今の時代の働きを担えなかったかもしれません。でも不思議と今の時代の働きを担えるようになったり、道がさらに開かれそうな環境なのです。今、時間が取れて出来ることがかなり増えてきています。また、生活も守られています。あの時上司に言う事がなかったなら、レムナント教会の働きを担えなかったのかなあと思います。神様って我々の信仰に応じて下さる方だなあと思います。その時に、人間的に損だったこととか、不幸だったり、あれ!と 思いがけない事だったりするけれども、信仰を持って歩みに入ったことは益になってくると思います。  パウロの判断を守り また養って下さった神様は今も生きておられます。だから必要に応じてそういう事は守られるのです。基本は、やはり神の事を優先した方がベターだろうという風に思います。神様は生きておられるということは、実際の我々の生活の中に生きておられるという事です。そういう意味合いでは、全ては主にあって益になります。主が、その時々に言われた事、わたしに関して言えば、上司に週休3日の休みを取らせて下さいと言ったことは、主から出た事なのかと今思っています。そうでなかったなら、生活も守られ、ここ1年くらいの奉仕もこなせなかったと思います。ですので、主の言われたことは真実であり、その時々主の言われたことに従って行くことがベストであるという事柄を見ていきたいと思います。