第Ⅰコリント人への手紙12章11~21  2011年11月20日

 

12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

 

同じ御霊なんですけれども、賜物は違うって言う事ですね、だから教会の中で、それぞれ違う賜物が在って当然なんですね。

で、町にもいろんな職業が有ります様に。大工さんもあるし、魚やさんもあるし、八百屋さんもありまして、それぞれ必要に応じて働きがありますように、教会も同じ御霊だけれども賜物が分かれているんですね。

 

12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

 

だから一つのからだの中に、、、からだは一つなんだけれども、いろんな器官が有って働きが違うと言う事ですね。で、耳も有るし、目も有るという事です。

これは、レムナント教会と言う一つの教会に関してもそうですし、または場合によっては、日本全体の教会をですね、一つのキリストの身体と言う風に考えるなら、その中でも、それぞれの個々の働き、属している教会の個々の働きが異なっていたり、働きや召しが異なっていると言う風にそんな風にも感じます。

で、教会と言う比べをするならば、自分のとこを言うのもなんですけれども、レムナント教会の召しは、他の教会とはチョット違います。それは、何度も言う様ですけれども、終末に関しての明らかに召しがレムナントに与えられている様に思います。そしてだから、レムナントは他の事はそんなに飛びぬけているとはとても思えないんですけれども、飛び抜けたいんですけれども。現実は、みんながみんなそんなに、素晴らしい訳では無いんですけれども。海外伝道だとか、伝道とかそんなにすぐれている教会とは思いませんけれども、

しかし終末の事に関しては、明らかにセミナー等を通しても、ヤッパリ レムナントに示されているなっていう事は思います。セミナーを開いても、または、ニュースレターを書いても、本を主版してもヤッパリ、思います。で、そういう意味合いで、でもこれって日本全体の教会を考えるならば、ヤッパリ レムナントもそのうちの一つの身体の一部じゃないのかなっていう風に思わされます。

で、何を言っているのかって言うと、レムナントは自分の処でいろんな終末の召しを示されているから凄いぞと、自分の処だけ分離して他の教会と区分して考えるんじゃ無くって、ヤッパリ 其のうちの一部なんだと。他の教会は他の教会で頭の部分とかね、いろんな他の所を携わっているところが在るかも知れないけれども、我々は其の中で、こう言った終末の預言とか、啓示だとか、警告だとか、そう言った部分を担っている器官ではないのか?っていう風に思わされています。

 

だから、今やっているのは、自分の教会の身に、、、、身丈に応じ無いんですけれどもね、、、、基本的には、日本全国を目指してですね、、働きをしています。でインターネットでね、「エレミヤの部屋」もそれこそ日本全国いろんな教会の方が見られます。北は北海道から南は沖縄まで、いろんなレスポンスが有りますし、また外国からもレスポンスが有ります。またはニュースレターもですね、こんだけの教会なんですけれども、千百部位出しています。もっと出したいと思っています。。。。お金が有ればですね。

で其れは何故かって言うと、基本的には我々の働きの範囲は自分のとこだけと思って無い訳ですね。

自分のとこの教会だったらね、10人か20人か50人位送れば、それで良いのです。だいたい知り合いに送り付けちゃうんですけれども。そう言う問題じゃないんですね。だからそういう意味で我々は、日本全体を体と考えその中の一つの器官として自分の果たすべきポイントを果たしていきたいと言う風に思います。

だから、終末の召しっていう事に関しては、自分の教会だけ分かればいいと、他の教会は分からないから全部部外者だ。とか、そうでは無いんですね、基本的には、それはヤッパリ、パウロが言いました様にですね、「この福音は、自分にゆだねられているんだ!」って言う様なかたちで、警告もヤッパリ委ねられているんです。だから、日本全体を視野にして行なっています。しかし、聞く聞かないは別々であります。一生懸命セミナーを開いても、来ないのは仕方ないんですけれども、しかし門戸は開いていきたいと。そして、誰でも来られるような、門戸は開いておいてですね、そして語って行くと言う感じであります。

ので、そう言った事柄を示されます。で、他に今のところはですよ、今の処他の教会を見渡しても明確にこんな形で終末の事を示されてる教会はあんまり無い様だ。だったらヤッパリ我々はそういう器官なんではないかなあと思います。

だからどうぞ、我々も他の教会からいろいろな恵みを受けているかも知れませんけれども、教会で身体全体の一部としてですね、全体はある意味ではいろんな器官が支えていますよね、腎臓とか肝臓もそうですよね、腎臓とか肝臓は孤立した一つの器官じゃなくて、身体全体を司っている訳ですよね、で、同じ様に我々も大袈裟に言えば、日本のキリスト教会全体の中で、警告って言う部分を負っているんではないのかと、思っています。そういっても、まあたぶん他の教会に聞いても誰も同調してくれないとかですね、ありそうです。「お前とこの 思い過ごしだ。」と言われてしまうかも知れないですけれども。でも、主の前に担っているんではないのかなあと言う風に思います。どうぞ、そう言ったポイントもですね是非見ておいて頂けたらと言う風に思います。

 

12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

 

「ユダヤ人もギリシャ人も奴隷も自由人も一つのからだとなるように。」

だから、いろいろ区分は有るけれども、でも受けている霊は同じ御霊なんですね!

御霊を飲む者って、御霊を飲む者ってあるか?って思うかも知れませんけれども、それは葡萄酒のたとえです。だから聖霊は葡萄酒にたとえられますけれども、だから飲むっていう事に関してのことばは、霊に関する事なんです。

一つ見たい事は、奴隷も自由人も、って言う言葉が書いて有ります。で、今の時代、奴隷は基本的にありませんよね、よっぽど別の国に行けば有るのかも知れませんけれど、日本には奴隷制度って無いですよね、アメリカでも無いですけれども。

奴隷って たとえ の意味あいが在るんです。それは、自由って言うのは罪から自由って言っているんです。また、奴隷って言うのは、罪の奴隷って言う たとえ の意味合いが有るんです。だから意味合いとしては、聖霊を御霊を受けているけれども、それによって(御霊にあって)自由を受けている人も居る。罪から自由になる人も居るっていう事です。でも反面それだけじゃ無いんですね。

ヤッパリ御霊は受けているんだけれども、でも相変わらず罪の奴隷になっているって人も居るんですね!

それはよくないんであります、よくないんですね!でもヤッパリ御霊は受けているって感じですね、だから御霊と葛藤が有ったりするんですね。

でもまあ、其の御霊は罪から解放される為に、自由になる為に、与えられたって事は一つであります。

 

でもう一つは、今言いました様に、それぞれユダヤ人とかギリシャ人とか奴隷とか自由人とかいろいろ分かれているけれども、その飲む御霊は一つだ!って言う事であります。

で、だから、飲み物が違う訳では無いっていう事であります。

で、わたくしは、えーと、店の特定の名前を言うと好いか悪いか分からないですけれども。どきどき

サイザリヤとか行きます。時々その店に行くとですね、ドリンクバーが有るんですよね、で、コーヒーもありますし、紅茶もありますし、アップルティーもあるんですね、

で、一人はコーヒーとか飲むかも知れませんし、又他の人はアップルティーとか飲むかも知れませんね。だから飲むって言っても、飲んで、「今日のは苦いね!」とか言っても、その人はコーヒーを飲んでいるけれども、隣の人はアップルティー飲んでるかも知れないから。「いや、苦くないけど。」とか言って

違うことがあります。

 

飲んでいるものが違うと言っている事が違うし、味も違うんですね!飲み物が違う様に。    だから同じ様な味をお互い受けている訳では無い!

同じ時間飲んでもですね、その日、濃いコーヒーを飲むとですね、眠れなかったりするんですね。私はあるんですね、サイザリヤで飲んで、夜眠れない!「おかしいな~、、、昨日も一昨日もコーヒー飲んだけど、そもそも眠れなくなるって事無いのに、何で今日眠れないんだろう?」って思って。。。。。三杯位!そう言えば飲んだから!  「あぁ~結構きくなぁ~」、、明け方位まで殆ど眠れないでですね、それから、サイザリヤのコーヒーは結構キツイって事が分かったので、気を付けないと!!  

最近は飲まないんですけれども。  まぁ、それはわたくしがコーヒー飲んだのであって、他の人が他のものを飲んでいれば、、、、ジャスミンティーとか飲んでいれば、眠くならないかも知れません。飲む物が違うと結果が違うんですね、でも同じ御霊なんで、同じ事を教えられます。

同じコーヒーを飲んでね、同じ様にみんな眠れなくなったりします様に、同じ結果をもたらします。

 

何を言いたいのかと言うと、例えば、黙示録セミナーを開きます。一生懸命我々はセミナーを開くんであります。そしてそこの中で、聖霊が働いて、そして折角来られた方々が、遠い府中までですね、今回来られた人はですね、そんなに多くないけれども、遠くから来る人は、群馬ですね。  来られて、泊りがけで来られたりとか、日帰りか分かりませんけれども。群馬は結構遠いんですよね。そこから来られた。

で、そういう方が、聖霊によって終末に関して、特に今回は、アメリカのさっきの証しに有った様な、収容所の事とか、丁度写真も入手しましたんで、そう言った事も含めていろいろ説明したんです。で、同じ我々が、聖霊によって教えられている危機感だとか、終末に関しての促しだとかを、なんとか理解いただけるようにって祈って、みんなで準備して、証ししたり、奉仕したり、そして、セミナーを開いて話したつもりなんですけれども。そしたら感想を見て分かりましたね、「ヤッパリ我々が持っている様な、そう言う危機感をですね、出席された方も同じ様に理解されたんだなぁーってね。」      人数は多くないんですけれども、分かって下さったなぁ、って言うような感想を受けました。

 

で、その時思う事は、説得、、言葉の説得って言う事もありますけれども、要は  {聖霊}!!! なんですね。 同じ御霊を受けて、そして同じ御霊がその人に語るって言う事を、そして、その様に御霊が警告を語って下さって、それをその同じクリスチャンが聖霊にあって理解するって言う事が非常に大事なんですね、で、そういう事がポイントであると言う風に思います。

だからそう言う意味では、セミナーの会場に於いては、同じ御霊から、それぞれ立場とか教会とか性別も場所も違うんですけれども、でも同じ御霊から飲んで、そして同じ理解をしたんだ!と言う風に思うんですね。で、これが大事なんであります。だからどうぞ、聖霊が働いて下さって、そして、同じ事柄が、まさに終末に関しての真実をですね、多くの方が理解するように求めて行きたいと言う風に思います。

その時に、来られた方がですね、見るべき事を見るんじゃないかと、言う風に思います。

 

12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

 

15節:足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

 

何かこう、足がすねている様に見えますよね。 手と足、どっちが良いのか?

わたしも、そんな風に御言葉に書いて有るんだから、人間の手と足と比べるってそんな事そもそも、した事ありませんけれども、改めてここをメッセージするんだから、考えて見たんですね、「手と足とどっちが華々しいんだろうなぁ。」と思ったんですけれども。

自分が手であったり、足であったりと思うんですけれども。  

 

ダイタイ手の方が、華々しいですよね。  音楽のオーケストラとかね、タクトを振る人が居るじゃないですか。指揮者。小澤征爾とかね、カラヤンとか、名前しか知らないのに  すいません クラッシックを聞きに行ったって殆ど、一回か二回ぐらいしか無いんですけれどもね。  でもヤッパリ指揮者は目立ちますよね。

他の人はそうじゃなくてもですね、かっこいいな!とかね、かたちだけでも目立つんですけれども。で、ヤッパリでも、目立つのは手で振っているからですね、手の部分は目立つんであります。で、他でもそうですよね、手が目立ちます。例えば、ボーリングでね、ボールを投げてストライクを取ったって。結局手が上手くボールを投げるわけです。足は何でしょう、足は殆んど注目していないと思いますけれども。。。。転んだりすれば別ですけれども。普通あんまり見ていないですよね。

どういう風に投げたとかね、投げ方旨いとか、ストライクだとか、そんな事ですかね。

ヤッパリ手の方が注目されちゃうと言う風に思います。目立ちますので。

 

他でもですね、わたしの親戚でですね、義理のお兄さんが居ます。Kさんって言うんですけれども。ハンサムな人でですね。この間、正月に和服着て来たんです。   よく似合うんです。

 

わたしより幾つか年上なんですけれども。 その人が手が器用なんです。手品が上手いんですね、結婚式の時とか手品をするんですよ。 で、上手いなぁ。とか思って。わたしの結婚式にもやってくれましたけれども、覚えています。手品を見せてくれるんですよね。 で其の上手い手品の終わった後ね、「本日は、おめでとうございます。Yさん。Kさん」とか、結婚式に、そんな風に言われているんですけれども。ヤッパリでも、手品はどうしても手でやりますよね、足じゃないですよね。だから、そういう意味で、足と手がもし比べられれば、足の方がひがんじゃうのかも知れません。

 

それに奉仕に関連しても、ヤッパリ目立つ奉仕って有りますよね、メッセージする人は目立つかも知れませんし、又、賛美で独唱とかすると目立つかも知れませんけれども。でもそれを以て、手では無いから身体に属さないって言ったところで、そんな事で身体に属さなくなる訳ではありません。

ヤッパリ足見たいな奉仕とかね、土台をすえている様な奉仕とか言う目立たない奉仕ってあるんですね。でもそれを以てもヤッパリこれも、身体の大事な部分だと言う風に思います。

 

で、わたしも随分そういう奉仕をしておりました。全然手じゃない。絶対目立たないぞ!って言う奉仕をですね、神学校時代 ズーット やっていました。メインの奉仕は何かって言うと荷物運びです。

神学生は、女の人は多いんですけれども、男は少ないんですね、わたしと似たような四十男 二人でですね、一人が私の友達だったんですね、バイブルネームが エリシャさんって言うんですけれども、チョット男性の数が心細かったですね。で、彼と二人でですね、だいたい礼拝の前に、日曜日なんか、だいたい彼と二人で朝8時半ごろ行ってですね、荷物を上げるんですよ。

 

その場合、、レムナントみたいにチョット台車で持ってくる荷物じゃないんですよ! ワゴン車一杯ぐらいで、も~キーボードからですね、スピーカーから全部、しかもそこは、エレベーターも無い所をですね、男二人で上げて、全部セッティングするんですね。殆どそういう奉仕ばっかりだったんです。で、目立つ奉仕の人は別途いるんですけれども、我々は、そんな事をやっておりました。

 

そんな様な奉仕が多かったんですけれども、でも結局それが教会を支えておりましたし、またそれを通して、、まあ勿論セッティングされなければね、メッセーージも何もないもんですから、それを通して教会の運営がなされていますし、またその中で教会のメッセージだとか、働きの中で多く救われたり、癒されたり、また恵みを受けたりする人が居るわけですね。だから、我々も立派なメッセージはその時は出来ておりませんでしたけれども、しかし我々が一生懸命運んだ椅子だとかですね、一生懸命掃除した部屋でみんなメッセージを聞いた訳ですから、そう言う意味では、足ではありますけれども、でも十分に奉仕しているわけですね。

だから、レムナントは、こんな小さな教会ですけれども、ヤッパリ目立つ奉仕も有るかも知れませんし、目立たない奉仕も有るかも知れませんけども、でも、足は自分は手では無いから、身体に属さない。ってそういう事は無いんです。

ヤッパリそれぞれの奉仕を通して、教会が成り立ち、それを通して教会全体としてなすべき働きがなされて行くと言うポイントは是非見ておいて頂きたいと言う風に思います。

 

12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

 

だから主の御心の中でですね、それぞれの奉仕が有るって言う事です。だから御心に従ってって事は、要するに  神様がこの教会の中で、この人にはこういう召し、働きとかですね、まあ手の働き。

この人には、足の働きとか、この人には目の働きとか、鼻の働きとかあるんですね。だから小さな教会であってもヤッパリ当然 器官が異なっているって言う事ですね。そういう事であります。

 

確かにこれって本当だろうと言う風に思います。レムナントは小さな教会なんですけれども、でも、来られている人達 みんながみんな同じ器官としての働きをなしてる訳じゃないんですね、ヤッパリそれぞれ違います。だから、Mさんみたいに黙示録セミナーの責任を持って下さったり、セッティングだとかですね、具体的な事を土台に持って下さる方も居ますし、また、さっきの姉妹の証しみたいに、他の人に警告を伝えたり、または、S姉妹の場合は、霊的な賜物も有って、時々夢を見られるんですね。で、それがすごく教えられます。

いろいろイエス様が教えられる。正直羨ましいと思います。

わたくし、夢見ないんですけれども、ヤッパリそれは必要な奉仕です。

それぞれの方にとっては、わりと普通に自分にとっては、普通の事かも知れないですけれども。結構他の人にとっては、難しかったり、または、その人なりではの奉仕っていろいろ有るとおもうんですね。

だから、それらを通して教会って成り立って行くんではないかなと思います。

 

だから、この言葉は事実なんです。

 

12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

 

それぞれ必要な器官を、神様は、小さな教会であっても、目は必要と思えばどっかに有るんです。また、手は必要と神様は思っておられれば、手はどっかに有るんです。また、鼻が必要と思えば、鼻で嗅ぐと言う様な器官ってあるんですね。 だから、それぞれ誰が具体的にどういう働きを担っているのか、わたしもよく分かりません。レムナントの中での事は。でもそれは、神様の御心に従ってそれを備えて下さったって言う器官はヤッパリ有るんだろうと思います。また足りない部分はね、神様の御心の中で与えて下さるんじゃないだろうかと思います。

だからどうぞ、基本は、主は、御心の中で我々にそう言った事柄を与えて下さる。という事をですね、是非見ていって頂きたいと言う風に思います。

 

12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

 

全部が一つの器官と言う訳では無い、だから みんながみんなメッセンジャーだと言うわけでは無いし。また、みんながみんなですね、奏楽者じゃない、みんながみんな預言の賜物って言うわけでは無いっていうんですね。で、そうじゃ無くって、「器官は多く有る。」だからそれぞれの器官が多く有って、それを以て教会全体を支えていくっていう事が、必要な事柄なんです。

 

12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。

 

だから、人間的な考えで、他の働きの人をですね、あの人は必要ないって言う事は、出来ないっていう事ですね。  これって、神様の範囲とか、判断の中に有りますので、、、、で、それ結構見えるところをね、そんなに大した奉仕をしていないと思える人が実は大事な事だったりしますよね。

 

其の後の箇所に書いていますよね、

 

12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

 

だからどうぞ、我々は、{「あなたは必要としない。」と言うことも出来ません。}って言うんで。人間的な考えで持ってですね、あの人は教会で必要とか、不要とかそう言った事も勝手に考えちゃいけないって言うそういうポイントも是非見ておいて頂きたいと言う風に思います。