Ⅰコリント人への手紙15章 2012.1.1,1.8,1.15,1.22,1,29,2.5

 

15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。

福音:良い知らせ

私たちは福音によって立ち、まともな歩みに入る

目には見えない、しかし、それを受け入れ正しく立ち、後の世に永遠の報いを受ける

 

15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

福音を聞いて、きちんと保つか否かによって救いをうけるかどうかが変わってくる

クリスチャンになることを救いという キリストを信じる=救い、いのちを救う

滅び、火の池から救われる

    いのちの書に名の記されていない人は入る

福音のことばをきちんと保っていかなければ救われない

kjv:空しく信じる、意味の無い信じ方はNGという意味合いでこの箇所は書かれている

もどきにならないように気を付ける

Ex:サルデスの教会

参照 黙示録3:4

3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

本当に救われているならいのちの書に名が記されている(ちゃんと信じている人)

サルデスは全般として失敗している教会

1,2節を読むと分かるようにプロテスタントだからといって誉められない

参照 黙示録3:1,2

3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

死んでいるとか死にかけているとは、罪にまみれているということ

サルデスは名が消される可能性が大いにある

天の家を継がない人が多いことを言われている

参照 黙示録3:3

3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

悔い改めが必要

サルデス全般が罪に入っているから

4節の「幾人」という言葉に語りかけがある、これは、多くはないという意味合い

もし、典型的なプロテスタントの信者なら、方向転換しないと、火の池に入る

プロテスタントは再臨の理解を間違えている

例外的な歩みをする、正しい歩みが出来るように祈り求める

Ⅰコリント人への手紙に戻ります

意味の無い信じかたでないなら、救われる

正しく正しく福音を信じて生かしていく

 

15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

キリストは私たちの罪のからだが滅んで死に至るために死なれた

キリストの死が歩みの中で体験されているかどうかが問題

キリストの死が身についていないなら危ない

本質的に自分の罪が死に渡されることがポイント

形だけではダメ

 

15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、

よみがえりを経験する

参照 ローマ人への手紙8:10,11

8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

私たちが死()から今の時代によみがえるため

罪や死から生き返る

今、クリスチャン生活で経験することがポイント

その経験がないと、いのちが危ない

 

15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

キリストの復活は現実

 

15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

これはまぎれもない事実

パウロはマイナスのスタート、しかし、それも良いように用いられた

生涯消えない傷があった、しかし、これは神の配慮

すべて益としてくださる

欠点が無ければ高ぶっていた

 

15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

神の恵みによって今の自分になった、つくりかえられた

パウロは沢山の働きを与えられた、それは神の恵み

神の恵みを無にしなければ神の働きを担っていく

働きを用いていくときに無駄にならず、栄光をあらわす

恵みは自分から出るものではなく、神からのもの

自分自身を捧げて仕えていく

 

15:11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。

クリスチャンの信仰の大事な部分

罪の贖い、復活、救いのこと、これらは基本的なこと

 

15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

福音の中で、よみがえりのことがテーマになる

 

15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。

15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

キリストがよみがえったことが信仰の本質の大事な部分

よみがえりに関してたとえがある

   肉体のよみがえり

   霊的、罪の事柄→ポイントはこっち

罪とか死に関して言われている、しかし、このことはあまり言われない

以外とクリスチャンがよみがえりをろくに信じていない

よみがえりを信じることは大事、イエス様は信じないことを叱責された

参照 ヨハネ11:21-27

11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」

11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」

11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

ラザロの復活

言葉の上ではマルタはイエスが何でも出来ると信じていた

しかし、真の意味合いで信じていなかった

参照 ヨハネ11:32,33

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、

不信仰に対してイエスは動揺し、憤った

参照ヨハネ11:37,38

11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。

11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。

ここでも不信仰に対して憤っている

文字通りの生き返り、よみがえりではない

霊的に罪からのよみがえりを体験しなければいけない

多くのクリスチャンは死者のよみがえりを信じない

罪の中に死んでいても、よみがえるというのが主のメッセージ

不信仰に対して憤っている

ここは大きなポイント

不信仰に主が憤りを覚える

Ⅰコリント人への手紙に戻ります

死人の復活を信じない人がいるということをパウロは言っている

クリスチャンであっても勘違いをし、よみがえりについての本質的なものを理解していない人がいる

 

15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。

復活が無いなら空しい

死者:私たちのこと

罪の中に死んだ者がよみがえる

 

15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

今の時点で罪の中に死んでいても義によってよみがえる

 

15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

キリストがよみがえったためにその根拠として的外れから解放されていく

私たちも罪から解放されていく

 

15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。

「滅ぶ」という言葉を原語で見てみましょう

参照 マタイ5:30

5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

「失う」ということが「滅びる」という意味合い

滅ぶことと「ゲヘナ」は関係している

滅びないためには、キリストがよみがえられたことに関係がある、救いやゲヘナへ行かない唯一の根拠

死者の復活を体験しないと滅んでしまう

死者の復活を聖書で言われている意味合いで信じられるように祈り求める

これは非常に大事なこと

単にキリストがよみがえったことを他人事のように言うのではなく、よみがえりを体得する

このことを聖霊にあって理解する

よみがえりに関して空しく信じてはダメ

福音のポイントは「よみがえり、死者の復活」にある

これを信じないと、罪からの解放、ゲヘナからの滅びと無関係になってしまう

 

15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

これではクリスチャン生活を送っていても空しくなる

 

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 

15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

キリストのよみがえりは初穂

初穂が実るということは、次々と実る

キリストがよみがえったように私たちも次々とよみがえる

エデンの園の悲劇

アダムは悪い意味合いでの創始者 Ex:嘘をつく、悪口を言う

そういった意味合いで、キリストはアダムと同じ立場

死者の復活を求める人には進んでくる

アダムの罪は続いていく

しかし、同じ意味合いでキリストの復活も続いていく

死ぬことも一人の人が来たように復活もキリストから来る

キリストのよみがえりの中にいる

よみがえりを信じていくなら実現していく

キリストのよみがえりがないなら歩んでいけない、キリストのよみがえりを体験していく

自分の力に頼っていたらダメ、正しい実を結ばない

神に頼って歩むことを求める→クリスチャンらしい歩みになっていく

このことを真実として体験していかなければならない

真のよみがえりを見ていく

キリストにあって罪から生かされて後の日に復活を経験するチケットを得ている

きちんと主に従っていくなら永遠の命を得る

そんな風に確かに約束はされているのですが・・・現実はどうでしょうか?

クリスチャンに永遠の道が開かれているのは事実、でも、それを得るか否かは別

参照 黙示録3:1-5

3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

サルデス:赤いもの、このことは、エサウ、俗悪な者に通じること、長子の権利を売り払ってしまった、これは御国を受け継がないクリスチャンの型

1節の「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」とは、なんだか不吉な預言

名目や理論上ではなく、はたまた教理上でもなく、「本当のところはどうなのか??」が、神様の前に問われている

Ex:パリサイ人、律法学者は「白く塗られた墓」とか「偽善者」とイエスに言われた、これは明らかに御国を受け継がないパターン、しかも、キリストを十字架に付けたのも彼ら

サルデス(プロテスタント)の人々は、この人たちと同様

名目上、天の御国を受け継ぐと言われているプロテスタントの信者が実際には受け継げないことを黙示録のこれらの御言葉は暗示している

2節以降も、個別に見てみましょう。

 

2:目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

「何とか永遠のいのちを得るように頑張れ!!」と言っている

 

3:だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

教えを聞いている、しかし、実践が無いために永遠のいのちを失う

 

4:しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

しかし、幾人かの例外の人がいる

「幾人」と言われているぐらいだから、そんなに多くは無い、ごく少数なのでは?!

 

5:勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

例外的に白い衣を着ている人は「いのちの書」から名前が消されることは無い!

 

ポイントとして、キリストが確かにそのような道(永遠のいのちに至る道)を開いたのは事実

しかし、名目上のクリスチャンに、主はリアルに報いられる

実際の歩みが大事!!

 

15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

まず、キリストが復活し、それからクリスチャンの復活する

復活の順番について

あらゆるクリスチャンがいる、しかし、艱難時代の終わりにキリストに属している人が一番初めに復活する

艱難時代にキリストに属していることは非常に特別なこと

神は特別に恵みを施す

裏返すと、艱難時代を経て、なおかつキリストに属するのは非常に難しい、ゆえに、誉れである

参照 黙示録20:4,5

20:4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

20:5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。

生き返る:復活

艱難時代は、首をはねられたりと、殉教者が出る

艱難時代に生き残るのは大変

法律が変えられて獣の像を拝ませる時代だから大変

しかし、復活するなら、5節に書かれているように最も誉れを受ける

誉を受けるには、大変な苦労が必要、サバイバル戦になる

Ex:ぶどう園のたとえ話

最後の時間(5時から)の人に主は目を留められる

5時」は、教会時代の最後を指す

最後に大事な働きをしたので誉れを受ける、これは「あとの者が先になり先の者があとになる」の御言葉と見事に符号するのでは?!

参照 マタイ19:27-30

19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」

19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。

19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです

12弟子が生まれたのは旧約の最後、この人たちが王となる

彼らも新約の私たちと同様、「5時」から働いた人たち→12部族を裁く裁き司になる、王となる

7年の、後半の3年半の艱難時代にキリストに属していたから

捕まる危険の中でキリストにとどまった人が特別な恵みを受け、あとなる者が先となる

今の時代においても3年半の艱難時代を経て残る人にポイントがある

すべてのクリスチャンの中で一番の恵みを受ける

 

15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。

15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

キリストが来られるときに、この世のあらゆる権威、権力を滅ぼす

この世の権威、体制はキリストによって滅ぼされることを言っている

裏返すとこの世の権威、体制は神に逆らって立てられている

だから、この世を愛してはいけない、それにも拘らず、世を友としているクリスチャンがいる

参照 ダニエル書2:34,35

2:34 あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。

2:35 そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。

一つの石:イエス・キリスト

キリストが来たときに、この世の国は、コッパ微塵に壊される

この世の国、社会制度は、きれいさっぱり無くなる→神に逆らっているゆえ

この世に対して、どういう態度を取るかによって、主に裁かれる可能性がある

これは暗示されている

黙示録には、ソドムやエジプトの都について書かれている

都は「教会」をあらわす

神の前に教会がこの世に着いていく

エジプトと呼ばれる教会の歩みをしてはダメ

この世に着いていたら再臨のとき、裁きの対象になる

聖書はクリスチャンのエゴや妄想ではなく、書かれているように実現していく

この世の神の怒りの鉄槌が再臨に下される

Ex:ナイルの水が血に変わる

キリストが再臨するときにすべてが穏やかではなく、破壊のときにすべてを滅ぼす

キリストのとき、あらゆる支配を壊す

再臨について、思い違いや変なすりこみに気を付ける

参照 黙示録1:7

1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

キリストが来たときに、皆が皆、喜ぶわけではない

そのときでは、やり直しがきかないので、改めるべき点は直しておく

嘆くのは未信者だけではない、クリスチャンも嘆く

参照 マタイ26:63,64

26:63 しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

26:64 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

大祭司に再臨があることを言っている

殺そうとした大祭司には復讐が待っている、これが終末の人々のパターン(キリスト教界のトップが裁かれる)

キリストの再臨のときに多くの敵が滅ぼされる、その中には、この世についた宗教的な人も含まれる

この世と、どういう関係を取るかが、大事

参照 詩篇2:9

2:9 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」

これは、再臨に関しての預言

再臨に祝福がある、しかし、神様に逆らった多くの人々は粉々にされる

詩篇2:2,3節には、今のキリスト教界の背教の姿について書かれている

参照 詩篇2:2,3

2:2 地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。

2:3 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」

3節の御言葉について、「聖書のしばりは無い」と言っている

Ex:同性愛を迎合する

しかし、馬鹿なトレンドに乗せられてはいけない、トレンドは、いずれ滅びる4節に書かれているように、いずれ裁きが来ると言っている

参照 詩篇2:4

2:4 天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。

 

15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。

15:27 「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。

死も滅ぼされると言っている

人は誰でも死ぬ、しかし、聖書では、これは一時的なことだと言っている

いずれ、こういうことは無くなる

きちんと歩んでいれば、永遠の命を得る

今の人生だけにとらわれてはいけない、今のことは一時的

人の人生は神から見て草のような人生

参照 Ⅰペテロ1:24

1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

ゆえに、今のことに目くじらを立てずに、永遠の日のための備えをする

 

15:28 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

15:29 もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。

こういう類のバプテスマがある

私たちの洗礼も、よみがえるために受ける

 

15:30 また、なぜ私たちもいつも危険にさらされているのでしょうか。

15:31 兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。

15:32 もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。

私たちが死んで、それっきりだったら意味が無い

 

15:33 思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。

どのような信仰を持っている人と付き合うのか?!

 

15:34 目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。

復活をきちんと理解していない人がいる

どんなに人生が長くても永遠に比べたら一時的なもの

永遠のことに目を向けて歩んでいく

 

15:35 ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」

15:36 愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。

「死者の復活」は死ななければ生かされない

今の命に関して復活するためには、死ななければならない

今も良い思いをして、後の日、永遠の命を得るということは無い、すなわち、両方はゲットできない

この世のことを取るのは愚か

後の世にゲットするほうが賢い

今さえよければそれでいいというのは愚か

クリスチャンでも本当の意味合いで信仰を持つ

今の世は、ひたすらキリストに仕えていこう!極端な話、殉教もいとわずに!!

神様のことを第一にすると全て必要なものは備えられる

私たちは今の命には死ななければならない、毎日が死の連続、そうしていくときに今の世でも神様からの助けが与えられ、永遠の命を得る

この箇所は一粒の麦のことを指している

私たちの肉体の命は種粒に過ぎない、朝顔の種程度のもの

しかし後の世の復活の体は麗しいもの、ゆえに世のことに力点を置くことに御心は無い

「死ななければ生かされない」ということを理解していない人は多い

模範はイエス・キリストの歩み、まさに、一粒の麦が地に落ちて死ぬ例、そして後の世に栄冠を得る

自分の人生を充実させたいという類のクリスチャンがいる、それは愚かな人

聖書を読んでいないために勘違いしているクリスチャンが多い

蒔かないと復活の体は与えられないという概念を正しくとらえる

 

15:37 あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。

15:38 しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。

私たちの人生、からだ、今の世におけるからだは神の目から見て、種粒に過ぎないと言っている

後の栄光の体に比べると、せいぜい種粒

問題は、この世における体に執着してはダメ

今の事柄のみで満足してはいけない、後の世の栄光を見なければダメ

もし、種粒を蒔くなら、栄光の体を与えられる

今のこの世のことにこだわらずに種を蒔く、蒔かないと永遠に芽が出てこない

種を惜しまないときに得る、キリストのために失っていく

ズレた考え方や他のものをとらえてはダメ

38節のところは、英語(KJV)では、このように書かれている

“God gives it a body as it has pleased him”

これを訳すと「その種が神を喜ばせたので、その他に体をお与えになります」という風になります。

いわく・・・すべての種(クリスチャン)に体を与えられるわけではない

一粒の種で終わるクリスチャンが多い

神を喜ばせる歩みをしているなら、そのクリスチャンに復活、よみがえりの体を与えられる

自分を喜ばせる歩みをしているなら、結局は、そのまま、何も変わることは無い

でも、自分を捨てて十字架を負っていくなら、神を喜ばせる、このことは復活につながり、永遠の命を得る

神を喜ばせる者が復活の体を与えられる、こういった基本の基本が、ぼかされ、勘違いしているクリスチャンが多い

 

15:39 すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。

15:40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、

後に得られるからだも色々とある

人間の肉が良い

40節は後の世の体のことを言っている

後の世のほうが長い

 

15:41 太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。

後の世のクリスチャンは、すべて同じレベルではない

星も一等星とか、二等星とか色々とあるように、後の世において、栄光が異なるという違いがある

クリスチャンは、後の日に受ける栄光は異なる

参照 ダニエル書12:2,3

12:2 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。

12:3 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。

2:今のうちに正しく対応する

3:後の世において区分がある、後の世の栄光を求めるなら、後の世においてのことに力を入れていく

多くの人は見えるものしか見ない、しかし、こちらのほうに力点を置くときに神からの報いが来る

Ex:ミナのたとえ話→今のクリスチャンの歩みが後の世に関係することを言っている

 

15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、

朽ちるもの:今の我々の肉体のからだ、年を取る

しかし、「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ」というポイントについてみていく

後の世は、朽ちないもので、よみがえる

だから、この世のことに一喜一憂しない

御心を行って朽ちないものになっていく

 

15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、

今の体は卑しいもの

人間の体は弱い、しかし、強いものに、よみがえる

今の肉体のことばかりに力点を置くのはNG

後の日に得るべきものを得ることにポイントがある

 

15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

今の我々の体は血と肉で造られている

よみがえるときは、聖霊に属するものによみがえる

今の体に関しては、この世だけのこと

聖霊の事柄が非常に大事

御霊のほうにポイントがある

肉のことばかりを追い求めていくのにはポイントが無い

御霊の事柄に力を入れていく

生まれつきのものに力点を置くことに御心は無い

 

15:45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

15:46 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。

15:47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。

15:48 土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。

15:49 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。

天から出た者:イエス様

キリストから出たものは、キリストに似てくる

天上の体を持つことにポイントがある、注釈を見ると「私たちも天上のかたちを帯びましょう」と書かれている

 

15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

今の肉体の体は、この世で滅んでいってしまう

いくら、肉体のことに力を入れても、意味が無い

御霊にポイントがあり、こちらに集中していく

肉体は仮の宿

今の肉体の事柄は永遠に続かないので深刻に悩まない、すべて一時的なもの

今の肉体の事柄ばかりに時間を費やすことにポイントは無い Ex:お墓のこと等

 

15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。

15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

私たちはみなが眠って・・・:死ぬこと

キリストの再臨のときに、皆が眠ってしまうわけではない

また、艱難の時代にすべての人が殉教するのではなく、生きたまま、栄光の体に変わる少数のクリスチャンがいる、すなわち、残念ながら滅びるクリスチャンが多い

参照 Ⅰテサロニケ4:15-17

4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

15:キリストにある死者とは、艱難時代に殉教した人々

16:救いについて

17:生き残っている私たちが・・・→艱難時代の只中に主は来られる

Ⅰコリントに戻ります

「死者は朽ちない者によみがえる」について

参照 ルカ20:34,35

20:34 イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、

20:35 次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。

ここでは復活に関して言われている

35:「次の世に入るのにふさわしい、死人の中から復活するのにふさわしい」と、あえて書かれているということは・・・天の御国に入るのにふさわしいと認められるクリスチャンと認められないクリスチャンとがいる→これは、聖書が語っている一つのパターン

ある人はふさわしいとされ、ある人はふさわしくないとされる可能性がある

御言葉を聞いたすべてのクリスチャンが復活するわけではない!!

Ex:良い麦と毒麦、良い魚と悪い魚→麦や魚はいずれもクリスチャンのたとえ

 

15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

後の世においては朽ちない体を着る

後の世が本番、この世のことは一時的

 

15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

朽ちる肉体がいずれ、朽ちないものを着る

死ぬ肉体が死なないものを着る

ゆえにこの世のことにあまり、とらわれない

永遠に目を向ける

永遠の命を得なかったら、むなしい

「死は勝利にのみこまれた」について

「勝利」に関する語りかけ

参照 黙示録3:4,5

3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

上記御言葉は「復活」に関しての暗示

勝利者は復活する可能性がある

しかし、勝利しない人は復活しない可能性がある

「復活」と「勝利」は深い関係がある

ちなみに「勝利」とは、「罪」に対しての「勝利」を指す

「罪」に関して負けてばかりいると危ない!!

 

15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

「復活」の結論について訳の分からないインチキの教理を掴んでいてはいけない!!

主のわざに励むことと「復活」は関係する

「主のわざに励む」の言葉を原語でみると「異常にそのわざに励む」と書かれている

永遠のいのちを得たいのなら、主のわざに励む

主のわざに励んで永遠の命をゲットする、重い栄光を受ける