第Ⅰコリント人への手紙9章11~27  2011年9月18日

 

9:11 もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。

 

これは、献金の事を言っているのであります。そして 可哀想な事にパウロは、使徒の中の使徒なのですけれども、こうして金を貰っていると非難されているのです。可哀想な事であります。そんなもんであります。先週言いました様に、聖書を読んだ限り、パウロこそ使徒の中の使徒なのであります。12使徒の中にもいろんな使徒がいますけれども、あんまり活躍しているのか分からない様な人もいるのです。-----アンデレもたまに出てきますけれども、大抵 誰をイエスさまに紹介したとか、そんなことしか出てこない、だからって活躍しないとは言わないのですけれども、でも、今に至るまで我々教会の立上げているあらゆる書簡は、パウロが書いています。---(ローマ人への手紙。コリント人への手紙。ガラテヤ。エペソ。ピリピ。等々)だけどそのパウロに関して、あいつはロクに仕事しないで献金で食っていると、ひどい事を言われていたのです。そんなもんであるという事を思っていてください。

神の前で大使徒だという事、それは、パウロが死んでしまって今頃の時代になって改めて言われる事であって、パウロが生きている間は、そういうひどい事を言われていたのです。そのようなものなのです。しかも 改めて考えてみれば、パウロは確かに神の前に大使徒なのですけれども、見える形での使徒のしるし とか任命は無いのです。イエス・キリストが生きている間にキリストの12弟子の中に入っていたわけではありませんし、12使徒の中の一人でもありませんし、イエス・キリストが生きている間 行動を共にしている訳でもありません。それどころか、あろうことか、彼パウロは迫害者だったのです。マイナス点が高いのです。だから言われてもしょうがないかなと言う感じです。そういう風なものなのです。

 

神が本当に選んだ人と、人の前で選んだ人は、違うのです。そして、はっきり分かることは、栄誉を受けるのですけれども、生きている間はそれを受けない可能性が高いという事、だから、みなさんも同じくらい そのようなもんだと思っておいてください。そうでないと ズッコケてしまいます。----どっかで偉くなって名前を上げてとか、野心を持ってそこでズッコケしまいます。---悪く言われているけど、まあこんなもんだ。パウロはもっとひどかったんだと、それくらいに思っていれば まあまあかなと思います。

 

9:11 もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。

 

これは、行き過ぎではないと思います。信仰的なものは非常に大事であります。何故なら、永遠の命を獲得する しない という事柄を我々もパウロの書簡によって、永遠の命を得ている訳ですから、パウロが生きていたなら、物質的な献金をおおいにすべき事であるという風に思います。

これは決して行き過ぎではないのですけれども、残念ですけれども、クリスチャンと名が付いても人間的な考えをする人が多いんです。だから、そんなことをしきりに悪口を言う人もいるのです。でも、人の評判はどうであっても大した事ではありません、でも、神の前にどうか?という事が大事です。

 

9:12 もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。

 

だから パウロの偉い事は、本当は、そういう献金を受ける権利があったんだけれども その権利を用いない。それは、もしこれで100人の内 1人でも---(そんなこと言うべきではないのですけれども---献金取っているからアイツは偽物と言う__トンでもない言い掛かりですけれども__)そういう事も彼は配慮して 自分の働きに関して どこまでも忠実であったのです。これは見習うべき点があります。只、こうしなければいけないというと、あらゆる牧師、殆どの牧師は献金で食べていますので、パウロのようにすべきだとは一概には言えませんけれども、しかし、彼パウロの態度はみておかなければいけません。

 

9:13 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。

 

皆さんが旧約聖書をちゃんと読んでいれば これは、分かるかと思います。 レビ記とか申命記とかを見ても、祭とか大祭司、レビ人は、宮に捧げられたものの 10分の1 を受けていくのです。この10分の1 を受けていったり等々、捧げものを食べたり等々。これは、「たとえ」 なんです。

旧約聖書のレビ記のレビ人と言うのは、(レビの意味は=くっつく)⇒主イエス・キリストにくっつく人。

今で言う献身者の たとえ なのです。10分の1 と言うことがしきりに出てきますけれども、それは、今の10分の1献金の型なのであります。旧約の祭司は祭司職をもってそれ以外の他の仕事をしていないです。祭司は自分で相続地を持たない、主御自身が相続であると言っているように、この世の仕事に付かずに、しかし、主に仕えることに全うしました。これは、人間的な事だけ言う---クリスチャンと言ったって人間的な考えしかない人は、何かと言うと牧師が献金で食べているという事を非難しますけれども、----牧師が神の奉仕に専念出来る事は、みなさんの益になる事なのです。 それは、そのような人が、本当にそれで時間も捧げているから、きちんと御言葉が咀嚼され、きちんと祈る為に、--それらの中で神に守られるのですけれども、--そういう事って盲目なクリスチャンには見えないのです。だからそういう非難をするクリスチャンが多いのですけれども、主の働きに対する牧師の専念は、教会の益になっていくだろうと思います。

 

13節 祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。

祭壇に仕えている人がそれで食べていくという事は、聖書的な事であり、神が定めた事なんです。

 

9:14 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。

 

ここで分かることは、たびたびいいますけれども。レムナントでさんざん言われている事ですけれども。

宮に仕えるレビ人とは、やっぱり 今の時代の奉仕者の型なのです。それをパウロにあっては、当然の事なのです。そういう風に聖書は書いてあるので、パウロもその様に読んで、--(牛に くつこ を掛けることは型であって たとえ であり、)--現代の奉仕者に関して語っているんです。当たり前のようにパウロは たとえ を読み取っているのです。しかし、残念ながら、今の時代のキリスト教会は、度々いう様ですけれども、道が曲がっています。心がねじけているのか? 臍が曲がっているのか? 分かりませんけれども、---( そういう たとえ の解釈に対して霊的解釈はよくないと言ってパウロと反対しているのです。)---パウロも間違っているとでも言いたいのか?  パウロよりも偉いのでしょうか?

パウロは、たとえ を当然のように理解しているのですが、今の牧師も神学者も たとえ を理解出来ないし、しようともしないのです。それは、最も大事な事を、行わない、そして、訳のわからない神学(人間的な考え、訳の分からない事)を言っている。だから、殆ど彼らにとっては今の時代を悟ることも、また終末に関しての御言葉を悟ることもできません。盲人が手引きする盲人=(それに従って行くクリスチャンとか信者は残念ながら盲人に手引きされる盲人です。)

 

だけれども。たとえ を理解すること。そして、旧約に書かれている事は今の時代のクリスチャン関しての たとえ だということは、コリントの手紙をみてきても、非常に基本的なことなのです。基本の基本なのです。

「牛に くつこ を掛けてはいけない」と書かれていることは、旧約の律法の書を読んでいく時に出てくるのですが、それはまさに、今の時代の牛はクリスチャンの たとえ であり、くつこ をかける云々とは、奉仕者(牧師なりメッセンジャー)は、十分に穀物(御言葉)をこなすようにする。またその時、口で十分噛んで反芻し消化しやすいようにすることの たとえ なのですが、それを読み取って初めて旧約聖書に書かれているあらゆる霊的な知識の富が与えられるのですけれども、それが出来ないという事が、残念ながら今の教会の現状なのです。それは不自然であり、進化ではなく後退しているのです。退化しているのです。其の為、すべき事が出来なくなっている、基本的な事さえ出来なくなっている情けない状態なのです。だから、たとえ を理解すれば理解できる黙示録等も読めない事になっているのです。

これは、まともではありません。なので、霊的解釈がおかしいと言っている人達がおかしいのであって、我々がたとえ少数派であっても、正しく たとえ を理解していくと言うのは、まさに聖書的であり、パウロが行った方法であり、  パウロはキリストによって特別にたてられた器ですから、キリストの方法なのです。どうぞこのことは、みておいて頂きたいと思います。

 

9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。

 

奉仕者だって、我々は、右の頬を打たれたら左の頬を出すかも知りませんけれども。しかし、プライドがないわけではありません。誇りとか無いわけではありません。別に金の為にやっているんじゃないんだ!パウロはそう言いたいのです。奉仕している人にはそれがあるだろうと思います。だから、失礼な言い方なのだと思うのです。----牧師が献金で食っているとか。何かと言うと非難する人が居るんですけれど。そんなことを言われるくらいなら、あなた達から一銭も貰わないし、そんなことを言っている人達から金を貰うくらいなら死んだ方がましだ。---とパウロが言っているのです。コリントの人達はそう言っているのですから。 しかし私は、主の奉仕をなし、コリントの人に対しても奉仕をなしていくと言う事ですね!だから、奉仕者もプライドが無いわけではありません。プライドを何時もむき出しにしている訳では無いのですけれども、そんな感じであります。我々も主の奉仕についていく時其のくらいの気持ちを持っていきたいと思います。献金で食えていけば一番いいのですけれども、そうでない時、また、訳の分からない事を言っている人達からお金を貰わなければならない義理もありません。

 

9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

パウロはわざわいに会うと思っているのです。なぜ彼はわざわいに会うのかというと---

 

9:17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。

何故わざわいにあうのか?というと。パウロは名指しでイエス・キリストから使徒として任命され、そして、特別な選びの器として任命されたのです。そして要は、この働きを主から委ねられたのです。それなのに、そのことを成し遂げなければ、必ずわざわいに会うでしょうと、そういう事を言っているのです。

 

実際パウロはそうです、

使徒の働き9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。

9:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」

9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

 

あの人とは、パウロの事です。これは、神なるキリストが名指しで選んだ特別な選びの器なんです。彼パウロによってキリストの名は運ばれて、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前にキリストの名前は宣言され伝えられて行くと言う、そういう特別な選びの器だったのです。

その様に選ばれていながら、その奉仕をしないということは、それは、わざわいを受け、呪いを受ける事柄であるという風にパウロは捉えていた。そして実際にそうだと思います。

そういう召しに与かったのならば(神がそのように名指しで任じたのならば)それを行って行かないと言うことは、呪いを受ける事柄であると言う事を覚えておいてください。

それにピッタリ合うかどうか分かりませんが、ふぅと思い出すのは、モルデカイ と エステル の事です。エステルは、モルデカイに言われました。「あなたが特別に王の側にいる、その当時全権を持っているメデヤ・ペルシャの王 アハシュエロス王の妃として特別に愛されてこの場所に居るのは、この時の為にこの場所に居るのではないのか?あなたは特別な選びのものではないのか?もし、あなたが黙して何も言わないならば、その働きはほかの者にとって代わられ、助けとして他の器を選ぶだろうけれども、そのためにあなたと、あなたの家とは滅ぶだろう」と エステル記にそのような語りかけがなされています。そんなもんなのです。わざわいに会うのです。だから、何か強制みたいな感じになってしまいますけれども、選びってそういう面があるのです。それ故パウロは、それをキチンと理解していたのです。

神の選びに選ばれたとは、光栄なんですけれども、それで、喋る事を正していかないとロクでもない事になるとで、彼パウロは、成すべき事をなしていった。そういう事にポイントがあります。

 

わたしもそれは、自分の召しについて感じます。と言うのは、やはり終末の事とか、教会の裁きの事とかに関して、他のクリスチャンの誰も見ていないものを、レムナント教会が見たのならば、それはやっぱり、選びなんだろうと思います。教会として、また働きとして、これに我々がもう辞めたとしたなら、他の所から働きは起きるかもしれないです。でもやはりレムナントはわざわいに会うだろうと、わたくしは、そのように思っています。なので、強制ではないのですけれども、選ばれて、召されて、こいつならやるだろうと召されて選ばれてしまったならば、やはりこれを、やっていった方がいいだろうと思います。正しくやっていくなら、逆に特別な恵みを受けるだろうと、そういう風にわたくしは、半分思っています。

 

だから、---これをやっていくと儲かるのか? 黙示録セミナーのCD1枚の注文が来ると1.000円儲かります?レムナント教会ではそのための黙示録セミナーの開催しているのではありません。---

儲かろうと儲かるまいと、有名になろうと有名になるまいと、この働きを委ねられていたのならば、我々がこの働きで何もこの警告を語らなければ、誰も語る者が無く、わざわいが来てしまうだろうと思います。でも、我々がこのように黙示録セミナーを開いて語っても、聞かない分には、すみませんが我々の責任ではありません、やる事をやっています。黙示録セミナーを開いたり、ニュースレターを発行していますし、警告の本も出そうとしていますし、メールマガジン。エレミヤの部屋のメッセージも10年以上出しています。ですので、やる事をやっている分には問題はないのです。

 

そういう意味合いで我々は、成すべき事を成していきたいと思います。ある意味では わたしも正直、パウロの気持ちを分からないではありません、この様に明確に開かれた事柄を何も語らないで、其のために滅びとか裁きが他の人に来てしまったならば、問題があるだろうと思っています。

 

他にもあります。エゼキエル書の中に、「民の中に一人、角笛を持った者は、民に警告の角笛を吹かなければならない。もし彼が、角笛を吹かない為に、民の内の一人でもうたれたら、その血の責任を私は角笛を吹く者に要求する。」と言う御言葉の語りかけが私のもとに来てしまったのです。角笛のホームページの事です。---これは困ったなあ と思ってですね、、、、これはやらなければいけない。無い勇気を振り絞って書いたのが、{角笛}というホームページです。

{ホームページ角笛}で警告を受けた方も結構多いのですけれども。ある意味では恐怖、これをしないで神の怒りをかってしまってはマズイなあと言う。--正直な事を言うとそういう気持ちが無いでは無いです。今、それで警告を受ける方が多いので感謝なのですけれども。パウロの気持ち、分からないでもありません。なすべき事を成さない為にわざわいに会うのはたまったものではありません、それは免れたいものです。言う事は言っていくということであります。

 

9:18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。

9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。

9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。

9:21 律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。

9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。

 

この様なパウロの態度が模範的なものであるというふうに思います。ですのでどうぞ、いろんな人が、いろんな状況で居ますけれども、我々もパウロのようにそれぞれの人に合う様にして、弱い人には弱い人に合ったような言葉を語っていきたいと思います。

これに関連して思うのは、たびたび言う事ですけれども、明らかに、わたしの霊的な理解ですけれども、時代が変わってきているというふうに思います。それは、救いが異邦人に  でもないのですけれども、神が、特に日本の国に関して顧みられているというふうに 霊的な感想があります。で、目でよく見えない人とか、霊的に分かっていない人々は、日本に地震、津波、原発の被害が起きると言うと、ああー災いが起きたとしか見えないですけれども、それは、我々の理解では、これは、ユダ族の獅子の目を覚ますという言葉が与えられていますので、確かに災いなんですけれども、それのみで終わるものでは無くて、神が、ある意味ではこの国を顧み、この民を顧み、そして真に霊的に大事な事柄に関して目を覚まそうとされている風に見えるのです。で、その時に、大事になってくる事は、やはり、未信者の人が分かるような言葉で語るという事だと思うのです。わたしは、今の時代に於いて、あらゆる人にあらゆる人の為に、--異邦人には異邦人のように、律法の無い人には律法の無い人のように。(聖書)律法を持たない人には、律法(聖書)を持たない人のようになりました。ようするに聖書を持たない人にもある意味では、分かるような言葉で語る、という事が今の時代大事かなというふうに思います。

 

クリスチャンの間では、ヨハネ3章16節3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。)

 

 

これはほとんど誰でも分かる様な言葉かもしれませんが、しかし未信者の人にとっては、寝耳に水だったり、何だかよく分からなかったりするのです。でも未信者に対しての語りかけの時、そういう時が来ているのかなと思っています。何度も言うようですが、聖書の暗号の事をレムナント教会は用いていますけれども、それは、わたしの理解ではこれは、明らかに未信者に対しての しるし だと思います。そして、今回、泉牧師の本にも暗号の事が載っていて、それが八重洲ブックセンターでベストセラー 一番の売り上げになったのですけれども、それは、やはり、クリスチャンが当然いっぱい買っている訳では無いのです。6.000部がアッと言う間に売り切れてしまったのですけれども、この世の人が、ああ、、そのことに何かあるのか?と、耳を傾ける訳ですね、で、その本の真ん中に (聖書の暗号) 我々の暗号が載っているのですけれども、それは、何で載ったのか?出版社の人が消さないという事は、未信者の人である出版社の社長が消さないという事は、未信者の人に分かる様な言葉で書かれている神からのメッセージだからです。そういうものなのです。しかも福島の原発の事とか、まさに書いています。それは、未信者の人が読める、律法を持たない人達が分かるようなメッセージである神の方法、その様な事を神が用いられているのなら、我々は、神の僕にすぎませんので、暗号を用いると異端と言われるとか、言われないとか、そんなことは気にしていません。神がその様な方法を用いられるのなら、我々は、神の僕ですから、それなら、それを用いていこうと、其のくらいの判断しかありません。こんなことを言うと、キリスト教会で不利になるとか、ならないとか、そういう事は気にしていないのであります。

 

わたしも長年クリスチャンをやっていて思っていたのです。わたしの若い時から言われてきたのです、日本のキリスト教人口は、1%以下ですと。でも1%以下と言うのは、水増しして1%以下なのです。プロテスタントで本当に毎週礼拝に出席している人がどの位いるのか?知っていますか! プロテスタントは、毎週礼拝に出席している人は、20万人位しかいないのです。10年か20年前そうでした。今はもっと減っているかもしれません。カトリックは若干多いかもしれません。どうしてこんなにキリスト教は人気が無いのかと思ったのですけれども。何となく暗号の事が出てきて分かる様な気がしてきたんです。あ-神様は、これは用いるかもしれないな-と。 要は、どんな方法でも、今のまったくの未信者(テレビとかラジオ、新聞を見ている人達)がキリストに向ける方法があればいいのでしょうし、やはり神様の方法があるんでしょう。一体どうやって日本の人はリバイバルによって救われるんだろうと思ったのですけれども。何となく暗号の事を聞いてから合点がいくような気がしてきたんです。これで、日本の人、分かるかも知れないなあ-という気をわたしは持っているのです。それが正解かどうか分かりませんけれども。

と言うのは、先程申しました様に、泉牧師の本が、全然抵抗なく受け入れられて、なんと 東京の八重洲ブックセンターでベストセラーNO1になったのですから、そういう時が来ているのかもしれません。そういう方法もあるのかもしれません。だから、どっちにしても聖書の方法は、こうなのです。パウロが言っているように、律法を持つ者には持つ者のように、しかし、持たない者には、持たない者のようにと言う風にそれが神の方法であり、パウロの方法なんです。だから、我々は、依怙地で頭の固いクリスチャンに暗号は異端ではない暗号は異端ではないそのように繰り返しの事ばかり言っていないで、神が用いられているのならば、それは、尊重していきたいと思っています。其のくらいの考えしかありません。

 

9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

 

我々も、あらゆることを福音の為、また御言葉の働きの為、または警告の為にしていくならば、これは益になります。あらゆることですので、レムナントで言えば、ニュースレターこれも警告の御言葉を伝える為であります。泉牧師と最近仲良くなったのも、これもただ友達を増やしたいだけじゃないのです。暗号を用いてくれたり、本とか雑誌に載せてくれるのは、唯一あの人しか居ない。それを言っちゃー 身も蓋もありませんが、それだけなのです。一人でも多くの人が すくわれる 為ならばなのです。

我々が、あらゆる時間を割き、お金をかけ、手間をかけしていますけれど、それは、パウロと同じようにこの働きの一部を担うからなのです。

 

書いてあります。 

23節 それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

 

だから、我々はこのように、あらゆることを、警告の働きとかを御言葉の為に捧げますけれども、それは、恵みを受けるんであります。決してこれらの働きに関して報いを受けないと言うことは無いのです。骨折り損のくたびれもうけだと虚しいのですけれど、そうではありません。パウロも恵みを受けたでしょうし、我々も今の時代に対する必要な御言葉とか警告の働きは、神からの恵みを受けるのです。ですので、決して報いは無いと思う必要は無いのです。

 

9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

 

英語のKJVでは、(その様に走りなさい)と言う事です。---要するに、今のオリンピックでは、金、銀、銅、の3位まで賞をもらいますが、この当時の競技大会では、賞を貰えるのは、1人だったのです。1人が勝者であとは全部敗者だったのです。そのように勝者になるように走れと言われています。---- そこまでやらなければいけないのか?と思わないでもないのですが、でも、聖書に書かれていることと言うのは、やはり尊重していった方がいいかなと思います。わたしもトップを取れるかどうか分かりませんけれども、しかし、このことに時間を割いています。世の中での出世だとか、学校で1番とか、(どのように勉強しても1番にはなれませんけれども)--そういう事には、殆ど目をとめません。しかし、この働きの為にあらゆることを費やしています。しかし、その様にして走るのが正解なのです。やり過ぎとは書いていない。たった1人しか賞を得られない! そのくらいやっていけ と言っているのです! 言われたことは、素直にやっていった方がいいと思います。そうじゃないと、ウサギとカメじゃないですけれどもカメは遅いから大丈夫とか言っていると抜かされちゃったりします、ので、言われたことは、そのまま行って行った方がいいかなと思います。

 

9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

 

我々も朽ちない冠を受けるのですが、受ける人と、受けない人がいるのです。あらゆることで節制して--ボクシングでも、食べるにも、飲むにも、節制したり----見たいテレビも見なかったり---生活の中で節制して勝利を得るように。我々クリスチャンも朽ちない冠を得る為にあらゆる事を野放図にやりたい放題やっていたら、基本的には勝てないと言う事であります。だから、世の中の人と同じ様にカラオケに行ってしまったりとか、麻雀をしてしまったりとか、パチンコをしてしまったりとか、ギャンブルとか、--丁度いい府中にいるんだ!きょうは教会帰りにちょっと 馬の顔を見ていこうとか、そういう人はいないと思いますが、----そんな事をやっていたら、???  節制をしなければダメなんです。節制をして初めて得られるという事です。ですが、こういう御言葉みんながみんなクリスチャンが守るわけではないのです。節制なんか全然考えていない人もいるのです。しかしわたしは、 御言葉を守りたいと思っております。節制をしております。----映画等見ておりませんし、テレビもそもそも家にはありませんし、--でも、そうしなければ いけない と言っている訳ではありませんですよ!だけれども、そのくらいにして、見えてきました。そんな風に歩んできて、そして分かってきました。

 

この前の黙示録セミナーで語ってきたように。 「えぇ--クリスチャンて すごい惑わしの中にいるんだ! ユダヤ人に関して___ユダヤ人が終末に大回心するって_それってトンデモナイ大間違いだ!」   黙示録は明らかにユダヤ人であると嘘をついている者達が悪魔礼拝者だと言っているのです。

逆にスミルナの教会をみた限りでは、悪魔礼拝者達から迫害されているんです!--サタンの会衆に属する者達にあなたは罵られている、悪魔は十日の間あなた方を苦しめにあわせる。と書かれています。 ここで、誰が迫害者かすぐ分かるのです。 サタンは、悪魔の会衆ですよ!  迫害ってそういう人達から来るのです。そういうことを聖書は書いているのですけれども、わたしは、あらゆることを節制していった時に、そのことを見る事が出来るようになったのです。しかし、野放図にしていったら見えないかもしれません。ですので、神の言葉は、尊重しなければなりません。やるべき事をやっていって初めて見えるっていう事はあるのです。 今回のセミナーは、結構人気がありました。昨日も Hさんからメールがきました。{たいへん良い黙示録セミナーだったので、もう一度復習をしたいので、お金を払いますから CDを送ってください!} ---参加した人がCDまで聞きたい。だいたい参加しない人がCDを注文してきます。参加しても尚且つ聞きたい、奇特な方です。よっぽど良かったのですね。今回人気がありました。CDを注文しておられる方が何名かおられます。黙示録セミナーの内容が良かった事を強調して言っているのではなくて-----要は、節制して歩んでいる時、大事な事を神様が、啓示してくださるという事です。

 

9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

 

これはオリンピックにあります、マラソンだったり、徒競走とか、あります。その時に決勝点がどこにあるのか分からないような走り方はしていないという事です。どこが目標か分からなければ、走っていく方向が分からなければ、一番も何もあったものではありません。ゴールが何処だか分からなければ意味ないです。同じように、我々も何をすべきか分からない…でもクリスチャンで結構自分はどういう事に召されているのか分からないクリスチャンて多いんです。…いったい何をする様に召されているのか? それって決勝点を分かっていないのです。とりあえず礼拝に行けばいいでしょう。後は、気楽にしていればいいでしょう。…それは、礼拝に行かないよりは行ったほうがいいでしょう。でもあんまり分かっていないのかもしれません。決勝点は、少なくともレムナントにおいては非常にハッキリしています。決勝点とかゴールってレムナントの召しがすでにハッキリしていますから!エレミヤの召しの時からハッキリしていますから。

(神のこの宮に礼拝する すべての人に この言葉を伝えよ)という言葉がエレミヤの召しの時にハッキリと与えられましたので----要は、一つは、教会とかクリスチャンに対しての終末に関しての警告であります。また、角笛にあるように、悪者に対して、また、まともな歩みをしていないクリスチャンに関してハッキリと警告をするということであります。最近さらに、働きが増えてきてきたかなあと言うふうに思います。それは、今回の地震、津波等を通して、未信者に対してのユダ族の獅子を起こすということに関しても召しがあるかなあと思っています。その辺りが決勝点だったり、ゴールだったりする。それは、なされる為に、少なくともエレミヤに関しては もう10年以上ずっと同じことをやってきているのです。メールマガジンを毎日出したり、毎週メッセージを書いたり、暇だから書いているんじゃなくて、そういうゴールがハッキリ見えているから、それを、みな出来る限りコツコツやってきたのです。教会もそんな働きの中にあると思います。それがハッキリ伝わってくれば 実はそれは我々の働きをハッキリなした事になります。

パウロも言いました。その生涯の終わりに。…わたしは、走るべき道のりを走り終え、することをなしてきた、あとは義の栄冠が待っている。と言ったんです。実際に彼は、ゆだねられた福音を ずーと教会と言う教会、あらゆるところに福音を述べ伝えていったのです。ですので、レムナント教会もこの警告の奉仕をキチンとなし遂げていき、また、ユダ族の獅子に関しての要するにこの日本の国の人々に対しての神からのメッセージをキチンと伝えていくならば、なすべき事をなしたことになるのです。…天に凱旋していく。エレミヤが今、凱旋できるかどうか?ちょっと道半ばかな?と言うかんじですね!

しかし、方向は間違っておりません。天の召しに背いてはおりません。パウロはハッキリ言っていました。(わたしは、天の召しに背かなかった。)と言ったように、天からの召しに背いてはおりません。まだ道は途中であるけれども、しかし、まだ1/3かも知れませんけれども、あと2/3走ればゴールに到達する事は分かっております。道を踏み外している訳ではありません。

 

空を打つような拳闘もしてはいません。 これは、霊的な戦いだと思います。それでキチンと霊を捉えてそれに対応していかなければなりません。

 

9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

 

自分の体の事、肉体の事を言っていますけれども、クリスチャンの歩みにおいて、歩みを妨害するものは、肉体的な事柄であるという事を覚えてください。みなさんの祈りを妨害するのは何か?眠くてしょうがないということです。よく眠ったけれども祈りはしなかった。それは、典型的に自分の体を打ちたたいていない。12時間寝なければ絶対やっていけない!そういう事場合によってはあるかもしれませんけれども。または、テレビを3時間見なければ何も進まないとか、ヤッパリそういうものを打ちたたかなければいけないのであります。だから、明らかに我々の歩みを妨害しているのは、パウロは肉体的な事柄だと言っているのです。肉体的な事柄に関し、甘やかしている人は、歩みを正さなければいけないです。自分の体の欲求に対してどうも甘くなっちゃう人っていませんか?思い当たる人はいませんか?そういう人はチョット打ちたたくという事を考えなくてはいけません。10の内10の欲求を受け入れるのではなくて、10の内半分くらいにして、肉体の欲求を何でもいう事を聞いていたら、奉仕であるとか、祈る時間がありません。

 

27節 私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

 

オリンピックに関係して失格ってありますよね! サッカーとか、手でボールを掴んだら失格とかありますように、レースの失格者になってしまうという事です。

これは、奉仕者にもあるのです。述べ伝えていながら、失格者になってしまうとは、なんか皮肉ですけれども、わたしもメッセージをしていながら分かります。このことが。他人事ではないのです。いいことを言っているかもしれないけれども、でもそう言いながらまともに歩まないと、自分も危ないなと、思うことがあります。たまに。まずいかもしれないですね!やっぱり そういう時、パウロが言っているのは、あながち冗談ではなくて、ヤッパリそういう人は、居るんであります。だから、奉仕をして、御言葉を述べ伝えるのは一つの事ですけれども、しかし、尚且つ失格する人さえいるんです。で、奉仕者でさえ失格する人がいるのなら、信者の中でも、失格する人がもっといるだろうというふうに思います。ので、ヤッパリこの歩みは厳しいと思います。だからどうぞ、御言葉を語るという事は一つの事ですけれども、キチンとゴール出来るということは、また別の事なのです。言うは易し、行うは難しなのです。ですので、我々は、単に言っている言葉じゃなくて、実際に行っていくことにポイントがあると思います。なので、レムナントは、その様に行って、そして、いろいろ困難があるかもしれませんが、正しく行い主イエス・キリストからの栄誉を受けたいと思います。