第Ⅰコリント人への手紙11章23~34  2011年11月6日

 

11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、

11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

 

ここで、渡される夜って言うのは、訳が異なります。日本語はどうしてか分かんないですけれどもね、残念ながら偏見なしに言いますけども、日本語の翻訳の聖書の翻訳は、肝心なところでおかしな訳になっているのは明らかであります。これは、英語で最も定評のあるのは、 キング・ジェームス訳(KJV聖書)という聖書があるんですけれどね。それと照らし合わせて よく チェックしているんですけれども

違うのです。

 

「渡される夜」。。。。先週も言いました様に、これは、KJVでは、=(裏切られる夜)なんです。渡される夜ってチョット言葉が違うんだけれども、大分違いますよね!

で、これは、他でもない、繰り返して言いますけれども、ユダが裏切って、一切れのパンを渡してって

いうことを指します。イエス様の言ったのは、明らかに たとえ を通して語られているんであります。

 

パンに関しての裏切りが有るぞ!という事を言っており、パンは、命のパン=(神の御言葉に関しての事柄)です。だから御言葉に関しての裏切りが有るって事を、語っているのです。この箇所をまさに我々がここで毎週毎週語るんですね、レムナントでは サービスがいいですよね。教会によっては、月に一回とか、年に三、四回しか聖餐式をしないこともあるかも知れませんが、聖餐式にかんしては、サービスがいいと思っています、レムナントでは、毎週二回 やっていますからね!御利益が多いか少ないか分かりませんけれども、その度、この聖餐式の箇所はいやと言う程読んでいますけれども。

読むたんびに、裏切られる、渡される夜ってここの所を読みますけれども、いわんとしていることは、主は御言葉に関連して裏切りを受けたんだって事を言っているんであります。

そこを読まないと、何のために何百回も同じことを聞いているのか分からないですね!そして、この箇所、第Ⅰコリント11章は、聖餐式に関してのところがメインですけれども、聖餐式に関しての たとえ を理解していないならば、読んでも殆ど何の意味も無いんであります。

で、(パンを食べる。) と (葡萄酒を飲む)。。。。。レムナントはチョット手抜きでパンはスーパのその辺りのパンであります。種無しのパンを本当は別々に作るんですけれども。ブドウもぶどうジュース。なんだか、何か色は付いていますけれども。。。。。しかし、そういう問題じゃないんですね!本質は。パンは明らかに御言葉に関しての事であり、葡萄酒は明らかに聖霊に関しての たとえ なんです。その辺りに関してのいろんな警告が 11章に書かれているんです。それを読まないと何のために此処を読んだんだか分からないですね。そういう事が言われています、この箇所では。

 

聖餐式に関する、これは目が開いていない人には分からないんですけれども、不吉な事を言っているんです。「渡される夜。」 ってまさに 裏切られるって事を言っているから、必ず神の御言葉に関して、教会の中で、裏切りが出て来るぞ!って言うこれは預言なんです。実際そうなんです。

他の教会の事を、悪口言うのが趣旨じゃないけれども、レムナントより よっぽど まともに聖餐式をやっているカトリックの人達って怒っていましたよねぇ。  「エレミヤさん、聖餐式、真面目にやっていないでしょう!」       あ、ばれてしまいましたか!、、、、、、あんまりその カトリックの人程力を入れていません。パンを食べるとか、葡萄酒を飲むとか、そういう食べる、飲むとか、本当に口を動かして食べるとか飲むとかそんな事に力を入れていません。けれども、理解に関しては、力を入れているつもりであります。聖餐に関しての聖書の御言葉に関しての理解です。

 

11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 

だから御言葉に関連して、要するにこれは 主の命が有る意味では、主の死を告げ知らせるのですから、命が係っている様な事柄なんであります。

しかし残念ながら、裏切りが起きて来るぞ!っていう事が明らかに出て来るんであります。だから、聖餐式をどんなにその、、、、山崎のパンじゃなくって、もっと聖書的なパンを使っていても、肝心な御言葉に関してのメッセージで、神からのもので無い様なパンを食べさせている教会が、失礼ですが一杯あるんです!どっちを皆さんは選びますか?どっちがいいと思いますか?

全然違う、聖書の言っている事(趣旨)と違う様なパン(メッセージ)を、さんざん食べさせている様な教会も有るんです。それこそ裏切りなんです!だから渡される(裏切る)っていう言葉がですね、KJV聖書の英語では、{betrayed}って書いていて、使われているんです。

どっちがよいのか?裏切りの御言葉を食べる教会がいいのか?それとも、パンは山崎のパンだけれども、正式の聖餐のパンじゃないけれども、しかし裏切りじゃないメッセージを受けるのとどっちがいいのか?ヤッパリこれは、本質を選ぶべきであります。かたちさえあればいいって言う問題じゃない。また、ヒガミでいう訳じゃないけれども、会堂が有ればいいってもんじゃない。 まぁ、借りているところより、有った方がいいですけれども。しかし、優先順位ってものが有るわけであります。

 

11:27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

 

何度も言いますけれども、ここは聖餐に関して書かれていますけれども。パン=御言葉に関してのあらゆる惑わしやら、間違いやら、偽りに関しての預言的な事が書かれているんです。そんな風に読む教会何処にも無いかも知れませんけれども、しかしここは、真理であります。

で、葡萄酒は、聖霊の働きに関してのあらゆる偽り、惑わし、行き違い、曲がった事に関しての警告が書かれている箇所であります。その様に読むのが正しいんですけれども。

 

ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者と書いてありますね、で、これが皆さんを悩ませませんか?   聖餐の時、厳かな気持ちになりませんか?

「今日、、、何か今日は、チョット聖餐を受けるような、何か、、、こう、心に罪が有る様な、、だからチョット今日 聖餐式を受けたくない!」  そんな事を思った事有るって人いませんか?  なければ幸いですけれども。   わたしは、あります。あまりえばる事では無いですけれどもね!

わたしも、本当に若い時、聖餐式の時、そう思ったんですね!  これは、厳粛に受けなきゃあ!!

勿論厳粛に受けるべきであります。しかし、ヤッパリこれ、たとえ なんですね。

山崎のパンを食べる事に関して厳粛って言うんじゃなくて、これは御言葉のパンを食べる事に関しての たとえ です。 そして、ここも変な訳なんです。残念ながら日本語の訳ってですね怪しいモノが多いです!だから、それは一様 皆さん、新改訳ってそんなもんだと言う風に。新改訳だけじゃありませんけれどもね! 日本語の聖書を読む時、そういう事はある程度想定して覚えて置いて下さい。ワケの分からない訳が付いていて、そんな訳しか今は、我々は読む聖書として与えられていない。っていう事は覚えて置いて下さい。

この ふさわしくないままでパンを食べるって言うのは、 KJV訳では、違うんです。細かい事を言う様ですけれども。  {ふさわしくない方法でパンを食べたり、主の杯を飲む、}と書かれています。

何処が違うんですかって、ここは大きな差が有るんですよ!

 

言わんとしている事はですね!こう言う事なんです。同じパンを食べる(メッセージを聞く)って言う場合でも、相応しくない方法のメッセージの語り方ってあるんです。また、御言葉にふさわしいメッセージの語り方ってあるんです。それでわざわざこの様に御言葉に書かれているって事は、残念な事ですけれども、教会時代 ズーット ではないでしょうけれども、少なくとも終わりの時代で、曲がった時代に於いては、相応しくない方法でメッセージが語られる教会が多くなる。   だから、わざわざ こう言う方法で書かれているんです。あろう事か、日本では、お陰様でと言うか、聖書迄変えられていますからメッセージ以前ですよね!読んで分かりませんよね!日本語だけ読んでも分かりませんよね!聖書のいわんとしていることが、、分からない!

だから多少は英語の聖書を読むって事は、皆さんの身を助ける事になります。其の為に学校で皆さん英語を勉強されたと思うんですけれども。だから、ここでは、どういう方法で御言葉を語るか、そしてどういう方法で語られたメッセージを聞くか。って事に関して書かれているんです。

 

それは、罪になるって言う事ですよね!  だからメッセンジャーは、メッセージをしなから、罪を犯す方が有るっていう事です。だから、そういう意味では、弟子の歩みとかね、御言葉に関しての事って、厳粛に取り扱わなくてはなりません。何故ならば、何でもメッセージすればいい、、、しかも新聖書注解に従って書いたから、それを読んでメッセージしたからって罰を免れるわけでは無いんです。何故なら御言葉にふさわしく語らないと明らかに メッセンジャーは神からの罰を受けるって後の箇所で書いてあるんです。後で説明しますけれども。しかも罪っていうんですからね!罪ってこれ、、だから非常に皮肉な事になっちゃうんです。

 

毎週礼拝に集まって、そして牧師は一生懸命メッセージしているつもりなんですけれども、何のことは無い、毎週罪を犯していると神の前に言われちゃうって事は有るんです! 冗談で書いているんじゃなくて、そう書いてありませんか? 罪を犯す事になりますって、今の箇所書いていませんか!そう書いてある!

だから相応しく無い方法で語って行く。其れがまさに たとえ で言われているパンを食べる事なんですけれども。罪を犯す事になります。

 

具体的に相応しくない方法のメッセージ=(パンの食べ方)ってどういう事かって言うと。食べる事に関してですが。

こんな例がいいか、悪いか分かんないですけれども。こんな例を言うと余計分かんなくなちゃうかも知れませんけれども。

わたくしは、最近はもうテレビ見ていないんです、家のテレビ無くなちゃたんです。家の家内が処分しちゃって、持って行ってもらって、無いんで、見たくても見れないんです。まあ それはいいんですけれども、前にテレビを見た時、   (三年B組 金八先生)って言う番組を見てた事が有ったんです。

十年以上前ですかね!金八先生が何か、お土産を買ってきたんですよ。どっかへ行ってクラスの全員にね、何か最中かなんかじゃないでしょうかね。そしたらみんな喜んで食べていたかって言うと、何か悪い生徒が居るんですよ、男の子がですね、それを使ってボール投げみたい、最中を投げて、そしたら金八先生、食べる物をそんな事するな!って怒ってですね、それが相応しくない方法かどうか分かんないですけれども。食べる物を投げちゃったりとかですね、これが相応しく無い方法だと思うんですけれども。

神の御言葉に関しても、語られるべき、黙示録なら黙示録でも、マタイの福音書ならマタイの福音書でも、語られるべき相応しい方法ってあるんです。それが、その様に語られてないなら、これがまさに罪なんです。メッセンジャーの罪であり、場合によってはそのまま聞いている人の罪になるんです。

で、これが からだ に関しての罪なんです。

 

27節:からだ って言うのは、これも たとえ が使われています。主の からだ ってなんですか?  分かりますよね! これ教会の事ですね。  だから、教会に関して、、、だから教会は、訳の分からないメッセージを聞いているから教会が弱くなって、訳の分からない方向へ行っちゃうって言っているんです。そうなんですよ!

なので、レムナントはコダワリます。     相応しい御言葉がまさに語られている言葉の通り語る事にコダワッテいるんです。

だからニュースレターもコダワッテいるんです。もう四回書きました、覚えていますか?最近のニュースレターのトピック。知らないって言う人はレムナントの潜りです。四回連続しているんですけれども、何を言っているのか覚えていないとチョットそれは残念ですけれども。偽ユダヤ人の事を言っているんです。

そして、これに関して偽ユダヤ人であり、彼らが居るって言う風に黙示録は書いているんです。だから私は偽ユダヤ人はいる、終末にそういう人々が居るって書きました。それが相応しい方法であり、メッセージであると理解したんです。しかも悪魔礼拝者だって黙示録に書いてあるんです。皆さんの黙示録にはそう書いてありませんか?私のだけですか?そんな事無いですよね!

だからそう書いたんです。で、そういう風に調べて行ったらね、簡単に見つかりましたよ!今のユダヤ人ってカバラをやっている、あれは悪霊の召喚の術ですよ!タルムードはね、キリストは呪われている、あいつは、便所の糞と一緒に煮られている。って、トンでも無い事を書いているんです。ので、怒りを持ってニュースレターに書いたんです。

これは、メッセージを相応しい方法で、語ったつもりであります。何処が違っているかと言うと、怒って某教会が拒否してきました。FAXを送ってですね、、、「もうニュースレターを送って来るな!」と、腹が立ったとは書いていないですけれどもね、、、「この件について、返事もよこすな!」って書いているんです。しかも送って来た教会は、わたしの曰く付の教会なんです。わたしが若い時に行っていた教会なんです。文句言おうかと思いましたけれどもね、チョット悲しかったですけどね!  でも、相応しい方法で語らなければいけないんであります。

今の教会の中で、まぁまぁまぁ---なぁなぁなぁ---になってですね、ユダヤ人とも友好を保たなければいけない、ユダヤ人を悪く言ったらいけない。。。それは、人間的では有るかも知れませんけれども、この言葉に関しては===キリストのからだに対して、相応しくない方法で食べており、相応しくない方法で語っているんです。ので、我々は、殆ど人からの意見って気にしておりませんので、相応しい方法で語るっていう事にコダワッテいるんです。

それで、黙示録なんかも そう であります。明らかにこれは、よっぽど 鈍い人じゃない限り、黙示録の中で、クリスチャンに関しての裁きが書かれているのは、チョット たとえ を理解した人にとっては常識であります。

淫婦バビロンが、不品行の葡萄酒を飲むと言う時、その葡萄酒と言うのは、聖餐の葡萄酒と同じ言葉が使われているんであります。明らかにこれは、教会に関しての裁きであります。

葡萄が踏まれるとか、如何にも両方の足で。それは、その様に語らなければいけないんです。

だけども、来る人が減ってしまうのか、教会員のメンバーが減ってしまうのか、優しい事を言わなければ、みんな怒り出すのか分かりませんけれども。この箇所が他の教会では、相応しくない方法で語られているんです。今の時代はですね! だからわざわざ そう言う警告の事が書かれているんです。

だけども、レムナントは人数の事は気にしておりません、、、ただでも多くありませんので。。。。。

だけれども、相応しい方法で御言葉がそう語っているのに、裁きは来るぞって語っているのに、メッセージでは、裁きは無いぞって言っている、、、それは、相応しく無いんです。  だからどうぞ、この事を理解して下さい。たとえ で書いてありますからね、相応しく無い方法でパンを食べるって まさに、聖書が言っていない教理を語り、まさに聖書が文字通りには語っていない事柄をメッセージで語るって言うのは、相応しく無い方法なんです。其れって、信者は増えるかも知れませんし、教会堂も大きくなるかもしれませんけれども、明らかに自分の身に裁きをもたらす様なメッセージなんです。

だから、わたくしの自負はですね、ヤッパリ 折角 メッセージして、そしてお金も時間も掛かって、しかも儲かる仕事でも無いのにやってですね、其の上、後の日にキリストから裁きを受けたんじゃー、踏んだり蹴ったりであります。    今でも悪口言われているのにですね、だからせめて、相応しい方法で御言葉を語りたいって事は、殆どわたくしの唯一の願いであります。で、それは、皆さんの願いでもあって欲しいと思うんであります。

で、繰り返すようですけれども、その様な事が、書かれているっていう事は、何度も言いますけれども、しつこく強調するようですけれども、(相応しく無いままで)って言う訳はホントに腹が立つ訳であります。相応しくない方法で語られるメッセージって有るんです。それが残念ですけれども、今のキリスト教界に相応しいような聖書が与えられちゃっているんです。そんなもの望んでいませんからですね!本当のこと理解したいと思っていないんです。だから、「相応しくないままで」、って言う訳の分からない文章だと何の痛みも感じませんよ!相応しいものが与えられちゃっているんです。

ハッキリ言いますけれども、背教的なクリスチャンに対して。

しかし我々は、そうであってはなりません。まさに主が、御言葉で言われた事を理解し、そしてまた、御言葉を語るのならば、まさに御言葉が語っている事を語らなければいけないんです。

そして、もう一度、百回位繰り返して言うのも恐縮ですけれども、わざわざこう言う「相応しく無い方法で」て言う言葉が入っているてことは、繰り返しますけれども、必ず出て来るんです。教会の中にこう言う類のメッセージとかですね、そういう類の教会とか、又は、民衆とかね、会衆はそういうメッセージを待望しているところが出てくるんです。だからわざわざ書いてあるんです。無意味な言葉って神の御前に何も無いんです。只我々の目が盲目になっているから、それを読み見とれないだけなんです。どうぞこの事を理解していきたい、またパンだけじゃなくて、「主の杯を飲む者が有れば、」と言う様に、だから主の杯って言うけれども、違う類の霊が有るんです。だから黙示録に書いています。

 

さっき言った様にですね、淫婦バビロンが不品行の葡萄酒を飲んだって、まさに其の通りなんです。

聖餐の葡萄酒と淫婦バビロンの葡萄酒(杯)って言うのは、タイアップしているんです。関係しているんです。

第一コリントの此の11章で預言されており、そして黙示録の時代に背教の教会の中でその事は実現するんです。だから未来を語る黙示録の中で、そういう記述があるんです。その様に聖書はどちらもこちらも、関係しあっているですけれども、多くの人の目が全く開かれていないし、先入観が有るから何も理解していないんです。殆ど無意味になっているんです、折角の警告がですね!

しかし我々は理解しなければなりません。

残念な事ですけれども、主がこの様に語り、第一コリントで預言された事って言うのは、後の日に明確な形で成就しちゃうんです。だからどうぞ、我々は其の間の時代に居る者ですから、警告を受け、そして他の教会はその様な不品行の葡萄酒を飲む様になっているとしても、我々はそういう訳の分からない霊は受けない。

具体的には、トロントとかペンサコーラとかですね 悪霊的なリバイバルであります。それを受ける事の無いようにと言う事を正しく理解していきたいと言う風に思うんであります。

 

11:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

 

だから、吟味をしなければいけないって言う事です。吟味って言うのは、他のところでですね、天地の気配を知るってまぁ、文語的な言い方ですけれども、そういう箇所がありましたよね!明日は、、雲だから明日は雨だとか晴れだとかね、どうして天候の気配を悟るとかね、其れとおんなじギリシャ語の言葉が使われているんです。で、言わんとしている事は、本当に我々が吟味しなければいけないって言う事は、何を言っているのかと言うと、その語られているメッセージが本当に神から来たのか、そして確かに大教会であり、レムナントとは比べものにならないし、また、牧師も何処から見ても、紳士的でありですね、学識が有ってレムナントの牧師と比べものにならないかも知れませんけれども。しかしそう言う問題じゃ無くて、本当にそれが、神の御言葉が語っているメッセージなのか、吟味しろ!って言っているんです。

 

そうい言う意味で言うならば、自己責任なんです。過去の個々のクリスチャンがですね、わたしは教会の牧師の言う通り聞いてきましたって言ったって、結局そこにそういう風に吟味しろって書いているのですけれども、言われているメッセージを殆ど鵜呑みにしてですね、何も考えていない、吟味が無いって事は、自己責任に過ぎない、要は自分の聞きたいメッセージを聞きたいって言うだけで有ってですね他に何もないんです。

わたしは、前の教会に行っていた時にそう言っている人いましたよ、わたしより上の立場の人ですけどもね、    キリストは、艱難の前に来るか?中にくるか?後にくるか?って言った時、その人言っていましたよ! 。。。。。「何が何でも艱難前携挙説!!!」。。。。。何が何でもって、本人は感情が入っていますよね! 要するに艱難に遭いたくない、其れってなんなのか?自分の気持ちが優先していますよね!吟味も何もあったものじゃないですよね。それって違うんです。

だけども、吟味って書いて有る時に、結局自己責任であります。自分の事柄を優先しているに過ぎないんです。そういう事を理解しておいて頂きたいと思います。そうで無いと、度々言う様ですけれども、今の教会には、あらゆる種類のメッセージが来ているんです。

例えば、さっきのユダヤ人もそうですし、獣の国はヨーロッパだとかですね、または艱難前携挙説とか、これは各自吟味しろと言っている様に、あらゆる教理が許されるんです。だけれども其れを食べてお腹を壊すとか、体調が悪くなるって言うのは、各自の人々の自己責任なんです。

 

だから自分を、、、28節:ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

 

だから本当にこのパンは、食べるべきパンなのか?牧師は日本一有名な牧師である、学歴も申し分無い、それで有っても、本当にそれは聖書が語っている言葉なのか?吟味しろっていう事です。そうで無い時にそれを受けて、でもって後で騙されて永遠の滅びに入ってしまって後、こんな筈じゃ無かったって言って誰を恨むって言っても、それは繰り返しますけれども、自己責任の問題であります。

御言葉にこう書いて有るわけですからね、自分で吟味しろって。要するに本当にそうかどうか。そういう事を聖書は語っているのか、{牧師が只言いたい、何かこの、偽預言者の様にですね、人から褒められるんであります。} そう書いて有りますよね。「全ての人が褒める時あなたは災いだ」って言っているんですね。

そういう意味ではレムナントは立派なもんであります。誰からも褒められませんから、、、、、其れもまた問題ですかね、、、、

 

で、「杯を飲みなさい」 って、これは、繰り返しますが、霊的な事です。だからヤッパリこれも自己責任なんです。何度も言う様ですけれども、トロントとかペンサコーラの集会に行って変な霊を受けて。 イヒヒ って笑っている人がいますけれども。そこへ行ったのは、自分の責任です。誰かが無理やり引っ張って行ったんじゃないんです、自分で電車賃を使って、自分で歩いて行ったんです。で、自分がいいと思って霊を受けているんだから、自己責任なんです。だから、そういう意味では、杯って これは霊的な事に関しての たとえ ですけれども、受ける、受けないって事は、結局自己責任なんであります。

そういう意味では、こういう事を見ていきたいと思います。

 

11:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。

 

29節の中に書いている 裁く って言う言葉なんですけれども。これは、マタイ23章の14節の中にありますので、それをチョット見ていって頂きたいと思います。

 

マタイ23章:14節

23:14 〔忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。ですから、あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。〕

 

呪いの言葉で嫌ですけれども。律法学者パリサイ人達が、人一倍ひどい罰を受けますってこの 罰 って言う言葉を記憶して下さい。これがまさに今の第Ⅰコリントの11章29節で語られている。「その飲み食いが自分をさばくことになります。」 って言う言葉、裁くと全く同じギリシャ語の原語が使われているんです。だから、裁くって言う言い方もよくないかもしれませんね。と言うのは、だからこうですよね。

 

みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分に罰を招く事になります。そう言う風に翻訳することが出来ます。だから、ここで終始一貫しているんです。御言葉が語っていることは、何所にも矛盾はありません。只問題は、クリスチャンが たとえ を理解出来ない事であります。

だから何度もいう様ですけれども、聖餐のパンは、  山崎製パンとかですね、種入れのパンとか、そういう問題じゃなくて、これは、明らかに御言葉に関しての事であります。で、そのメッセージをどういう風に聞くか、っていう事に関連してそれ次第では、 

29節繰り返しますけれども。   「みからだをわきまえないで。」  みからだ ってこれは教会のからだ、=教会の会衆とかそういう事です。その人達の益になる、その人達の成長の為になるとか、そういう事を理解しないで、ただただみんなに受けるからと言うことで、飲み食いする、要するに人から受けるようなメッセージのみ語っていくなら、それは、その飲み食いが自分をさばく、自分に罰を招く事になるという事を言っているんです。

 

さっき読みましたように、律法学者パリサイ人は、ひどい罰を受けるって書いて有りました様に、今の時代のメッセンジャーも、今はいいかも知れません、でも後の日はどうでしょう。教会では牧師様とか、先生様とか言われて、尊敬されるかも知れません。。。。。わたしも尊敬されたいなぁと 思いますけれども。まぁ それは兎も角ですね!でもそれは、今の時代の事なんであります。今の時代にキリスト教会でチヤホヤされるとか、名前も売っていいかも知れませんけれども。それはそれだけのことで有って、しかしいずれ罰を招く事になるって言う、わたくしは其の事を恐れております。律法学者パリサイ人は、罰を招くって其のメッセージに関連して、主が言われた時、これは本当にこれは、実現するって言う事なんです。

 

その罰って恐ろしいですね! ゲヘナの子って書いて有ります。ゲヘナって燃え盛るところですよね!

地獄ですよね!だから、わたくしはこの様に理解しています。理解が正しいかどうか、わかりませんけれども、聖書的だと思います。  今の時代の新約の牧師も下手な事を喋るとゲヘナの罰を受ける!と理解しているんです。だから私はそう言う不安の中で、語っているんです!そうなんです!

 

少なくとも、イエス様の時代は、律法学者パリサイ人はハッキリとゲヘナの子と言われましたからね。イエス様が言われたなら、冗談とか脅かしでいいませんからね!で、ここで罰って書いて有ります。

 

だから、メッセージって怖いんです。その場で受けるかも知れませんけれど、それ人間の間で受けるだけであって、御言葉と違う事を喋っちゃうと、恐ろしい罰に入っちゃうんですね。だから繰り返して言いますけれども、艱難前携挙説って平気で言っている人って怖いですよね、それによって もう信者が全ての信者が艱難への備えをしなくなりますからね。諸共滅びに入って行ってしまって、艱難時代迎えられませんよね、 だから 其の事を毎週喋っているメッセンジャーって危ないですよね!

また、黙示録は明らかに教会やクリスチャンに対しての裁きを語っているのですけれども、黙示録を語りながら、其の事を言わない。または、言えない。見えないって言うことも、ヤッパリこれって裁きを招きます。だから怖いんですよ!

何でも喋ったり、または、いくら高い新聖書注解を買って来て、その通り喋ったとかね、チェーンバイブルを買って来てその通り喋った何の問題があるのか、チェーンバイブルにヨーロッパは獣の国って書いて有る。何処が違うかって、言ってそれを語ると神の前では、罰を免れない!だからそれは怖いんですよ!

 

聖餐の箇所ってこんな怖い事を書いて有るんですね。知りませんでした。今回迄知りませんでした。知らないわたしも問題ですけれども、飲み食いが自分を裁く、自分に罰を招くって言っているんです。で、この事はハッキリと理解して下さい。

わたくしは、自慢する訳では無いですけれども、御言葉に書いている以上の事は言っていません。何時も毎週脅している様ですけれども、百書いたのは百言っているんであって、三書いているのは三と言っている訳であります。それ以上の事言っているつもりは無いんです。しかし御言葉が言っている事は、語らなければいけないんです。

ここは明らかに、繰り返す様ですけれども、飲み食いが自分を裁く、自分に罰を招くんだって言っているんであります。

 

ので、飲み食いは 繰り返す様ですけれども、たとえ ですよ!

御言葉を受けメッセージを受ける、又、メッセージを語るという事ですよね。それが他でもない罰に直結してしまうと言う事です。だからこの事に関しては、恐れを持たなければいけない、しかも、皆様に関しては、明らかに曲がった時代に住んでいるんです。間違いありません!

 

世の中も曲がっていますよ。

わたしの子供の時は先生に従順でありました。もう悪い事をしてゲンコツとかで叩かれたりしてもですね、文句なんか言いません、自分が悪いんですからね、今じゃ全然逆ですよね、モンスターペアレントとか出てきてですね、体罰を加えた先生を訴えるとか、もう全く逆であります。世の中もオカシイんです。だけれどもキリスト教会もオカシクなっているんです。だからどうぞ我々は、残念な事ですけれども、その様な時代の中に有って、しかもそれでも同じ寸法で図られるので、我々は正しく正しく理解していかなければいけないって言うこういうポイントは是非覚えておいて頂きたいと言う風に思います。

 

わたしは極端な事を言っているんじゃないですよ。29節の自分をさばくって、さっき見たようにマタイ23章14節では、罰って書いて有るんで、全然御言葉とかギリシャ語と違う事言っているんじゃなくて、まさにおんなじ言葉が使われているってそれだけのことを言っているんであります。

 

30節も極め付けなんですよ。これまさに文脈の中で出てくるんですけれども、誰もこれ理解しないんです。

 

11:30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。

 

何の意味合いでこういう意味合いの言葉が出てくるのか分かりますか?

これは明らかに、ロクでも無いメッセージを受け、毎週毎週日曜日にディズニーランドへ行かないで礼拝に行っているのはいいんだけれども、ロクでも無いメッセージを望み、そういうものを聞いたクリスチャンだから、信仰的に弱い者や、霊的に病人だったり、または死んだ者ですよね、眠った者って要するに死んだ者で、だから霊的にもう死んじゃった者とか大勢居るんであります。

これは突然弱いとか眠るとか病気とか死ぬが出てくるんじゃなくって、文脈の中で出てくるんです。そうですよね、皆さん国語的に普通に読めれば分かりますよね。今までの流れの中で出てきます。

 

要するにどういうパンを食べるか、どういう葡萄酒を飲むか、たとえ で言うなら、どういうメッセージを毎週聞いているのかとか、どういうメッセージとかまた、どういう霊を毎週受けてるのか、っていう事が皆さんの健康状態に直結するんであります。だからそれはそうですよね、普通のパンでもね、何を食べるかによって違うんです。

 

私がまだ子供の時、昔ですけれどもね、{M永 ヒ素ミルク事件}っていうのがあったんです。あろうことか、子供の飲むミルクの中に ヒ素 が入っていたんですね。ヤッパリそれ飲んだ子みんな死んじゃったり、オカシクなっちゃったりしたんです。それはそうですよね毒いりですから。どんなミルクを飲むか飲まないかで子供は死ぬかも知れないし、健康を壊すかも知れないですね。

だからこれは、必然的に出てきているんです。

飲むもの、聞いているメッセージ食べるパンがロクでも無いパンだから、必然的に弱くなった病人になって死んでしまったって言っているんです。ここに何か矛盾がありますか?  突然そういう事を言っているんじゃないんです。順番に御言葉は書かれているんです。だけども、幸か不幸か今のクリスチャンは盲目に成っているんです。

 

言いたくありませんけれども、偉そうな事はですね、でもメッセンジャーも盲目に成っているんです。

これをただの聖餐の事としか言えないんです、盲目に成っているからですね。だから肝心な事を言えないんです。それは、褒められる事ではありません。明らかに主が、たとえ で語られている事って理解しなければいけません。そうじゃないと、相応しく無いメッセージになっちゃうんです。この第一コリント11章に関連して、全然訳の分からない、ポイントがずれたようなですね、聖餐式の事のパンの事しか言えない、それ以上何も言えないって言う様な全然ズレテいるんであります。しかしどうぞ理解して下さい。

我々は、どういう御言葉を受けるか受けないかで、全然全然クリスチャンの健康状態って変わって来るんです。だから訳の分かんないトロントとかペンサコーラの霊を受けている人ってもう おかしな人が来ますよ、こう言っちゃぁ悪いですけれども、悪口ばっかり言っちゃっている様ですけれども。

カトリック教会に毎週毎週行っている人って何か益々凶暴になってきている様な気がするんですけれども。その人から電話かかってきて、もう~どうなっているんでしょうかね、普通の人よりヒドイですよね、一日60回電話かけてきて、まいりましたよね、仕事になりゃしない!うちの電話の録音機能も結構な数量の録音は出来るんですけれども、それで一杯に成っちゃいましたからね、あの訳の分からないエネルギー何処から来るのか、明らかに霊的に病人です。

それは、毎週毎週そういってマリヤの霊を受けて来て、そして見事に霊的に病人に成っちゃっているんであります。そういう事であります。

 

またわたしは、艱難前携挙説を唱えている教会に暫く行ってましたけれどもね、ヤッパリ信者がヤッパリいい加減でした。。。。。。何が有ったって艱難の時に挙げられるんだから、心配する事は無いよってね、ヤッパリそうなっちゃうとこあるんですね!

我々がどんな御言葉を受けるかどうかで、健康状態が変わってきます。ですよね、だからどうぞこの事は正しく理解し、そして少なくとも我々が、メッセージとかパンを供給する立場になったならば、しかるべき事を、しかるべき様に語らないと、これって結構厳しいものがあるんですね、人からの事は恐れるには及びません。人が減ろうと増えまいとですね、弟子の歩みをしている人がみんな怒り出して、去ろうと去るまいと、そんな事は大した事じゃない。しかし、神の前に御言葉に関しての責任をチャンと果たさないとですね、ヤッパリ裁くべき方って天に居られる方ですので、ヤッパリこれは恐れなければいけません。

 

11:31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。

11:32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。

 

我々は、裁きを受けたり、または、懲らしめを受ける事が有ります。それは神が意地悪なんじゃなくて、それはこの世と共に裁かれない為に今懲らしめを受けているんであるって事を覚えて置いて下さい。

だから、神の愛は、皆さんに対して懲らしめと言う形できます。それは皆さんに益をもたらします。

 

で、何度も言いますけれどもね、わたしは中学校時代で忘れられないのはですね、わたくしめの頭を殴った先生がいるんです。今でも覚えていますが、あれはショックだったんですよね!わたしはチビでしかも近眼だから、一番前の机に座って居たんです、先生の目の前ですね、で、数学の確かあれは図形か何かの授業なんですけれどもね、今でも覚えています。

わたしには、本当に勉強する習慣が無かったんです、中学時代にね、宿題をやっていくて言う習慣も無かったんですね。小学校はそれで足りていたんですけれども、中学校はそうじゃなかったんですね、で、ダメ~ とか言われたんですけれども、あんまり宿題をやる習慣が無いから、とぼけていたんですね、でもその先生は違いました。「やって来たのか、宿題は、」って言ってね、一人ずつ聞いてくるんですよ、で、わたし一番前の席に座って居ましたからですね、前の人を見ていればね、自分にどんな事が起きるのか分かったんですけれども、一番前だったんで、自分の身に何が起きるのか分からないので、「忘れました」って平気な顔していったら、いきなり バーン って頭殴られました。ホント目から火が出る様でした。 が、  それよかったです。  それからさすがに、痛いの嫌だ!と思ったんで、忘れなくなったんです。毎週毎週キチンと宿題をやって行ったんです。わたしの人生で画期的な事でありました。そしたら成績良くなったんですね、図形は良かったですね。随分良くなったです、其のうちですね、前はよく分かんないからこの問題は分かるまで絶対手なんか上げなかったんですけれども、だんだん手を上げたりですね、前に出て解いたりとかしました。でもまあ中学校終わったら、そういう事は無くなったんですけれども。で、それは益になったんです。

 

何を言いたいのかと言うと、懲らしめって言うのは、我々の益になります。人間の先生でもその様に益になりますけれども、主は、、、、ハッキリ していなければいけないことは、皆さんのクリスチャン生活の中で、真の父は天の父のみです。父は懲らしめを持って皆さんに接するって事です。だから、皆さんは愛されていて、そして自分の目の前には正しくても、神の目の前に正しく無い時に、必ず懲らしめは来るって事です。見事なものであります。

わたしはクリスチャン生活、、、16で信じて、17歳で洗礼を受けてから、もう40年以上経っているんですけれども。証しできます。見事な方法で懲らしめが来るんです。だけど問題は、わたしの場合もそうですけれども、皆さんの場合もそうかもしれません。

頑なになって、懲らしめが有っても聞こうとしない人が余りにも多いんです。で、悪い預言者がいますよね、頑なな人、知っていますか?誰だか?  ヨナ とかもね、結構頑なですよね。

「ニネべへ行きなさい」って言われたけれど、逃げて行ったりして、で、海が荒れてね、海に投げ込まれて、魚の腹の中に三日程いて、苦しい目に会ってヤット歩みを糺したんですね。

そういう困難に遭わないとチャンと歩むべき方向に行かないんです。ヨナは決して素直とは思いませんけれども、しかし何はともあれ、彼は困難の中で悔い改めて歩むべき道に入って行ったって言うのは祝福だと思います。また他にもいますよね、預言者でバラムとかね、バラムって覚えていますか?神様はこう言ったんですけれども、でも何かもっといい事が有るかもしれない、もっと話を聞きに行こう、ああそうですか、家一杯の宝をくれる。じゃ~行きましょう。って言って行ったら、ロバが真っ直ぐ歩かないでですね、右の方に行って石の壁にぶつかって、石垣で、「いてててて、、、」と。また左の方に行ったらまた左の方の足を打ったりとかね、

で怒ってロバを叩いたんですけれども。それは たとえ であり、神様の方法です。ロバに従ってヒドイ事がおきたり、身に痛い事がおきる様に、ヤッパリ我々の身に痛い目に会うんですね、それは神様が導いておられるからです。それって行くべき方向に歩んでないからですね。だからどうぞ、そう言った懲らしめって言うのは神から来るんですけれども、問題は、我々は殆んどそれを見ないってことですね、見えるのは只災いが起きてたり、神様意地悪だって思っている事だと思います。

其れって起きるべくして起きているんですね、其れって、神様の愛によって起きている事を理解したいと言う風に思います。

 

11:33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。

11:34 空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。

 

「集まることによって、さばきを受ける」ってそんなことまで最後には書いて有ります。だから、よくよく気を付けて下さい。この第Ⅰコリント11章は、こういう言葉ばっかりです。

だから、集会やまたはパンを食べる 御言葉を聞くって事は、どんなにしたっていい事ばっかりのように思うかも知れませんけれども、それを通して災いに入るって事が有るんです。

全然御言葉と違った事をメッセージされて、それで みんなに、「うん、いぃいぃ」とか言ってですね。結局それって裁きに繋がっちゃうって事があるんです。そういう事を たとえ を通して第Ⅰコリント11章は書かれているんです。どうぞ其の事を正しく理解して、それを理解して行く時に此処を正しく読んだ事になります。