第Ⅰコリント人への手紙10章1~11  2011年9月25日

 

10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。

10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、

10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、

10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

 

ここでパウロが何を言いたいのかと言うと、一つは、わたしの理解では、旧約聖書を書かれている文字通り読むのはもちろん基本なんですけれども、単に、書かれている律法の書に書かれている 出エジプト記とか、民数記、だとか これらを、その通り読む事は一つの事だけれども、もう一つは、今のクリスチャンに関して たとえ で、今のクリスチャンに関して教訓として、今のクリスチャンの用語で旧約聖書を読まなければいけない。と言う事です。

 

何を言っているのかと言うと、雲の下におり、みな海を通っていきました。これは、確かにそうです。紅海を通っていきました、これは、雲と海を通っていくと言うけれども、モーセにつくバプテスマって書いてあるように、今のクリスチャンがバプテスマを受けて歩んで行くと言う事を、予表として たとえ として語っているんだと言っているのです。これも たとえ あれも たとえ とエレミヤが言うと、またエレミヤは何でもかんでも たとえ にしていると言うかもしれません。だけれども、パウロが言っているのであります。そして、新約聖書のコリントの手紙で明確に旧約聖書をこの様に読めと!そのように書いているのです。

バプテスマって書いています、バプテスマと言う言葉は、出エジプト記に出てきませんよ!でも それは、今のクリスチャン用語のバプテスマの事なんだというふうにパウロは言っているのです。だから、そのように、紅海を通って来たということは、我々は、その様な視点でこれらの記述を読むべきだと、パウロは、そこまでは言っていませんけれども、其の位は気づけよという事で語っているのです。だから、何度も何度も繰り返して言うようですが、(たとえの理解) 旧約聖書の中で書かれた事柄は、今の時代に我々に対して、たとえ 比喩で語られていると言うことは、何もレムナントのエレミヤだけが勝手に言っている事で他の聖書は何も支持していないと言うのは、間違いです。聖書は、明らかに たとえの理解をなすことを支持しています。ここでもそうです。そのように読めと言っている訳です、そんな風に出エジプト記の紅海のところをバプテスマであるといくら調べったって出てきませんけれども、これはバプテスマのことを指すんだと言っているんですし、その様に読むのが正しいのです。新約の視点でそういう風に読まないと、多くのこんなに分厚い旧約の書というのは---(出エジプト記、申命記)だとか何だか難しいなといって読むけれど、殆ど意味の無いこととなってしまうのです。只難しい一杯漢字の並んだのを読んでいて、漫画の本をその分10冊くらい読めたのにと思うかもしれないけれども、そういう無駄な時間を費やしたとか、そんな問題になってしまうのですけれども、---違うのです。読むべき方法で読まないと、聖書って読めないのです。

そして、もう一つハッキリ言いたいことは、この様に出エジプトしてきた民の歩みっていうのは、今の新約の---パウロは当然新約のクリスチャン向けにコリントの手紙を書いているのですけれども、クリスチャンへのたとえ であり、比喩であり、警告なんだと言う風に書いているのです。そうとしか読めません!

だから、我々もその様に読まなければなりません。そして、残念ながら、何度も言うようですが、今のキリスト教会の中では、旧約聖書をそのように読むっていう習慣を捨て去っているのです。そういう事に関して道が曲がっています。だけど、どちらが正しいのかと言うと、しつこく何度もいう様ですが、聖書の言われた通り、イエス様御自身が言われているように、このたとえが理解できないのか?と言う風に、たとえを理解することが正しく、理解して読むことが正しいということを覚えていてください。

で、ここで言っていることは、バプテスマを受けたて言うから、しかも、同じ御霊の食べ物を食べたと言うから、みなさんもバプテスマを受けましたよね!滴礼か浸礼か分かりませんけれども、どちらもバプテスマです。ですから、洗礼(バプテスマ)を受けたクリスチャンの、これは歩みの たとえ だと言っているのです。旧約で全然新約の人々と関係ない事を言っているのではなくって、確かにこれは、モーセにつく旧約の民だけれども、新約の我々と同じように歩んで行った、ある意味では、我々の歩みの模範であると言う風に言っているのです。だから、新約の用語を使っているのです。

 

そして、10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、

10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

 

(キリストの岩から飲んでいる、そして御霊の食べ物とかと書かれているのは、)今の新約のクリスチャン用語なのです。だから、旧約の人達がやっているという事は、全然今の新約のクリスチャンと関係無いような歩みをしているのではなくて、今のクリスチャンの歩みをしているのです。だから、この5節、

 

10:5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

 

というふうに、突然縁起でもないことを書いていますけれども、何度も言うようですが、ここで書いているのは、どんなに国語力が無くても読めることなんですけれども、洗礼を受け、そして、毎週聖餐のパンを食べたり、または、御霊の恵みを受けたり、御霊に教えられているクリスチャンであっても、歩みを正しくしなければ、彼らの大部分は荒野で滅んだというように、クリスチャンも滅ぶという事を言っているんです。そのように言えば異端になるかどうか分かりませんけれども、どうもそうらしいですよね!

 

どこでそんなかってな教理が決まったのか分かりませんけれども、(クリスチャンて絶対に滅びないことになっているらしい、何が何でも絶対滅びない少しでも滅びると言ったら異端だと言われるらしい)ですけれども、そんなことは、気にする必要はありません。

我々は、神の御言葉に沿って語るのであって、今の間違ったキリスト教の教理に沿って異端と言われようと言われまいと、そんなことは全く気にしていないのです。

しかし、教師が怖いと言うのは、神によって裁かれるから怖いのであって、別に教団からどう言われようと、他の教会から異端と言われようと、そんなことは、気にしたことではないのです。大事なことは、御言葉に沿って曲げずに語る事です。

 

この箇所はそのように読めます。みなさんはどうですか?

 

にもかかわらず、彼らの大部分は滅んだ。というのは、突然、これは未信者のことですか?違いますよ。 これはバプテスマ(洗礼)を受けたクリスチャンであり、御霊の食べ物を毎週礼拝に通い受け、御霊の恵みを受けたクリスチャンも歩みを正さないならば、滅びることが有ると言うのが明確なこの箇所の結論なのです。で、聖書は、この箇所は非常に分かりやすい箇所ですけれども、これに限らず似たような事をいくつも書いてあるのです。だけれども、全く道が曲がっており、そして聖書よりも教理に聞き従っている今のキリスト教会は、目の前に書いてあることを読めないのです。コリントの手紙をどこの教会も読んでいますよね!

コリントの手紙どこの教会の方も読んでいますよ! 読んでいない教会ってあるでしょうか?コリントだけは抜かすとか!ローマ書やってから突然コリントを抜かしてガラテヤ書に行くとか。コリントは嫌いだとか!---そういう教会って無いですよね!--読んでいるはずなんだけれども、教理で洗脳されちゃっているから、書いてある事を読めないのです。これは、恐ろしいことです。

しかし、縁があってレムナント教会に来られた方は、または、仕方なく来ている人は、折角なので、理解して下さい。この箇所は、それを理解しないと何も読んだ事にならないのです。

もう一度繰り返して言いますけれども、ここは、未信者が滅びると言っているのではないのです。バプテスマ(洗礼)を受け、御霊の食べ物と書かれています=これは、御霊の恵みを受けているクリスチャンです。    未信者は御霊の食べ物(御霊の恵み)も受けません。  クリスチャンが滅びると言う当たり前の事が書いてあるのですけれども、100回言っても分からないのです。恐ろしい事です、洗脳されるという事は。だから、我々は、訳の分からない洗脳でいくら聖書を読んでも理解出来ない洗脳されたクリスチャンになってはいけません。そうではなくて、御言葉の語る、(御言葉を真理とする者に真理があり、ポイントがある)と言うことを見ておいて頂きたいと思います。

 

どんなクリスチャンも滅びることが無いと言いたいのですけれども、それを言えば (受けますし) レムナント教会にも もうちょっと人が来ると思いますけれども、-----大丈夫あなたはクリスチャンと名が付いているでしょう、15年前洗礼を受けたから、まったく大丈夫、だから安心して下さい--そう言ったら、教会に来る人は増えるでしょうか?しかし、それを優先したなら--どうでしょう?  ===わたしは裁きにあってしまいます。それはチョット止めておこうと思います。

聖書は書かれたように読まなければいけません。    縁起でもないから、あまり言いたくないのですけれども、しかし、みなさんは、このことを知らなければいけません。そのように聖書は書いているのです。大部分滅んだから、みなさんも気を付けろ!っと言うのがこの箇所なんです。クリスチャンでも滅びると言う事が明確に書いてあるのです。このことは、理解しなければなりません。

エレミヤがこじ付けで聖書を言っているのではないのです。聖書が語っているのですけれども、クリスチャンが盲目になっている為に見えないのです。パウロのようにならなければなりません。パウロもかつては、キリストとまったく正反対の道を歩んでいましたけれども、ダマスコの途上で回心して、目から ウロコ が落ちたんです。みなさんの目に物理的な ウロコ は付いていないかもしれませんが、霊のウロコはあるのです。これを取り去ってしまって、そして見えるようになってから見ないのならば、何のためにこの箇所を読んでいるのか分からないのです。

 

 で、何で滅んだのか?その理由ですけれども、

 

10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。

 

ここでハッキリ書いています。私達へのため---これは、旧約の律法を行っている祭司とかレビ人じゃないですよ!  私達って、これは新約の教会のコリントの教会へ宛てて書かれているのだから、今のレムナント教会の人にも通用するのです。

私達への---クリスチャンへの警告の為なのです!  だから、警告の為と言うのは、クリスチャンも歩みを正さなければ滅びる可能性があると言う事です。滅びると言うのは、単に荒野で倒れると言う事ではなくて、本当に永遠の命を失うと言う事を言っているのです。当たり前の当たり前の事なんですけれども、どうぞこのことを理解して下さい。

 

旧約の箇所に戻りますが、旧約の民というのは、エジプトに居たのです。そして、紅海を通って荒野へ行ったわけですが、そしてどこへ行くのかと言うと、約束の地へ行くわけです。    紅海でバプテスマを受けたというのは、何を言っているのかと言うと、分かりやすく言いますと、エジプトは明らかにこの世を象徴しているのです、だから、この世にもとは付いていたクリスチャンが、海(紅海)でバプテスマを受けているのですけれども、洗礼を受けたクリスチャンは、クリスチャン生活に入っていく、それと同じパターンだと言っているのです。そして、民はどこを目指したかと言うと、約束の地を目指したのです。

これは、天の神が我々に約束された天の御国の事を言っているのです。だけども、ここに書いているように彼らの大部分は、荒野で滅んでしまったと言うのは、縁起でもないのですけれども現実です。皆さんが、旧約聖書を読み(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)モーセ5書を読むならば、殆どの第一世代は荒野で滅んじゃったのです。これは現実なんです。約束の地へ入った人は殆どいないのです。これが、縁起でもないのですけれども教訓だと言っているのです。これは、クリスチャンに関して言っているのです。だから、同じようなクリスチャン生活をしていくけれども、場合によっては滅んでしまう人は多いぞ という事を言っているのです。縁起でもないのですけれども。だから、根拠もない安心感が、面白いものですけれども、今のキリスト教会で与えられているのです。

 

よく、学校へ行けば行くほど馬鹿になると言う話を聞いた事が有るんですけれども、ゆとり教育は何とかかんとかと聞いた事が有ります。  教会へ行けば行くほど不信仰になっていく、聖書の教理の真理から離れていく。冗談か、矛盾か、皮肉の様な事が本当に行われているのです。毎週教会へ行けば行く程、天国から離れていく、入るべき御国から離れていく、訳の分からない聖書にも無い安心感を持って、クリスチャンは滅びに進んで行くと言う訳の分からない事になっているのです。

しかし、レムナント教会に縁があって来られた方は、そうであってはいけません。真理をみなければいけません。折角来られたのですから。

 

10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。

 

折角、バプテスマを受けて歩んでいても、何で彼らが滅んだかというと。ポイントは、ここに書いているように、悪を貪ったんです。それは色んな悪があります。--偶像崇拝があるかもしれないし、不平不満のつぶやきとか、いろいろあるのですけれども。クリスチャンも同じだという事を覚えていて下さい。

皆さんが、クリスチャン生活をしていく中で、民がモーセに逆らったり、神に逆らったり、人に逆らったり、不平不満を朝から晩まで言ったり、または、偶像崇拝とか姦淫とかそういう色んな罪に入って行く時に、結局それは、滅びに行く、しかもそれは、クリスチャンの滅びとは永遠の命を失うということなのです。大袈裟なのではなく、そのことを覚えておいて頂きたいです。

 

10:7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。

 

偶像崇拝とは、今で言うと、器崇拝の事です。キリスト教会の中、立派な器が出てきます。それはそれで、貴いのですけれども、面白いものなのですけれども、器の方を ズーと重要視してしまうと、御言葉とぶつかるのです。そして、御言葉よりも器を取ってしまうと、聖書からズレてしまうのです。何度も何度も繰り返して言っている事ですけれども、ヤッパリそうなのです。

典型的なのが、ローマカトリックです。大きな偶像ってローマ法王がそうですよね!  そして、ローマ法王が言うのです。--(聖書には地獄のことが書いてあります。怖いです、しかし、心配することはありません。神はあまりにも愛の神であるので、みなさんを そんな苦しい目に会わせる事は出来ない、地獄は皆さんの心の中にある。それは、ちょっと嫌な事言われて嫌な気持ちになるでしょう、それが地獄なのです。実際に火の池が皆さんの未来に待っていることはありません)と言う様に、これは、聖書の言う事と全然違う事を言っているのですよ!だけど、偶像を拝む人は、御言葉を投げ捨てて、ローマ法王の言葉を取るのです。これが偶像崇拝なのです。それは、滅びに直結するのです。だから、こう書いてあるのです。

プロテスタントも大なり小なり偶像崇拝はあるのです。器の方を取っちゃうと、聖書は投げ捨てられちゃうのです。で、わたしは、ブラザレン系の教会に行っていたことが有りますが、ブラザレン系の教会ってオッチマン・ニーと言う人が結構有名で、尊敬している人が多いのです。そういう わたしも、ウオッチマン・ニーの本をいっぱい買って読んでいたのです。でも、ヤッパリ何処かで、御言葉とぶつかる事があるのです。その時は分からなかったのですけれども、艱難前携挙説を彼は信じているのです、教会は裁きに遭うとは彼は言っていません!ですが、御言葉よりもそっちのほうを取っちっやうと、御言葉の方を投げ捨てちゃうのです。そういうふうに意図していなくても、彼の本で言っている事とぶつかっている教理があると、御言葉の方を、受け入れられないのです。これは、偶像崇拝になってしまうのです。だから、偶像崇拝って深刻なものなのです。どうぞ、御言葉と器が違ったなら、御言葉の方を取ると言う原則をどうか正しく持って下さい。

 

10:8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。

10:9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。

 

どうやって蛇に滅ぼされたか?覚えていますか? 見てみます。

 

民数記21:5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」

21:6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。

21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。

 

これは、試みたという事なんですけれども、みた感じ、(5節に民は神とモーセに逆らって言った。)とあるように、要は、神やまたは、指導者であるモーセに面と向かって逆らっていっちゃう。これは、試みという事です。で、その結果は何かと言うと、蛇に噛まれて死んでしまったと言う事なのです。これは旧約の人達が蛇に噛まれたのですけれども、新約の今の我々には、野原で礼拝している訳では無いから、蛇に噛まれないから大丈夫だ! ここにはマムシもいないし、沖縄みたいにハブも居ないから大丈夫だ! そういう問題じゃないのです。これは、今でも、教訓であり、たとえ であり、また、現実に今でも成就する事だと思います。だから、今でも神に逆らって行ったり、またもし神様がお建てになった 器があるのなら、それに恐れ気も無く反抗的になっていちゃったりすると、場合によって蛇が送られて来て、そして、やられちゃうという事をどうぞ覚えておいて下さい。これは、書かれていることは、決して無駄な事柄ではありません。現実に勿論、文字道理の蛇は来ないにしても、蛇で象徴されるような裁きが来るという事を覚えていてください。

だから、何でもかんでも、いう事を聞けという事ではなくって、結局 神に逆らっちゃうことになると、同じような裁きを招いてしまう可能性がありますので、このあたりは、気を付けてください。

蛇は、ある意味では、エデンの園に出てくる蛇(サタン)ですね!サタンの惑わしだったり、また、燃える蛇と書いているから、霊的惑わしかもしれません。火が燃えるって霊的なことですからね!だから、霊の惑わし、(教理の惑わし)かもしれません。ですので、すっかりおかしな教理にやられちゃう!神を試みる。要は、神に面と向かって言い逆らうという事に関して同じような裁きを受けてしまうのです。

 

10:10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。

 

この箇所は、何を呟いて、どうなったのかみてみましよう。

 

民数記16:41

その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたは主の民を殺した。」

16:42

会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、ふたりが会見の天幕のほうを振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現われた。

16:43

モーセとアロンが会見の天幕の前に行くと、

16:44

主はモーセに告げて仰せられた。

16:45

「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」ふたりはひれ伏した。

 

イスラエルの全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。

神は駄目だとか、神に対して呟いたつもりはないのです。つぶやくって--不平を言ったわけです。

これは駄目だとか、これは悪いのはモーセとアロンで、こんな奴らを選んだのが俺たちの間違いだ。こいつらトンデモナイ(今で言えば、トンデモナイ総理だ、前の管総理はもう空き缶だ!と言って蹴っ飛ばして、今度の総理は どじょう野田総理)だとか文句を言う。そういう事は昔からあることなのです。あの指導者は駄目だ、この指導者は駄目だとかあります。でも、これって、それで済むって(自分では、正しい事を言っている。悪い政治家をやっつけた。悪いモーセとアロンに対して、こいつらに正しい意見を述べたと)思うかもしれないけれど。しかしこれは、神は、モーセとアロンへのつぶやきを神へのつぶやきと理解しています。そして、実際に滅ぼすものが送られて、実際その後に沢山滅ぼされてしまった。このことを覚えていて下さい。

今でもそうなんです。教会でも、文句を言う人って一杯いるんですけれども、そういう人たちは、指導者に言っている時に、たとえ牧師でも教会の指導者でも人に向かって言っていると思っているのであります。だからなんでも許されると---(世の中、今の時代は、何でも許される時代です。警官に向かっても文句を言う人もいるし、教師に向かっても文句を言う人もいるし、場合によってはお金を貰っているのに社長にでも上司にでも文句を言う人はいます。)   だから、教会でまして、牧師なんか、我々の献金で食っているのにと思うから文句を言う人が多いのかもしれませんけれども。しかし、教会での事柄って神様が関係してくるので、正しく聖書の原則を理解して下さい。で、これは、自分は只文句を言っただけなんだ、大した罪ではないと思うかもしれませんけれども。しかしこれは、滅びに直結しておりますので、その様に理解して下さい。今のクリスチャンは、そう思っていないのです。只正しい事言っただけだと思うかもしれませんけれども、これは滅びに直結するのです。しかも人に言って語った事のつもりなんだけれども、神から滅びが来るんです。結局そうなんです。だから、神様が、教会の中でも神ご自身がメッセージするわけではありません。御言葉を語っているのは人なんです。また教会の中でも実際人が立っているのですけれども。それって脅迫で言っているわけではないのですけれども、場合によって神ご自身がその踏絵を敷かれてしまうという事が有りますので、このことは、その様に正しく対応していっていきたいと言うふうに思います。

 

色んな事が我々に許されますけれども、--クリスチャン生活の中で、あの問題も起きた、この問題も起きたと、ヤッパリつぶやきそうになるのです。分からないでもないのです、わたしも、言葉には出ないまでも、心の中に出ることがあります。それってどうでしょうか?セーフでしょうか?アウトでしょうか?言葉には出ないことかもしれませんが、気を付けていきたいとおもいます。妨害も意味があって主が許されている場合があります。だからつぶやかざるを得ないと言うところもあるんですけれども、でもやっぱり、そこを主に信仰を持って感謝してつぶやかずに いきたいと思います。やっぱり主が、全てを益とおもいます。

 

10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

 

かつての日に起きたこと、荒野で多くの民が滅んだと言うことは、我々に対しての教訓だ!ということです。そして、特に、世の終わり終末の時に起きてくることだ!教訓だ!ということです。この事を覚えていて下さい。

荒野で、多くの民が滅んでしまいましたけれども、こういうことが、どの世代のクリスチャンにも起きるという事ではないんです。もしそうだったら、教会に行っている人は殆どどの時代、---ルターの時代でも、ウエスレーの時代でも、教会に行っている人が殆ど滅んでしまうのだったら、何のために教会に行っているのか分からないです。だけど、世の終わりていうのは、繰り返して言いますけれども、今までの常識が通用しないのです。キリスト教会の常識が通用しない特別な時なんです。緊急な時なのです。その時は、上記のような、こういう事がおきるぞ!という時なのです。

これは、イエス様の時もそうですよね!イエス様の時---あれも旧約時代の終わりですから、世の終わりの型なのです。その時に、神の民の殆どが滅んでしまったのです。特にエルサレムとかユダはそうですよね!旧約のユダの人達も結局、旧約の終わりの時に特別な事が起きたんです。それは、神の子を殺してしまった為に、神の大変な怒りを買って、そしてエルサレムはローマに滅ぼされて、最後の一人まで殺されたのです。徹底的な滅びが来たのです。だからこの荒野で殆どの人が滅びたっていう事は、少なくとも、イエス様のときには文字どおり 実現しました。だからこれは、パウロが大げさな事を言っているのではないのです。似たような形で、滅びが来るんです。だから我々は、そういう特別な時代を迎えようとしているから、気を付けなければいけないと言うことを言っているのであります。どうぞこの事を理解して下さい。我々が、終末終末と言っているのは、他の時代の、(繰り返して言いますけれども)クリスチャンの常識が通用しないのです。特別な事が起きるのです。

 

例えば、ここに火事が起きるじゃないですか?そうするといつもと状況が違います。(火事なんかそんなに毎日はおきません。)すると突然 電気が消えってしまったり、火を消す為にスプリンクラーが作動して水が バーと噴出したりします。電気が突然消えることは普通はありません。また、スプリンクラーからいきなり水が噴き出してくることもないんです。煙に巻かれて高い階の人は、消防自動車の梯子車から降りてくるとか そういうことは、めったに無いのです。だけど緊急の時にはそれが起きるのです。

同じように、ここに書かれている荒野の滅びというのは、全ての時代のクリスチャンへの警告ではありません。しかし、世の終わりに臨んでいる我々への警告なんです。そして今の世代のクリスチャンが、終末の時代に生きているのならば、我々に対する警告なんです。この事を覚えておいてください。

それは、世の終わりの時っていうのは、多くのクリスチャンが勘違いしているように、終末は、クリスチャンの勝利の時じゃないんです。背教に関しての神の怒りの時なんであって、これを免れて滅びを免れて、命からがら助かる人は少ないのです。

ロトを見てください。ロトは確かに助かったのですけれども、あれって命からがらなんです。ソドム、ゴモラに対して、神の御使いが来て見て、これはトンデモナイところだと思って、そして火が臨んだんですけれども、ロトは自分に係わるすべての人を救いたいと思っていたんですけれども、でも婿達は本気にしないで、結局滅びにいたりました。で、家族4人で逃げていったのですけれども、奥さんは何だか知らないけれども後ろを振り返って塩の柱になって、ヤッパリまた1名犠牲になってしまったんです。で、なんだかんだして結局3名しか残らない。やっと助かった。命からがらなのです。だから、みなさんは、世の終わりに我々がいるのならば、これからは、命からがらの時代に入って行くんだという事を覚えていてください。その時代に来てしまったのならば、何はともあれ、永遠の命をGETするという事は一番もっとも大事な事です。

変な安心感を持ってはいけないんです。それこそ火事に臨んで、その場から着の身着のままでも逃げてくると言う感じ、または、タイタニック号が氷山にぶつかって、昨日までは、タイタニックで踊ったり、御馳走を食べたり、気楽にしていたけれども、今何とかボートで逃げ延びて命を救うというそう言う段階なんです。だからどうぞ、そういう時代なので、我々は、その辺りにポイントを持っていかなければいけないという事を あらゆる聖書の箇所は、終末に関してこう語っているんです。

 

黙示録のメッセージがそうですよ!  あらゆる災いの中で、多くの人が滅びる。そしてまた、多くの大概のクリスチャンは滅びる!でも少数の人は艱難を経て残るっていうのが黙示録のメッセージですよね! また、マタイ24章とか、終末に関して言われているイエス様のメッセージもそうですよね! その時多くの人が背教するとかですね!また、あなたがたを苦しい目に会わせるとかですね!いろいろ書いているのです。だから そんな時代に皆さんは幸か不幸か生まれてしまった以上、正しく土台を据えて下さい。それはなぜならば、後になって諦めが付く事ならばいいのですけれども、永遠の滅びじゃあ諦め付かないです。どんなに考えたって毎日後悔では やってられないです。

終末に関して細かい事とか、微妙な事を全て理解する必要はありません。しかし大筋のポイントです、多くの人が滅びるっていう事を黙示録セミナーでさんざん喋って来たんです。ですけれども、分からない人は、ヤッパリ分からないです。でも明らかです。あらゆる聖書の箇所は、この事を語っています。なので、我々も教訓とし、この今日の第Ⅰコリントの箇所もそうです。他の箇所も あらゆる聖書の箇所が同じ事を語っているのです。今日の箇所は、荒野の旧約の民は、結局は約束の国に入れないで、多くの人は、荒野で屍をさらしてしまった。同じ様に終末の日のクリスチャンも結局は、入るべき天の御国に入れないで、悪を貪り、それによって滅びに入ってしまう。今のクリスチャン(終末のクリスチャン)のキーワードはハッキリ言います、悪を貪る です。何故ならそう聖書に書いているからです。神は意味も無くクリスチャンを滅びに至らせるわけではありません。しかし明確な御言葉の基準があって、それに逆らっている人達は、ヤッパリ入れない! 終末の日、コリントの手紙にここが書いてあるメッセージのポイントは、終末の日のクリスチャンは悪を貪る。悪の具体的なことは、偶像崇拝であったり、または主を試みたり、試みだから逆らうわけですね!また呟いたり 全然不満ばっかり言うとか、そういったことがらです。で、確かに今のクリスチャンはそういう事です。器崇拝もそうですし、また平気で教会に関しても文句を言うようです。しかしこれは、滅びに至る病であり、滅びに至る兆候であるということです。多くのクリスチャンは、世の中の人が嫌という程総理大臣に対しても、役所に関しても文句を言っているから、自分達の牧師にたいしても文句を言ってもいいと思っている。時々セミナーに来られる ある兄弟の話では、その人の行っている教会の牧師が追い出された、と言う様な事が普通になってきているのですけれども、しかし、それはみんなどんなことも許されるから、教会もそういうことも許されると思っているかもしれませんけれども、御言葉が適用されるという事を覚えておいて下さい。それは人間的なそういう事は、牧師に勝ったと言っているかもしれませんけれども、御言葉が適用され、そして不良民は滅ぼされるものに滅ぼされてしまうという こういうポイントを覚えておいて下さい。人間的にはこうですけれども、結局滅びに入ってしまう、こういうポイントは見ていって頂きたいと思います。