第Ⅰコリント人への手紙10章11~21  2011年10月2日

 

10:9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。

 

この箇所はどういう箇所なのか、聖書のなかからみてみたいです。

 

民数記21章:21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、

21:5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」

21:6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。

 

ここで言われている事柄があるとおもうのですが、マナを--この食物に飽き飽きした(マナは、毎日イスラエルの民の食物として天から降っているのです。)

マナは、天からのパンであります。で、これは、神からのメッセージです。

(人はパンのみにて生きるのではない、神の口から語る一つ一つの言葉によって生きるのである。)と聖書で書かれているように  メッセージなのです。また、神が与えて下さる水とか、(水は霊的な事柄です。)---これに対して民は、文句を言った、__こんなもの食べてはいられない__!

今の時代のクリスチャンの用語で翻訳して言うとこういう事です。----{天からのことば=神からのメッセージはもう我慢できない!こんなみじめなもの食ってられるか!}という事を言っているのです。

 

これは、民は文句を言っているのですけれども、文句言っている事自体マズイことなのですけれども。何に対して不満を言っているのかというと、、、御言葉に関してです、神からの御言葉とか、メッセージに関して不満を言っており、また、水(霊的な事柄)に関して怒りをぶちまけているんだ、という事を覚えていてください。

だから、新約聖書の御言葉の中でこう言っていますよ!「人々が健全な教えにもう耳を傾けなくなる、自分の好き勝手な教師をすえる、」    これは、何かと言うと、、、奥さんが作ってくれた質素だけれども健康な食事、玄米食とか、味噌汁とか、に対して、。。。肉が無いから駄目だ、これは駄目だと文句を言ってしまう訳です。

そういう本当は良い食物に気を払わずに、訳の分からないインスタント食品を食べたりとか、訳の分からない添加物づけの食べ物を出すレストランで食事を食べたりする、そういうことであります。

で、この事に関して神が、怒りを発したので、この時に、燃える蛇が送られて、それを以て民が殺されたんであります。

燃える蛇は たとえ の意味合いがあります。    蛇は創世記に既に登場していますが、アダム、イブを騙して、神の語られた言葉を惑わした蛇なんです。だから、これは、御言葉に関して惑わしが送られると言う事であります。

もう一つは、意味合いがあります。燃える蛇だから、燃えるって火です。火は霊的な事です。

だから、偽りの教理と偽りの霊によって----真っ直ぐなメッセージに対して文句を言う民は、---倒されてしまう。永遠の命を失うぞ!と言う事の たとえ なのです。そんな風に理解できます。このことを理解して下さい、そして、これは今の新約の時代、教会に行って不満を言って、///エレミヤの話、今日も面白くない!ジヨークが無い!///とか言ってですね。そういう人に燃える蛇がバーンと噛みつくか、、、そういう事は無いんです。別にレムナント教会では蛇は飼っておりません。ましてコブラもアオダイショウも飼っていませんし、ハブも飼っていませんし、まして燃える蛇は飼ってないのですけれども、しかしこれは、正しい御言葉に関して---エレミヤの話が下手だから文句言うのはまだ許されるのかもしれませんけれども、神の御言葉に関して文句を言うと、霊的な たとえ で燃える蛇に噛まれると言うことは、成就するんであります。それでこのことは覚えていて下さい。

このことは、実は今のキリスト教会で成就しております。蛇にやられている人が いっぱいいる んです!

例えば、艱難前携挙説は明らかに蛇の教えであります。だから、なんか健全な教理、、、、、(あぁー艱難に遭うのか!いやだなぁー 終末になったら困るよなぁー )と言う人に対して コソッ と蛇が来るわけですね。・・・・実はあなたは艱難には遭わない、大丈夫とか言ってですね、素晴らしい啓示があるんです、・・・・・それで蛇に。。。。健全な教理にやっていけないと言う人は、パーンと飛びついて行くんです。こういう人多いんです。わたしは、そういう視点では見てなかったんですけれども、でもまあ、クリスチャン生活を長くやっているので、いろんなクリスチャンを見てきましたけれども、あるんです。

例えば、ブラザレン系って結構惑わしがあるんです。ブラザレン系は普通の教理、一般の教理より、もっと高尚な事を知りたいというような、わりとブラザレン系の教会に行っている人ってそう思っている人が多いんです、教師とか学者とか。一般の下々の人が聞いているような単純な教理ではなく、あぁ..これは深い!と言って。。。それで惑わされちゃうんです。艱難前携挙説とかいろいろインチキな教理に結構引っかかっているんです。これは、彼らのそういう隙をやられているんです。それは、彼らは言いませんよ。、、、教会で聖書の真っ直ぐな教理は やってられない なんて。、、、そういう事はクリスチャンだからオクビにも言いませんけれども、しかし、神は、建前の神ではなくて本音の神様なんですね。だから、言わないまでも、そういう事が心の中にある時に、そういう人達って、引っかかるんです。蛇に引っかかるんです。そして、教会の健全な聖霊の働きとかに我慢出来ないで、霊的な刺激を求めて、何か、天からの特別なしるしを見たい。燃え立つような霊を受けたい。そういう聖霊の穏やかな働きに我慢出来ないと言う人達は、変な霊にやられちゃう。

だから今はそうなんですよ。おかしなキリスト教の雑誌の宣伝を時々キリスト教の書店に行った時見ますけれども、相変わらずおかしな 器がどんどん日本にやってくるんです、アメリカから。

いろいろ言うんです。死人が蘇った!こんな奇跡がおきた! それに引っ張られていくんですけれども。これは、そういう聖会に行く人達は、こういう考えで行くんです。

(わたしはその辺の恵みの無いクリスチャンじゃないんだ!わたしは神の特別な奇跡とか恵みを受ける特別なクリスチャンなんだ!)と。 しかし、聖書的に言うのならば、彼らは、神からの真っ直ぐな御言葉、真っ直ぐな霊に対して、明らかにこの惨めな食物は飽き飽きしたと言っているんです。刺激を求めて聖会に行くんです。その結果、燃える蛇にやられているんです。霊的におかしなものにやられているんです。だから、今の時代というのは、そういう時代だと思って下さい。しかしペンテコステ系の人達をはじめとして、勘違いをしているんです。(彼らが思う、すごい聖霊のリバイバルが起きてくるとか、奇跡としるしの特別な恵みの時代に入っていく!)それは違います。

聖書的に言うのならば、燃える蛇にやられているに過ぎないのです。健全な食物に飽き飽きしているから、燃える蛇に噛みつかれているに過ぎないのです。しかも、これは蛇に噛まれたらどうなるんですか?マムシとかに噛まれたらどうなるんですか?健康になりますか?わたしは、いや そんなふうにはならないと思うんですけれども。、、、、死んでしまいますよね!

それと同じ様に、ここで、民数記21章6節で 蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。と書いてあります。だから、教会に入ってくる惑わしと言うのは、冗談とか笑ってすむだとか、笑って許しましょうというような、そういうレベルではないのです。死ぬか生きるかと言うレベルであり、これは、聖書的に言うならば、永遠の命を得るか、それとも、永遠の滅びで死ぬかのどっちかと言う事なんです。だから、油断も隙もないんです。

で、この教訓は受けて下さい。この民数記の蛇に噛まれたと言う物語は、かつての出エジプトのモーセの3.000年以上も昔の事ですけれども、しかし、先程読んだ 第Ⅰコリント10章から読むならば、これは、終末に臨んでいる我々、世の終わりの我々に対しての教訓だと言っているんです。だから、これは再現するんです。他人事と思ってはいけないんです。そして、みなさんが本当に見る目を持ち見るならば、今のキリスト教会でこういう事は、いっぱい起きている。おかしな教理で蛇に噛まれいる人が沢山いる!我々は其の事に関して警告を持ち、その轍を踏まないという事にポイントがあるんですね!

 

そう言う私もですね、偉そうな事を言えないんです。ベニー・ヒンの集会に行っていましたからね。幸い最前列に行かなかったから蛇にチョット噛まれたかもしれませんけれども。致命傷は負わなかったのかも! あの時は悔しかったんですけれども。--折角、国技館まで来たのに、遅れて来たから、ズート2階の遠い所で ベニー・ヒン様はズート遠い所にしか見えない。恵みから遠いと思ったんですけれども。--今思うと、それは特別な恵みと助けだったんじゃないのかなと思います。 で、この事を覚えておいて下さい。

 

10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

 

この様に、かつての日に、荒野で死体を晒したような こういう約束の地に入れなかった、キリスト教用語で言うならば、神が約束された天の御国に入れないその様な人達の轍を踏むなと言う事です。そしてこう言う事が、何時の時代、何時の教会時代でも起きる事では無いという事です。特別にこんな事が起きてくるのは、世の終わりの時にこれが、大掛かりに再現するんだという事を言っているんです。で、世の終わりの時というのは、特別例が有って、一つは、10章の5節を見て欲しいのですけれども。

 

10:5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

 

そういう世代なんです。世の終わりの世代は。いいですか、大部分が失敗する世代なんです。この事は よくよく覚えておいて下さい。だから我々は、学校で言うならば、大量落第者が出る学年です。よっぽど勉強しないで、殆ど落第しちゃうんですね! 例外的に我々は落第せずにいきたい。ということですね! だから、そういう時代に我々は居るという事は、正しく覚えておいて下さい。そうでないと、周りのクリスチャンを真似していたら、我々もおんなじように落第してしまう。落第だけなら来年やれば済むんですけれども、これはやり返しきかないんじゃないですかね。永遠の滅びに入ってしまって後からは。ですので、そういう事なんです。で、問題というのは、再度言いますけれども、この荒野で滅ぼされた世代の問題というのは、

 

10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。

 

これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。私達って世の終わりの我々のことですよ!

再度言いますけれども、世の終わりの問題点と言うのは、端的に言うと、クリスチャンが悪を貪り、多くの悪を行うと言う事です。そんな風に見えないかもしれませんけれども、そうなんです。それで神が怒りを発して殆ど滅びてしまったと言うのが荒野の世代であり、また、イエス様の世代もそうなんです。それまでの世代と違うんです。多く悪を行う故に、神が怒りを発してしまって殆どの人が滅びてしまった。だからそれはまた、別の言葉で言うと、ノアの時であり、また、ソドム&ゴモラの時なのです。

ノアの時は、その当時の人達は道を踏み外していたと書いてあるし、ソドム&ゴモラの時は、明らかに悪に徹していた悪の町でした。

だから、その様な時代なんです、今は。

皆さんの目にどう見えるのか知りませんけれども、神の目に、どう見えているのか?と言う事なんです。だから、今の時代のクリスチャンの常識に従って行ってはいけないんです。だから、キリスト教の色んな雑誌とか新聞なんかも良かれ悪しかれなんです。それに乗って行って常識に従っていると我々も危ないっていう感じなんです。なので、この事を覚えておいて下さい。

そして、問題は、(悪を貪った、)幾つもの事を具体的に言うと。

今、世の中的にもそうなんですけれども、わたし等が、学校に行った時、まだ学校は穏やかでした。教師に反抗するとか殆どそんな事はあり得なかったです。今は、子供でも教師に反抗したりとかが普通になされる、だからこの世的にも世代は、悪くなっております。で、クリスチャンもこの世の者ではないんですけれども、ヤッパリ影響されて悪を貪るようになっている。こういうポイントは是非見ておいて頂きたいと言うふうに思います。

 

10:7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。

 

偶像崇拝って、これも たとえ だと思います。飲み食いって、教会の聖餐のパンと葡萄酒の事と関係しています。だから、礼拝とかと関係するんです。だから器崇拝に入って行ってしまうんです。そういうような惑わしがあります。何度も言うようですが、ローマ法皇の方を優先して、聖書を投げ出してしまうという様な事です。でも。我々が正しく歩んで行く時に、神様の憐みによって、そういった惑わしから解放されます。私のことですが、

非常に感謝な事ですけれども、ある時、自分の信仰生活に矛盾を感じてきてしまったんです。ホーリネス系の教会に行ってですね、非常に良い牧師さんだし、また、人格的にも良かったんです。只、どうしてもその牧師さんの話を強調すると自分の信仰に矛盾がでてきちゃうんです。どうしょうかな?と 思ったんですけれども。ヤッパリその時に、神のみに頼るという事をおしえられたんです!だから、結果的にその教会を出ちゃったのですけれども、それが一つの良かったことかなというふうに思いました。それを一つの契機として、神に従って行くという事が分かったのです。その時は気づきませんでした。今思うと偶像礼拝から離れるという事だったのかもしれません。ので、どうぞ御言葉を行っていくことに大きなポイントがあるという事を是非見ておいて頂きたいというふうに思います。そして、今の世代っていうのは、つぶやいたり、不満を言ったりとか、多くのクリスチャンが悪を貪るような世代になっています。どうぞこれらの中に入る事には、ポイントがありません。

 

10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

 

立っていると言う言葉は、ローマ書11章20節の中でこのように書かれています。

 

ローマ書11章 11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。

 

立っている人とは、要は信仰を持っている人です。だから、今の時代のクリスチャンの問題って言うのはある意味では、神の事を信じなくなっているという事です。昨日も暗号の事を言いましたけれども、どうして聖書の暗号を分からないかと言うと、わたしの理解では、クリスチャンは神様の事を信じていないからです。ハッキリ初めであり終わりであると、要は時間を超越した方であるじゃないですか。ハッキリ書いてあります。そしてそれは、言葉の上で あぁそうです、神様は初めであり終わりであると言うんですけれども、いざ それが現実になって、聖書の中に三千年前のモーセの時代に知りえるはずの無い現代の 3:11の地震とか津波が書かれてある。 事に対して(えぇーそんな事あり得ない!神でもそんな事出来ない)ということを言うのは、神様を信じていないと言う事です。

実は、本当は神様の事を、クリスチャンは本当の意味で信じているのか?御言葉を文字通り信じているのか?という事が、いろいろ問われるのではないのかと言うふうに思います。

 

そして、聖書を理解出来ないと言う事も、、、ヤッパリ終末の事とかを理解出来ないと言う事も不信仰、本当の意味で御言葉を読んでいない、真理としていないから理解出来ないということがあるんです。

だけど、明らかに、御言葉を真実だとするならば、ノアの時、世の終わりの時がノアの時ロトの時と書いてあるのは、明らかに教会に関して裁きが来ると理解出来ると思うのですけれども、殆ど自分の都合で読んでいるから、聖書の言っている事を理解出来なかったり、信じがたいんですね。だから理解出来ない。こうい言うポイントは是非見ておいて頂きたいと思います。

 

10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

 

試練て書いてあると何か厳しい事とか、鞭打ちが来るとかと思いますけれども。KJV訳の方では、こころみ とか 誘惑とかその様な意味なんです。

ここで、何を言っているのかと言うと、終末の時というのは、エバが蛇によって誘惑を受けたと同じように、我々も、同じように誘惑を受けるんであります。で、それは、どういう事かと言うと、悪を貪るという意味合いの誘惑が来るんであります。それに引っかかるかどうか?という事が、ある意味では我々が、永遠の命をチャンとゲットするのか、それとも滅びに行ってしまうのかという時の分かれ目になっていく、そういう事を覚えていて下さい。

だから皆さんが、不満を言うようにと誘惑が来るんです。もう口から、不満出るぞ出るぞと、お前でも言ってもいいんだという囁き、、、それにバタバタバタとまいっちゃうと、チョット危ないよ!という感じなんです。そのような状況にされたら誘惑が来るんです。あぁーこれもダメ、あれもダメ、いったいどうなっているの!という そんな時でも、ヤッパリ固く言葉を留めて、不満を言ってしまう事が無いように。留めるのか、それとも言ってしまうのか、という様な感じの誘惑の時があるのです。

結局は不満を言ってしまったり、反抗してしまったり、または、器崇拝に興じてしまったりとかする、そういうクリスチャンが多くなるのです。だけど、その様な試みの中でも、留まるのかどうか?そういう誘惑の中でも とどまるのかどうか?そういう事が許される時代だという事です。

だから、わたくしも、不満が出そうになりそうな時が無いわけでもないです。でもそれは、ヤッパリ主にあって留めさせて、感謝していくことが出来るように求めていきたいと言うふうに思っています。

 

全ては我々が---御言葉に有りますように、神は愛する者の為には、全てのことがあい働き益となるんであります。だから、いろんな問題とか批判とか悪口さえも、益になってくるのです。今これらの事に遭うのは、艱難時代に対する備えではないのかなと思います。だから、世の終わりの誘惑というのは、このような悪へのいざない(誘い)です。ハッキリ言いますけれども、それは、偶像崇拝者になれとか、姦淫するとか、主を試みるとか、つぶやけとか、そういったようなあらゆる誘惑です。

それに荒野の民は、それぞれ引っかかってそして滅びに至ったんです。だから我々の教訓てどういう事かというと、同じような事柄がクリスチャンに対しても 悪へのいざない が来るんです。それに引っ張られて行くならば、命を失うんです。だから皆さんが、永遠の命を今持っているのは事実です。だけれども、命を失うということは、永遠の命からはずれちゃうという事なんです。今永遠の命を持っておられることは事実ですけれども、そこから悪へのいざないを受けて、こころみを受けて、そして引っ張られて失っていくというそういう歩みなんです。そういうことに入る事が無いようにという事です。

 

神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

 

是非この事を、期待していきたいと思います。

 

10:14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。

10:15 私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。

 

偶像礼拝に関して、賢い人達に話すように話します--だから、わたしは、こんなふうに理解します。わざわざ賢い人に話すと言っているのは、一つは、ヤッパリ偶像礼拝って文字道理の偶像礼拝もあると思います。沖縄だったら仏壇を拝むとかあると思います。 もう一つは、賢い人に話すってわざわざ書いているから、たとえの意味合いも有るんではないのかなと思います。両面を理解していきたいと思うんであります。

 

10:16 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。

 

だから、祭壇にあずかり、飲み食いとか、供え物を食べるとか食べないとかに関しては、基本的にそれは教会でやっていることと同じことだということです。だから教会においてしている事は、祝福の杯ってキリストの血にあずかる、そういう霊的な事柄なんです。だから、我々が受けている聖餐の杯は、キリストの血にあずかることであり、聖霊にあずかることである。ことがら、これは祝福であります。また、パンは、キリストの体にあずかると言う事であり、御言葉にあずかることであり、それを通して我々は、霊的に成長していく。これは祝福なんです。だけれども、これを偶像礼拝していく時に、今度、キリストの血でなくて、悪霊のパンとか悪霊の血に交わる事になるぞ!という事が、この箇所から語られているのです。

 

10:17 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

10:18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。

 

供え物を食べるって、パンや血を飲むことです。杯を飲むことです。

それは、祭壇にあずかると言うことですね!だからこれは基本的に神の祭壇にあずかるならいいのですけれども、

 

10:19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

 

言わんとしている事は、パウロが言っている事は、偶像の神が存在するか、しないかとか、仏教でお釈迦様の仏壇にお祈りしている時、お釈迦様なんかただの人間だと思うでしょう。それは確かただの人間にすぎない。じゃー仏壇(仏の壇)に拝んでもいいのか?そう言う問題じゃないといっているんです。それは、お釈迦様のふりをして悪霊がそこに、ヤッパリそこの仏壇に居るということです。そういう事がかいてあるのです。

 

10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

 

仏様なんかただの人間にすぎないですし、悟りは開いたかもしれませんけれども、いろいろ瞑想を開いたかもしれませんけれども。じゃ仏壇の仏はただの人間なんだから、仏壇を拝もうと拝むまいと、それを食べようと食べまいと、何の関係があるのかというけれども、実はそれは、人を拝むと言うより、実は悪霊に捧げられているというんです。悪霊は実在しております。皆さんと交わりを持ちます。で、捧げたものを食べる。実際に捧げられたもの、ご飯とか、味噌汁とか、おかずの捧げものを食べると---それは美味しい、おなかが減っているからと美味しいと言って食べると、そうすると悪霊と交わるものになっちゃうという事です。一杯の食事によって変な霊を受けたらマズイですよ!そう書いてありますよね!これを食っちゃうと悪霊と交わるものとなっちゃうんですね!一杯だけならと思っても、いくら腹が減っていても我慢した方がいいですよね!

 

21節でも書いてあります。

 

10:21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。

 

ヤッパリ悪霊の食卓ってあるわけですね!  偶像の神に捧げられた。そこに食べるものとか、飲むものとか、それを食べちゃうと、悪霊と交わりを持っちゃう事になる、それで、そういう事は気を付けなければいけないですね!

焼香も出来れば、あまりしない方がいいんでしょうね!基本的には。。。。その辺は、ケースバイケースなんですけれども、基本的な線は言わなければいけないですね!で、これは、意味が無いんじゃないんです。ヤッパリこの世の神が、そういうふうにクリスチャンでも葬式に出させたり、チョット先祖伝来の仏壇を、ご先祖を大事にしないのかと何とかして拝ませようとするのは、意味があるんですね!それは、悪霊と交わるものになるという事を分かっているから、来るんです。皆さんそれを、賢い者になって、理解したうえで、行動してください。で、個々のことまでは、どこの家の、親戚の何処に仏壇のあることまでは、わたくしは、関知しておりません。言われてもおぼえてられません。

だけれども、原則は覚えておいて下さい。その上で対応して下さい。で、仏壇が本家にあると言う人がいるかもしれませんけれども、この基本を理解したうえで、食べたりしなければいけない。それは、単に人が作ったものとか、または仏壇に、確かに仏壇の神って居ないんだけども、悪霊は居るんです。

そして、食べたり飲んだりで悪霊との交わりになっちゃうんですね!だからその影響はでちゃうんです。意味なく悪霊はそこに存在している訳では無いんです。影響を及ぼしちゃうんです。皆さんの考えとか、思いとか、歩みとか、ぐーと夢に出てくるかもしれませんし??それは意味のない事じゃないんです。だからどうぞ気を付けて下さい。

やはり、霊的な事柄も因果応報と言うか、起こるべくして起こっている事ってあるわけであります。

 

これが基本なんですけれども、たとえ の意味合いも有ると言うふうに思います。

クリスチャンにあっては、偶像の神に捧げられたって言うから、要するに、特に今の時代では、器を通して悪霊的なものが来るって言う事そんな理解が出来ます。だから、ベニー・ヒンがまさに彼がビデオの中で、デーモン・デーモンと言って悪霊を下していますからまさにそれです。いいですか!この たとえ の意味合いとしては、

 

10:19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

 

だから、器の崇拝に出て、具体的には ベニー・ヒン の集会に出て、其処で、ベニー・ヒンの霊を受けたり、ベニー・ヒンのメッセージ(これはパンを食べることですけれども)を受けている時に、悪霊と交わるものとなっちゃうということです。そういう器を通して!

 

だから、今の時代はキリスト教の集会とか聖会って、油断も隙もないんです。すごい外国の素晴らしい器が来ているから、この聖会に出ないと、あなたの損よ!とか、損失なのよ!とか言われても聖書的には悪霊と交わるものとなってしまうという事があるんです。だから、迂闊に聖会に行ってメッセージを聞くべきかどうか分からない。迂闊に聖会に行ってその人の霊を受けるべきかどうか分からない。いや!逆に聖書的に言うのなら、神の素晴らしい交わりをしてきたつもりなんだけれども、悪霊と交わって帰って来た、悪霊の影響を受けて来たと、それに類した事って結構きくんですよ!

そういう聖霊の第三の波系の集会に行って。牧師が行って、素晴らしい交わりをしてきたつもりなんだけれども、悪霊と交わって帰って来た、、、悪霊の影響を受けちゃったという事は、あるんです。

それに類した事って結構聞くんです。聖霊の第三の波系の集会に牧師が行って、そして、素晴らしいい恵みを受けてきたつもりなんだけれども、精神的におかしくなって、自殺しちゃったという牧師さんもいると聞いた事が有ります。

わたしは、そういう リバイバルの証しとかを英語圏でもあるのを、二、三、読んだことが有るのですけれども、ヤッパリそんな影響を受けちゃって、(そういう集会に出て影響を受けちゃったという事を何人かの人が証しで書いてあるのを読んだ事が有ります。)だから、それは聖書的には全く正しいんです。

何故なら、ふれ込みは、素晴らしい神の器ベニー・ヒンかもしれませんけれども、聖書的に言うのなら悪霊と交わってきたという事になるんです。悪霊の影響が起きてきて不思議じゃない。だから、恐ろしい事なんです。

今の時代を聖書的に私達が見分けることが出来るのか?それとも、見る事ができないのか?人間的な視点で見るとか、、、、キリスト教会のいろんな雑誌とかの宣伝で見るって一つの方法ですけれども、それは盲人が書いたものですから、それと聖書的な視点でそれらの宣伝文句を見ることは別の事なんです。で、多くのクリスチャンは、聖書がこの様な事まで語っているんですけれども、見ない為に、何の警告も受けていないのです。

偶像崇拝の事に関しての警告を何にも受けていないのです。だから、悪霊って書いていて、しかも牧師もそれを見るべきなんだけれども、注意も出来なくなっている。と言うような感じです。しかし我々はこの事を見なければなりません。何故なら、世の終わりに臨んでいる我々は、こういう事が、頻繁に起きている時代に存在しているわけですから!

カトリックなんかもそうですよね!カトリックの教会へ行って マリヤの霊を受けたりとか、変な悪霊と交わりを持ってしまうとか。だから、どうぞ油断も隙も無い、しかも そう言う恐ろしい現実を実は聖書は唯一語っていると言う事であります。だからどうぞ、我々は、教会行っていれば何の問題も無いって、それはあまりにも皮相的な単純な考えです。聖書の言う事が正しいんです。油断も隙も無いんです。

だけれども真実を見る人は、これらの事柄を見てゆく!という事柄を見て行きたいと思います。