Ⅰテサロニケ人への手紙3章 2013.7.21



 



3:1 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、



3:2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、



強め励ます(KJV):建て上げる



クリスチャンの中で、神の働き人と、そうでなくて特別な働きをしていない人がいる



働き人(KJV):労働者



誰かが建て上げられるために働きをするときに建て上げられたり、強められたり、永遠の命を獲得する人がいる



逆に働き人がいないときに建て上げられないし、強められないし、永遠の命を得られない



たとえばどこかの土地にビルを建てるにしても、働く人がいて建てられ完成する



信仰も同様



皆が皆、傍観者だったり、さぼっていたりしたら誰も建て上げられない



テモテが遣わされて建て上げられていった人がいた



主にあって労働に時間を割く人がいて建て上げられる



クリスチャンの世界も働き人がいて建て上げられていく



主の弟子として働きについていくことにポイントがある



色々な人の働きによって建て上げられていく、ゆえに働きの一端につく



働き人になるなら結果を得る



労働には報いがあり、現に永遠の命に向けて立ち上がっていく人が出てくる



主に身をささげていくときに建て上げられたり、奉仕が与えられていく



主の働きにつくときに、人々が建て上げられる



 



3:3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。



パウロは分かったように、「私たちはこのような苦難に会うように定められている」と言っている



 



3:4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。



聖書において、「苦難に会う」という法則がある



 



3:5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。



聖書の一貫して流れている法則がある



参照 Ⅱテモテ3:12



3:12 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。



ここでもパウロは規定の事実を言うかのように、このことを言っている



聖書は一貫してこういうことを言われている



なぜ、敬虔に生きていると迫害に会うのか?



Ex:ヨブの苦難→ヨブは神様から「ヨブのように正しい人はいない」と太鼓判を押された、しかし、それゆえにサタンに試みられた



サタンは皆チェックしている



反対に御心を行っていない人は、サタンにパスされる→人間的には良くても、聖書においてこのことはNG



サタンは正しい人をちゃんとチェックしている



弱いところをついて色々と試す



ヨブだけでなく、イエス様もパウロも試された



この世にサタンがいるから苦難を通る



サタンの目は取りこぼしがない



聖書のルール、法則として・・・両方良いことは無い



聖書的に何も迫害が無いというのは考えもの



聖書的には善を行って目の仇にされたり、色々と因縁をつけられたりするのが正しい、それはあるべき姿、反対に悪を行って皆から嫌われたり苦しむのは当然のこと、しかし、御心を行ってなおかつ苦難を受けるのは誉れ、ゆえに悪口を言われて普通と考える



そしてサタンの迫害は人を通して来る



迫害に用いられる人は悪く用いられ、結果として永遠の命が危なくなる



参照 Ⅱテモテ2:13



3:13 しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。



ただし、迫害されたり困難な目に会ったとしても、それは地上だけのことに過ぎない



後の世にサタンはいなくなり、滅ぶ



参照 黙示録12:12



12:12 それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」



サタンはいずれ火の池に入る、その際に一人でも多くの人を道連れにしたいと思っている、いわば往生際が悪いと言える、ゆえに永遠の命が確実そうな人にサタンは来て目を付ける、もしサタンに目を付けられたのなら、永遠の命の有望株とも言える



ゆえに気落ちしないようにする、そうなってしまったらサタンの思うツボなので益々正しく歩む→サタンの妬みに正しく対応する



たとえばダビデも理不尽な困難を経た→琴を弾いていときにサウルに槍を投げつけられたり、サウルやアブシャロムに追いかけられて洞窟に逃げたりした



ある意味これは、「型」と言える、すなわち永遠の命を得る人の型



ゆえに迫害が出てきたら有望株と言える



 



3:6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。



3:7 このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。



3:8 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。



主にあって堅く立つ



サタンの色々な誘惑や惑わしは、不信仰にさせたり、キリストから離れていくようにもくろむ



Ex:日☆☆リス☆教会→再臨&終末のことを言わない、リック・ウォレン→再臨は無いと主張、カトリック→マリヤ、マザー・テレサ等に頼らせてキリストに頼らせない、エホバの証人→キリストを抜きにしている



キリストに堅く頼るときに誉れを見、栄光を見、助けや導きを受ける



Ex:レムナントキリスト教会ではセミナーを28回行っている、そしてその中で警告を受ける人がいる、その他一つ一つの働きが祈りによって進められている



主に堅く立ち、求めていくときに道や門が開かれていく Ex:出版の働き



主に頼ることにポイントがある



ポイントは主に堅く立つ→祈りの答えがきたり、開かれなかった門が色々と開かれる→頼ることに大きなポイントがある



 



3:9 私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。



3:10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。



信仰の不足を補えるように祈る



誰かの顔が浮かんだら、その人のために祈る、そうすると勇士として立ち上がる人がいるかも知れない?!



「昼も夜も熱心に祈っています」→祈りにポイントがある



 



3:11 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。



3:12 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。



愛が満ち溢れるのが大事



 



3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。



再臨に関して



パウロが再臨に関して強調していることは、「聖く、責められるところのない」ということ、そのことを求める



キリストの再臨のときに、そうなっていないために拒否される人がいる



Ex:賢い娘と愚かな娘



このあたりがポイントになる



参照 マタイ22:2,1114



22:2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。



22:11 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。



22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。



22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。



22:14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」



キリストの再臨のときは結婚式のようなもの、しかし追い出される人がいる



とても厳しい、そしてこのことはサルデスの教会に通じる



参照 黙示録3:16



3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。



3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。



3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。



3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。



3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。



3:6 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』



礼服を着ていない=衣を汚す→そうならないように気をつける



しかし正しく主の弟子として歩むなら、恐れる必要は無い



参照 ヨハネ14:13



14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。



14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。



14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。



「迎えに来る」→再臨の時のこと



今の時代もペテロやヨハネに連なる弟子に対しては、「迎えに来る」と言っている



弟子として歩み、主の御心を行い続けていくなら心配することは無い



主に従う中で衣も白くなる



主に従う中で必要なことは教えてもらえる



入るべき所にだんだんと近づいていく、導かれていく



ここでは2面のことを語っている



①招かれる者は多い、しかし選ばれる者は少ない



②神様は忠実なお方であって、きちんと忠実に主についていくなら場所は用意されているので心配する必要は無い