第Ⅰコリント人への手紙11章1~10  2011年10月16日

 

11: 1

私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。

 

パウロは、コリントの教会の人々に対して、わたしを見習って下さいと、言ったんですね。普通、なかなか言えない言葉ですけれども、どうですか?みなさん。

わたしを見習って下さいって、チョットおこがましくって言えない。だけども、ヤッパリ真にみなさま弟子の歩みの人は、牧会の歩みを担って、牧会されるんじゃなくって、牧会するように訓練して行ってくださって行っているように思っているんですけれども。牧会者は、この様に言っていくもんなんだ!という事は覚えておいて下さい。

 

見習う、、、英語では真似をするって書いています。

わたしが、祈りながら朝、散歩する事があるんですけれども。府中の大きな公園を通って行くとですね、やっているんですよ。何やっているかと言うと、ラジオ体操とか、太極拳--中国のラジオ体操見たいなものです。ヤッパリ居るんですね、指導する人がですね、その周りをみんなが囲んで、体操で真ん中に立っているその指導者が右手を上げると、みんなも右手を上げて、反対に間違えると、みんなも反対に手を上げちゃうだろうと思うんですけれども。それが、要は真似をすると言う事なんですけれども。

 

キリスト教の世界で、御言葉を伝える時に、パウロがここで言っている事は、言葉だけで人々に語ると言うよりも、わたしを真似をしろと言ったんであります。で、これは、聖書の中で我々が、牧会的な事だとか、人に何かを教える時に、用いられている方法なんです。結局は、人は理論とか、、、、、わたしはそんな事した事無いけど、でも 私はだいたい五分位しか祈らないけれども、でも あなたは一時間以上 でいいので祈りなさいと言われても、、、、、、実行するかと言うと。たぶん、しないだろうと思うんです。ので、我々は、好むと好まざるとにかかわらず、主がペテロに言われた様に、私の羊を飼いなさいって言われて、我々がペテロのように、主の声に応答していくならば、人間的な事を言うならば、自分の背中で人を導く。そういう事を考慮して下さい。これが、普通の事なんだ。という事を覚えて下さい。言葉だけって、無理なんですね。で、実際にわたくしも そうでありました。クリスチャン生活長いんですけれども、でも、影響を受けた人(牧師さん)っているんですけれども。結局は、その言葉(メッセージ)の事柄と言うよりも、結局その牧師さんどういうふうに歩んでいるのか?という事ですよね!それが、すごくわたくし目に影響を及ぼしました。結局どういうふうに歩んでいるかと言うとですね。朝行くんですよ、私が教会へ、牧師寝坊していないか?って。チェックしにいくわけです、五時か六時ころ行くんですよね!わたしが二十歳ごろのことです。

練馬に在る教会ですけれども、今でも覚えています。N教会って言うホーリネス系の教会へ行ったんです。そこへ行くとですね、朝五時とか六時、寒いんですよ!で、木造の教会の会堂の隅の方にですね、まだ五時か六時、暗いんだけれども、牧師が一人で居るんです。で、ストーブを前の方に置いてですね、毛布かなんかにくるまって、チャンと早天しているんです。チェックしに行ったんじゃないんです、わたしも、その頃牛乳配達しながら学校に通っていて、日曜日だけ牛乳配達休みなんですね、で、その時、いろいろ奉仕も有って、土曜日から祈祷会に行って、泊まり込んでまた日曜日の朝から奉仕についたんです。なんでそんな事したかと言うと、暇だったからです。他に何の理由もありません。誰にも何の用事もなくて、教会に行くしか他に何の用事も無かったんですね。で、朝行くと、必ず牧師さんがおりました。寒いけれども一人で居て、ぶつぶつ何か祈っているんですね。で、わたしも行ってですね、、、、朝、ヤッパリ早天行かなきゃいけない と思ってですね、他の日は牛乳配達しているんで、行けないんですけれども。日曜日には行くんですね、それでわたくしは、ヤッパリ祈りが身に付いたんであります。(ヤッパリ祈って、朝から五時頃から祈って、ヤッパリ祈っていないと、歩みって身に付かないなと思ってですね、メッセージの時だけじゃなくって、実際に朝、わたしは日曜日しかチェックしていませんでしたけれども。その牧師さん 実際に他の日にも教会に来られて勿論祈りをされているようです。)だからキチンとなされているようです。それでわたしも祈りが身に付いて来たんであります。口先だけで言われても、身に付かないって言う感じですね。なので、みなさんの生活をチェックしに来る人はいるかどうか分かりませんけれども。結局は、自分が実行しない事を人に教えるって無理です。と、わたくしも思っておりますので、私のことをチェックしに来る人はいませんけれども、でも、わたくしも実行しております。

祈ることも、御言葉を読む事も、実行しております。そう言う感じであります。だからどうぞ、聖書の方法は、この方法なんです。

わたしを見習ってください。わたしの背中を見よ!このように歩め!ていうことですね!ま、偉そうですけれども、口先だけじゃないんですね!結局だから、真に御言葉に歩んでいる人の後に、結局育っていく人というのは、牧会者が御言葉を行っていくなら自然と牧会されていく人も行っていくんであります。

自分はしないけれども、相手を上手く牧会して行こうとする、これは、チョット難しい。絶対難しいだろうと思います。そういう事は言っていないんであります。そういうことです。

 

11:2 さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。

 

伝えられたことを固く守るという事は、非常に大事なんであります。で、弟子の歩みでも何でもそうですけれども、聞いて、こういうのが弟子の歩みとして正しいんだなと聞くのは一つの事ですけれども。固く守るって言う事は、また別の事なんです。だからどうぞ、この事を覚えていて下さい。

で、わたしも、四十過ぎていましたけれども、神学生として、弟子の歩みを始めた時に、さんざん聞かされた事があるんです。それは、結局忠実な人が、主によって用いられるんです。これは固く守るということですね!

だから、聖書の他の言葉にもありますよね!  「善かつ、忠実なる僕。」  だから、忠実と言う事であります。証しの時にうまい事を、ベラベラベラベラ喋るって、それは一つの事ですけれども、それだから忠実とは限らないんです。同じことを、要するに毎日する人が忠実なんですよ!

聖書を読むと決めたら、毎日読んでいくということです、、、、、わたしも忠実になりました。何度も言うようですが、神学校に行って、最初のテストの時、恥をかいたんですね!  それは、試験の問題がユニークですからね!「あなたのクリスチャン歴---クリスチャンになって何年か、洗礼を受けて何年か、書きなさい。および、聖書通読回数を書きなさい。」それだけなんです。    一年に二回を平均とするとですね!わたし、それビックリしましたね!  よく考えたんですけど、何か、いろいろアッチコッチ、創世記も読んできたし、出エジプト記も読んできたんですけれども、通読ってよくわかんないですね!どこか抜かしているような気がするから、ほんとに正直に書こうか、どうしょうかな!しょうがないから、ゼロ回って書いたんです。クリスチャン生活二十数年ですが、みっともなかったですよね!  でもそれで悔い改めました。で、それから通読を始めました。それから随分経ってますが、三十数回通読しました。まあまあですかね! だから、恥をかいてもいいんです。その日を起点に悔い改めればいいんです。忠実に歩んで行きましょう!そうすると、だんだんだんだん見えるものが見えてきます。だから、メッセージだって突然それは無理なんです。だけど毎日毎日読んでいく中で、主が語りますし、また、祈りを続けていく中で、主が語ります。そして、ハッキリ言いますけれども、結局主の働きを担う人って明らかです。

わたくしも、そうやって四十代くらいから弟子の歩みをして、一緒にやっていた人がいますけれども、結局残った人とか、働きを担う人って結局忠実な人なんです。おんなじ事をズートやる人です。思い付いたけれども次の日には止めるとかですね、そういう人は残念ながら続かないんです。善であり、且つ、忠実と言うところがポイントなんです。だからどうぞ、忠実と言うポイントは是非見ておいて頂きたいと言う風に思います。

 

11:2 さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。

11:3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

11:4 男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。

11:5 しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。

 

ここで言わんとしている事は何かと言うとですね、今でも、カトリックとか、正教会もそうなんですけれども、私の前行っていた教会もそうなんですけれども。教会の中で、そういう習慣を持っている教会もあるんですよ!  レムナントは特にそれを特別推奨はしていませんけれども、何かこの、ベールみたいな物をかぶるという事。それは何を言わんとしているのかと言うと、形ではあるんですけれども、簡単に言えば、自分の頭の上になんか置くという事です。これは、要するに女性の場合は、自分の頭の上に権威を置くと言うことです。だから、それをキチンと捉えなさいと言う事です。

 

で、そんな事を言うとダイタイあまりよくないんですけれども。民主主義で男女平等だとか、主旨に反するって言うかもしれませんけれども。でも、我々はクリスチャンなんで、ヤッパリ聖書の方を優先していきたいと言う風に思うんです。その様に言われているっていう事は、ヤッパリ意味があるんです。聖書の中を読んできて分かる事はですね、男性と女性の特性ってやはり違うんです。それは、いろんな体力的にも男と女は違いますけれども、それと共に、エバがそうであったように、残念ながらですけれども、わたしの偏見ではないんですけれども、聖書が言っているのは、やはり女が惑わされるって書いているんですね!ので、女性が、惑わされる可能性がヤッパリある、男性に比べればですね!そういうふうに書かれている、聖書はそのように語っているという事を覚えておいてください。で、それは偏見ではないのかと言うかもしれませんけれども、わたくしが言っているんじゃなくて、聖書が言っているんです。ので、それを尊重し、その様に捉えるならば、女性の方々も、惑わしからまもられます。しかし、自分のみに信頼を置いて、独立独歩で、誰の干渉も受けないと言って歩んでゆく時に、おおいに惑わしに入っちゃう可能性が有ります。

 

で、残念ながら女性で、あぁ、惑わしに入っちゃたなぁと言う人は複数おります。ヤッパリ居るんですね、ので、どうぞ、聖書で書いている事は、冗談じゃないんですね!ヤッパリ改めておもいました。女性が惑わしに入るってホントだったんですね。ま、そうやって女の人を脅かすって言う趣旨では無いんですけれども、只、権威を認める時に、そう言った事柄から守られる可能性が大いにあるという事ですので、どうぞその辺のポイントは覚えていて下さい。

なにか、レムナントは女性蔑視じゃないのか。と そう言われちゃうかも知れませんけれども、そういうポイントであります。

 

もう一つ、ここで見て置きたいことなんですけれども。

 

11: 6

女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。

11: 7

男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。

 

髪を切るという事が、自分の上に権威を持つとか持たないという事に関して係わりが有ると聖書は書いています。 

これは、非常に象徴的なんです。旧約聖書を読んでいくと、この事は非常に象徴的だと言う風におもいます。

旧約聖書を読んでいくと、出エジプト記だったと思うんですけれども。モーセに逆らった一群の人々がいるんです。誰だかと言うと、コラ とその一味という感じなんですね。

コラ って、言葉、へブル語の意味合いはどういう意味かと言うとですね、(禿げ)、、頭に毛が無い、剃っているんですね。だから、権威に逆らう人って、頭に毛を持たないって言う意味合いが有るんです。で、他にもこの事に言及した箇所が有ります。

 

もう一つは、サムソンの記事ですよね。  サムソンて無双の非常に力のある男であります。だけど、サムソンには弱点がある。デリラと言う悪い女が居て、いろいろと言う、、、お金を貰ってサムソンの弱点を聞こうと思って、いろいろ言うんですけれども、サムソンもさすがに最初からは言わないですね。一回、二回かわすんですけれども、女がしつこいんです。最後にホントの事を言ってしまうんですけれども。

ホントの事ってわかりますか?サムソンの力の秘密。

サムソンの力の秘密って 髪の毛なんですよ!で、髪の毛を剃っちゃったんです。そしたら突然力が無くなっちゃたんです。 で、これは、象徴であり、たとえ なんです。

 

我々も、そうなんです、我々の力の事を言っているんです。我々が、霊的な力とか、神様からの助けとかが、あるんですけれども、権威に従わない時に、神からの助けとか、守りは無くなってしまうんです。サムソンはいい例なんです。其の事を示す箇所なんですよ。

だからどうぞ、我々は、正しく、、、別にこれは男、女だからという事じゃなくて、男もそうですけれども、主が言われた権威にキチンと従って行く時に、主からの守り とか 助けってあるんです。別に何でもかんでも反発していく時に力を失っていく可能性が有ります。そういう事はありますよ!

 

何時だか、理不尽な事を言われた事があったんですね。以前の教会でですけれども。

教会の偉い人がいるんですが、わたしは神学生でですね、殆ど身に覚えのない事を言われたんですね。詳しい事は言えないんですけれども。   「うちの奥さんが、あんたの事を  こう言っている   」とかいわれたんですけれども、、、、こう言っているって、こういう内容はチョット言えないんですけれども。わたくしは、全く身に覚えの無い事なので、ビックリしたんですけれども、、、、弁明したんですけれども、、、、だけど、その後示されたんです。---そうは言っても、そのように牧師の奥さんが言われているのなら、全く身に覚えは無いけれども。   一応はヤッパリ「誰とも強いて。。。努めて全ての人と和らぎなさい」と有るから、ヤッパリ牧師は権威の上ですからね、一応、何かの行き違いが有るのなら和解すればいいかなとおもったんです。殆ど身に覚え無いんですけれども、わざわざ牧師の家に電話して、、、幸い奥様が出たんですけれども、、、「これこれこう言う事を言われましたけれども、わたしは、全く身に覚えは無いんですけれども、しかし、その様に何かわたくしの方で足りないところが有ったようで、そう思わせてしまった事が有って申し訳ありません。。。。」なんであやまらなければいけないのかわからないのですが。一応あやまっておいたんですね。そしたら一応解決したんですけれども。 それはよかったかなぁと思います。殆ど身に覚えの無い事ですけれども、でもまあ、チョットその件に関しては、それを機会にスムーズに行ったんですけれども、ただまあ、一応我々は、何でもその身に覚えの無い事を謝れ、と、そういう趣旨では無いんですけれども。我々は、今言った様にサムソンみたいに、髪の毛を切っちゃうとか、権威に逆らっちゃうと、全然力を失っちゃうと言うことがあるんです。

 

また、ダビデがそうですよね!不本意なんだけれども、しかし、主からの権威を認めているということであります。

おぼえていますか? サウル王です。サウル王に追っかけられたんです、槍を持って。だけど、サウル王は主に油を注がれた人だからと言って、サウルを殺したりしないんです。

サウルが洞穴の中に入って来たんですけれども、ここはチャンスだから こいつ殺してやろうってダビデの部下が言っているんですが、いや、それはマズイと言ってですね、裾だけ切ったんですけれども。それも悪いと思って、、、ダビデは後でそんな事を言っているんですけれども、それは、人を恐れているんじゃなくて、ヤッパリ主からの権威、主が与えた権威、方法を恐れている事だとおもいますけれども。大事な方法かなと思います。ので、どうぞ、我々はヤッパリここに書いてあるように、女性に関して権威に従わないって事は、髪の毛を剃る。それってまた、剃ったら禿げで、コラになってしまうんですけれども。それは、そのまんま権威に従わないという事であって、それはロクでも無いという事になってしまいます。だから、このあたりをですね、そんなに強調する事でもないんですけれども、一応ポイントになります。それは男でも女であってもそうであります。ヤッパリそう言った事柄で、我々は真の力っていうのは、主の権威ということ。人の権威では無いんですけれども、主から与えられたことであります。

 

サウロなんて全く如何しようも無いですよね!最悪ですよね!祭司もいっぱい殺しているしですね、ダビデの後を槍を持って追っかけていく。ダビデは何も悪い事はしていないんですけれども。

でも、そのサウルが正しいって訳じゃないんですけれども、ダビデは主からの油注ぎってことを、尊重し

ていた。ということですね!だからそう言ったことはヤッパリ我々は見習う事が有るんだろうと思います。

 

11: 8

なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、

11: 9

また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。

 

ここでは、まぁこれもまた男女差別みたいな言い方で恐縮なんですけれども。

男性と女性の特性ですけれども、エバも明らかに創世記を見れば分かりますように、エバの造られた材料って よいか、わるいか、分からないですけれども、アダムの肋骨から造られたんですね!で、男の肋骨って一本少ないらしいですけれども、、、、、、{ロクでも無いものから作られたね!!!!!!}と思うかも知れないですけれども。聖書に書いてあるので、そうだとおもうんですね。

で、男が女の為に造られたんじゃなくって、女が男の為に造られた。だから、女性の基本的な役割って言うのは、こう言うと、男女差別になっちゃうかも知れませんけれども、男性を助けるところにあります。そして、それをキチンと行っていく時に、女性のいろんな特性が現われてきます。だから、何でもかんでも男を従わせるというよりも、女性が男の人を助けていく様な歩みをしていく時、本来の女性の持っておられるいろんな特質とかが発揮されていくんではないかなと思います。

それは、人間の世界においての一つの事柄であります。それと共に、たとえの意味合いが有るかなと言う風に思います。何故なら、男と女って、男はキリストを表わし、女は教会を表わすと言う風に書いています。だから、教会とキリストとの関係って言うのは、教会が有ってキリストがそれに仕えていく と言うそういう方法ではないんです。逆にキリストが有って、キリストの方法が有って、そしてそれに教会が仕えていく。それが本来のあるべき姿なんです。

だけど何でわざわざそう書いてあるのか?また、わざわざここに、パウロが、男は女の為に造られたのではなく、女が男の為に造られたって、わざわざ何度も書いていると言うと、たとえの意味合いが有るとおもうんですけれども。

世の終わりの教会になると、このあたりが逆転してくるんじゃないのか、と思うんですね!逆に教会が主になっちゃうんですね!

で、教会がよければいいと、だから、極端な例がローマカトリックです。

ヤッパリ地獄は無い方がいいって、教会は衆議一決したんです。誰も滅びに入んない方がいい。よし、あなたもそう思う。わたしもそう思う。。。衆議一決で教会がそう決めたんです。

だからローマ法皇が言っているんです。。。。教会がそう決めました。地獄って聖書に書いてあるけれども、でもそれは無い。心配することは無い!。。。。。と断言しちゃったんです。

 

これは、だから、キリストの言葉とか、聖書の言葉が主じゃなくて、女である教会の意見が先に立っているんです。これは間違いであります。

そして、プロテスタントも似たような感じなんであります。プロテスタントも聖書の言っていることよりも、自分達の都合の方がズート優先しているんです。聖書の中では、文字道理 聖書の中でキリストが書かれたことが、主の再臨の時に賢い五人の花嫁もいる、それは確かなんです。そして、花婿キリストに迎えられる花嫁がいる。これは再臨の時にキリストが受け入れるクリスチャンです。これは確かなんです。でも、それだけじゃないんです。愚かな花嫁が居て、油が無くってそして、しかも花婿にチャンと迎えられない花嫁も居るって言うのが聖書の正しくキリストが言われたことなんです。だけど教会の方でそれを拒否しているんです。。。。「だめだ!それは!許せない私たちとしては、誰もかれも平等じゃないの!、」って。女の意見ですよね、「あなたは わたしに仕えるべきで、キリストもわたしに仕えるべきで」って。男の方を従わせちゃっているんです。だから、許せないのです、それでそういう教理を無にしたんです。教会を優先したので。

だから、神の御言葉を従わせちゃっています。。。。キリストを従わせちゃっているんです。だからどんな女もブスでもなんでも、すべて花嫁として貰うべきだ!と 一方的に、キリストにあなたの選択は許されないって言っている感じなんですね!それは違うとパウロは言っているんだと思うんですね!

 

男は女の為に造られたんじゃなくって、女が男の為に造られたということですね。ので、本末転倒になっているんです、終末の教会は!!

であっても、レムナントは、そうであってはいけないとわたくしは思います。ヤッパリ、キリストの言われたことが優先なんであって、賢い花嫁は花婿に迎えられるけれども、愚かな花嫁はキリストなる花婿から知らないと言われるから、これ結婚は成立しないんです。結婚式場まで来るんだけれども、宣言に至らない、、、新郎の前で、この女の人知らないです。と言われたら、結婚は成立できますか?出来ないですよね!そう言っているんです。それが正しいんです。でも、残念ながら今は、女の都合がズート優先しているんです。

で、同じことは何度もキリストは言われているんです。何度も言うようですけれども、良い麦と毒麦のたとえで、良い麦は蔵に入るんですが、賢い花嫁とおんなじですね!だから天の御国に入るんです。でも、毒麦は集めて火で焼かれるって書いてあるんです。これって地獄の火かもしれないですね。そう書いてあるんです。それはそのまんま実行されていくとおもいます。何故なら、ヤッパリ、キリストの言われている事が優先しますからね!だけど今の女が主体になって、かかあ天下じゃないんですけれども、その様になっている教会においては、許されない、そんな事を言うと異端になってしまうんですね。クリスチャンが裁かれるという事を言うと!

レムナントで言っている事を、他の教会で言うと異端になちゃうんですよ!このなか(レムナント)では許されるんですけれども!

だけどそれは、本末転倒なんです。「男が女の為に仕えているんじゃない。だから、女の考えが優先じゃないんです-----{ヤッパリ教会の教えが優先では無いんです!}---

キリストがこの様に語られた事は優先されるし、またそれは実行されるんです。ので、どうぞこのポイントは覚えていてください。わざわざこう書いている。第一義的には、男女の関係に関して書いている。また、たとえの意味合いとしては、キリストと教会の間の事が書いているのですけれども、残念ながら今は、女の意見がグァーっと強いんですね!男を従わせちゃう!「わたくしがセレブに成りたいんだから、其の為に男は貢がなければいけない!」。。。。。そう言われても、、、、、

 

11:10

ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。

 

権威のしるしってなにかを頭にかぶるんでしょうけれども。

 

其れと共に書いてある事は、何故だか分かんないですけれども、男と女の事が書いてある中に、突然、御使いの事が出てくるんです。これをどういう風に理解しますか?

わたくしは、こういう風に理解しますね。それは、御使いに模範を示すんです。何で御使いに模範を示すかと言うと、御使いは言う事を聞かないんです。。。権威に逆らっているんです。サタンが御使いの頭であり。(トップ)であるサタンがそうですよね!サタンって逆らう者です。全然権威に従わないんです。だから、そういう意味合いで言うと、女性のクリスチャンが特に従う事によって、要するに、人間と御使いとの位置関係って逆転してくるということ。明らかにこの事を聖書が語っているんです。

御使いと人の事を書いているところがあるんですけれども、聖書の中でハッキリとは明示されてはいないんですけれども、これは奥義に係わる事なんですけれども。

聖書の中で度々書かれていることは、御使いと人間との関係、を暗示していることは、御使いと人間とどっちが能力が上かって言うと、明らかに御使いです。人間って百歳くらいしか生きていないですけれども、御使いなんて昔からいます。サタンなんか昔から居ますよ。で、アッチコッチ飛び回って、ヨブの時に神様が聞いたら。。。。お前はどうして来たんだ。。。。「わたしは、アッチコッチ地を行き巡ったんですと。」---いいですよね!飛行機も使わないでアッチコッチ行き巡るんですから。能力抜群です。人間みたいに制限されていない。。明らかに能力が高いんです。

でも、ヤッパリ明らかに聖書が暗示している事は、御使いと人間との位置関係が逆転するんです。だから人に関して、神は目を留めて、そしてイエス・キリストは人としてこの世に来られ、そして人を助ける為に来られたんです。これは位置関係が逆転するんです。そういう意味合いで女性のクリスチャンの従いって言うのはヤッパリ大きなキーポイントになってくるかと思うんですね。御使いとの間が逆転してしまいます。

で、この様な事を暗示するような箇所が へブル書2章5節です。

 

へブル書2章5節:

神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。

 

後の世って。だからこれから我々は後の世に入るんですけれども、天の御国とか、それは御使い達が権威を持ったり、御使い達がリードするんじゃないんです。

 

2:6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。

2:7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、

2:8 万物をその足の下に従わせられました。」

 

だから、人間が、本来御使いが取るべき位置に人間がとって代わるという事なんです。だから、逆転するんです。これは明示されていないけれども、奥義に関する箇所です。で、それに関する事はいろいろあるんです。それを暗示するような箇所が、いっぱい聖書に出てくるんです。

何度も言いますように、兄が弟に仕えるって言う箇所はみんなそうなんです。

そういう聖書の箇所って沢山有りますよね。例えば、最初の兄弟、カイン と アベル もそうです。カインは兄なんだけれども、弟の捧げ物の方が神に喜ばれたのです。

 

エソウ と ヤコブ もそうです。兄のエソウは弟に仕えるということですよね。こんなことが沢山有ります

 

最初の王様もそうですね。サウル王とダビデ王も位置関係が逆転するんです。そして、女性の中でも、こういう位置関係が逆転するようなことを書いてあるところがあるんです。何処だかわかりますか?

 

これは、私の理解ではエステル書だと思います。エステル書の中で、エステルと言う女性がその当時の国の王様である、アハシェロス王様のお妃になるんですけれども、エステルは最初の王妃ではないんですね、その前に奥さんが居たんです。ワシティが居たんです。エステル記を読んでいると分かるとおもうんですけれども。ワシティは言う事を聞かないんです。美人だから連れてきてみんなの前に見せようと思ったんですけれども、行かない。、、、わたし行かない。、、、何かよっぽど気に障った事が有ったのか分かんないですけれども、行かない。それで王様は頭抱えてしまって、どうしたらいいのかって、みんなに相談したんです。で、じゃー ワシティは止めて別の女の人を奥さんにしたらどうか?とそういう意見が有って、その候補者の一人がエステルさんだったんですけれども、そこで選ばれたのはエステルさんですね。これは私の理解では、兄が弟に仕えると言う事の。一つの女性のパターンではないのかとおもいます。これも其の事を語っている箇所だと思います。

で、その様にして逆転してゆくということだと思うんですけれども。ポイントは御使いは従わなかったけれども、しかし、我々が忠実な歩みの中で権威をキチンと尊重して歩む中で、御使いと人との歩みは、逆転していくと言う事であります。

この様な事柄で、わざわざ御使いの為だという事が書いてあります。それに関連して言いたい事が有るんですけれども、その様に、世の終わりになると、御使いと人間との逆転が起きてきます。そして じゃー 御使いの頭のサタンとかは そのまんま おめおめと逆転されてニコニコしてよかったね と握手するかと言うと、そうじゃないんです。ので、逆に腹を立てて、怒りを持ってあらゆる方法で人を惑わす。それが終末なんです。だから、終末の時(黙示録の時)って言うのは、御使いの妬みとか、怒りとか、歯ぎしりとか、いろいろ悪い画策とか、そういう事がいろいろと起こって来るのは、世の終わりなんです。だから、黙示録の中を見ると 嫌と言う程 御使いという言葉が出てくるんです。そして黙示録に出てくる御使いってですね、良い事をあんまりしていないんですよ!悪い事をいっぱいしているんですよ!災いは、いろいろ起こしているんです。何故かって言うと、一つはヤッパリ妬みとか、怒りとかですね、何とかして人間を滅ぼしてやりたいってそういう思いもあるんです。だからそう言う時なんだという事を覚えていて下さい。

御使いって必ずしも好い動機でばかりじゃなくて、行動しているということですね。

 

沢山そういう箇所ありますけれども。

一つだけ見てみましょうか!    黙示録に出てくる御使いって大きくいろんな災いを下すんですけれども。

 

黙示録8章6節~

8:6 すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。

8:7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。

 

燃えるとか、焼けるとは、霊的な事の災いだと思います。災いが地に落ちて来るということであります。

 

また、

 

8:8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。

 

火とか、血となったとか、これは霊的な災いだと思います。

 

8:9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。

 

死ぬっていう事ですから、霊的な死を迎えるっていう事ですね。だから あらゆるかたちの御使いを通しての災いが起きてくるのは、前も言いましたけれども、黙示録の時代なんです。でこれは、何度も言いますけれども、今までの教会時代に起きていた人間レベルの災いとは違うんです。御使いレベルのものなんですね!なので、非常に特殊なものであります。今までの常識が通用しないんですね。のでどうぞ、我々は、その様な特殊な時代に居るという事を覚えておいてください。

一つは、世の終わりになるんで、その時ってある意味では、神の目から見ると、背教の教会への裁きなんです。それと符合して、御使いがいろんなそう言った人間に対してのあらゆる妬みとか、怒りとか、憤りとか、憎しみとか、そう言ったものが ズーと 爆発していろいろ災いを下すことを許されちゃう時なんですね。洪水が許される時なんであります。そういう特殊な時なんです。

それはまた、もう一度繰り返しますけれども、クリスチャンとか、教会の背教に対して神が怒りを発する時でもあるんです。

そういう事は、いろいろ マッチ している。ので、今までのレベルで物事を考えてはいけません。そう言った レベル なんですね。でもその中でも残るべき人、忠実な人はヤッパリ残っていくんじゃないのかとおもいます。

そうではあっても、多くの人はヤッパリ巻き込まれたり、惑わされたりする時なんです。だから ノアの時、ロトの時だと言っているんです。

ノアの時と言うのは、大洪水が起きて、僅か一家族、ノアの家族 8人しか残らない、あとはみんな滅ぼされてしまった。それはノアの時です。

ロトの時って言うのは、ソドム&ゴモラに沢山の人が居たでしょうけれども、ロトの家族のほんの 3人しか残らないで、あとの人はみんな滅ぼされてしまったって言うのが、ロトの時なんです。だから、少数なんですね!

そういう意味で、あらゆる災いが来るような時である。そういう時を我々は迎えようとしているので、どうぞ益々、今のコリントの手紙で書かれた様に、正しく 主の言葉を行い、そしてその中で、忠実に歩んでゆくならば、しかしその様な災いが来たとしても、主の特別な恵みの中で守られていくという事を見ていきたいと思います。