Ⅰテモテへの手紙5(110) 2013.12.1

 

5:1 年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人たちには兄弟に対するように、

牧会についての大事な教えについて、ここでは語られている

教会には、自分よりも目上の人も来る

その際、「年寄りをしかってはいけません」とあるように、叱らずに寛容に接する(教会の人たちだけにかぎらず、外部の目上の人たちに対してもそうする)

そして、「若い人たちには兄弟に対するように」ということばも、その通りにする

 

5:2 年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。

もし、間違えていることがあったとしても、それぞれに愛を持って、間違えを言っていく

 

5:3 やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。

聖書で、「やもめ」ということばが、よく出てくる

「ほんとうのやもめ」の歩みにポイントがある

エペソ人への手紙では、結婚に関して重大な奥義を語っている

「やもめ」も結婚に関する、そして「結婚」の一形態として、男(キリスト)と女(教会、クリスチャン)との関係のことを指す

未信者からクリスチャンになった、これはキリストと結婚したことになる、しかし、だからと言って、夫(キリスト)はいない、ゆえにクリスチャンはある意味、皆、「やもめ」と言える

たしかにキリストと結婚した、しかし、今、地上に肉体を持つ夫(キリスト)はいない

そして、「ほんとうのやもめ」というのがある

「やもめ」を通して、クリスチャンの歩みに関して語っていることがある

「みなしご」についても、別途教えがある→天の父だけを父とする立場のクリスチャン

ゆえに5節で言われていることは正しい→この世において結婚していようといまいと、「ほんとうのやもめ」の歩みをしていくことにポイントがある

同章12節に書かれているように、「やもめ」でも、正しく歩んでいないと非難を受けてしまう

クリスチャンとしての最初の信仰を捨ててしまったやもめのクリスチャンがいる

ゆえに3節に書かれているスタンスのことをパウロははっきりと言っている

「ほんとうのやもめ」は数えられ、受け入れられる、これは、「主の日」に通じる

クリスチャンになるのは尊いこと、しかしそれは、あくまでスタートにしか過ぎない

クリスチャンだからと言って、必ずしも「天の御国」にゴールするわけではない

Ex:賢い娘&愚かな娘→賢い娘はキリストの花嫁になったが、愚かな娘は花婿なるキリストから、「確かなところ、私はあなたがたを知りません」と言われ、退けられてしまった

Ex:&毒麦→麦は倉(天の御国)に納められ、毒麦は火(ゲヘナの火)で焼かれる

Ex::良い魚&悪い魚→良い魚は器に入れられ、悪い魚は捨てられる

なので、「やもめ」として正しく歩んでいくなら、主に受け入れられる

もし、同章6節のような歩みをするなら、入るべきところに入れなくなる可能性がある

黙示録のサルデス(プロテスタント)の教会がまさにそう

参照 黙示録3:1

3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる

 

5:4 しかし、もし、やもめに子どもか孫かがいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。それが神に喜ばれることです。

「やもめ」を教会で養うということが、パウロの時代にあった

本来なら、今もそうするべきなのかもしれない

それはそうとして・・・「しかし、もし、やもめに子どもか孫がいるなら~習慣をつけさせなさい」と書かれているように、親が年を取った場合、子どもにはそうする義務がある

 

5:5 ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も、絶えず神に願いと祈りをささげていますが、

望みを神に置いていること、祈りの習慣を昼も夜もしている人が、「ほんとうのやもめ」として認めてもらえる

神の目から見て、「ほんとうのやもめ」として歩んでいるなら、かの日に、主に受け入れられる

参照 ルカ2:3638

2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、

2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。

2:38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。

初降臨のイエスに会った一人の中に、やもめがいた

昼も夜も、祈りを捧げていた

「初降臨のイエス」というのは、再臨の日にキリストに会う人の型

主にまみえる人は、やもめの歩みをする人、すなわち昼も夜も祈り、主の臨在に留まり続けている人、性別は関係無しに、こういうポイントを見ていく

参照 ルカ18:15,7

18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。

18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、

18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」

18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

ここには、昼、夜、しつこく求めている、「やもめ」の姿が出てくる

艱難時代の1つのポイント→夜、昼、叫び求めるやもめ

神は艱難時代に起きてくる正しいクリスチャンへの冒涜や迫害に対しての裁きを行う

やもめの祈りを通して、裁きがなされる

ちなみにマタイの福音書には、「選ばれた者のために、その日数は少なくされる」ということについて書かれている、これはある意味、「夜、昼、求めるやもめ」のことを語っている

「選ばれた者」(「本当のやもめ」として歩んでいる人)については、苦難の時が短くされるのでは?反対にそうではない人にとっては、長い期間になるのでは?このことは、そんなことを語っているのでは??

ここでの結論:「ほんとうのやもめ」は真の救い、助けを得る

 

5:6 自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。

自堕落(KJV):楽しみの中で生きている

この世の歩みはNG

自分の楽しみ、嬉しいこと、欲望を満たすことのみを追い求めていくというのがある

たとえそうではあっても、それを第一優先していくのは違う

主の働きのゆえに、それらのものを犠牲にする場合がある、そうだとしたら、「自堕落」とは言われない

自分のことを犠牲にしても、主のことを優先していくのが、真のやもめ

何を優先するか??は、とても大事

 

5:7 彼女たちがそしりを受けることのないように、これらのことを命じなさい。

歩み方次第で、神の前にそしりを受けたり、裁きを受けたりするので気を付ける

「やもめ」の歩みでも、2種類の歩みがあるということを語っている

 

5:8 もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

「家族」を顧みる

親族(兄弟姉妹)や家族のために祈る

もし、実践しないのなら、「不信者よりも悪い」という風に神の前に見なされてしまうのできちんと行っていきたい

 

5:9 やもめとして名簿に載せるのは、六十歳未満の人でなく、ひとりの夫の妻であった人で、

やもめとして名簿に載せる(KJV):数に入る、数えられる

これも大事なこと

教会として認められるのも大事、しかし、第二義的な意味合いも大事

神の前に、「数に入る」ことは大事

主の再臨の時に、数に入るやもめと、そうではないやもめがいる

これは永遠のことに関係する可能性がある

聖書で、「数に数えられる」ということがある

参照 ダニエル書5:131

5:1 ベルシャツァル王は、千人の貴人たちのために大宴会を催し、その千人の前でぶどう酒を飲んでいた。

5:2 ベルシャツァルは、ぶどう酒を飲みながら、父ネブカデネザルがエルサレムの宮から取って来た金、銀の器を持って来るように命じた。王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちがその器で飲むためであった。

5:3 そこで、エルサレムの神の宮の本堂から取って来た金の器が運ばれて来たので、王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちはその器で飲んだ。

5:4 彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した。

5:5 すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、

5:6 王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えた。

5:7 王は、大声で叫び、呪文師、カルデヤ人、星占いたちを連れて来させた。王はバビロンの知者たちに言った。「この文字を読み、その解き明かしを示す者にはだれでも、紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけ、この国の第三の権力を持たせよう。」

5:8 その時、王の知者たちがみなはいって来たが、彼らは、その文字を読むことも、王にその解き明かしを告げることもできなかった。

5:9 それで、ベルシャツァル王はひどくおびえて、顔色が変わり、貴人たちも途方にくれた。

5:10 王母は、王とその貴人たちのことを聞いて、宴会の広間にはいって来た。王母は言った。「王よ。永遠に生きられますように。おびえてはいけません。顔色を変えてはなりません。

5:11 あなたの王国には、聖なる神の霊の宿るひとりの人がいます。あなたの父上の時代、彼のうちに、光と理解力と神々の知恵のような知恵のあることがわかりました。ネブカデネザル王、あなたの父上、王は、彼を呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長とされました。

5:12 王がベルテシャツァルと名づけたダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあることがわかりましたから、今、ダニエルを召してください。そうすれば、彼がその解き明かしをいたしましょう。」

5:13 そこで、ダニエルは王の前に連れて来られた。王はダニエルに話しかけて言った。「あなたは、私の父である王がユダから連れて来たユダからの捕虜のひとり、あのダニエルか。

5:14 あなたのうちには神の霊が宿り、また、あなたのうちに、光と理解力と、すぐれた知恵のあることがわかった、と聞いている。

5:15 先に、知者、呪文師たちを私の前に召して、この文字を読ませ、その解き明かしを私に教えさせようとしたが、彼らはそのことばの解き明かしを示すことができなかった。

5:16 しかし、あなたは解き明かしができ、難問を解くことができると聞いた。今、もしあなたが、その文字を読み、その解き明かしを私に知らせることができたなら、あなたに紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけさせ、国の第三の権力を持たせよう。」

5:17 そのとき、ダニエルは王の前に答えて言った。「あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください。しかし、私はその文字を王のために読み、その解き明かしをお知らせしましょう。

5:18 王さま。いと高き神は、あなたの父上ネブカデネザルに、国と偉大さと光栄と権威とをお与えになりました。

5:19 神が彼に賜わった偉大さによって、諸民、諸国、諸国語の者たちはことごとく、彼の前に震え、おののきました。彼は思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低くしました。

5:20 こうして、彼の心が高ぶり、彼の霊が強くなり、高慢にふるまったので、彼はその王座から退けられ、栄光を奪われました。

5:21 そして、人の中から追い出され、心は獣と等しくなり、野ろばとともに住み、牛のように草を食べ、からだは天の露にぬれて、ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。

5:22 その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。

5:23 それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。

5:24 それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。

5:25 その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』

5:26 そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです

5:27 『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです

5:28 『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。」

5:29 そこでベルシャツァルは命じて、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国の第三の権力者であると布告した。

5:30 その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、

5:31 メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。

上記みことばは、ネブカデネザル王の次の王(ベルシャツァル王)の時に、主の宮から器が運び出されて、数えられたことについて言われている、しかし、「目方が足りない」と書かれているように、「数が足りない」ということを言われている、そしてその後バビロンは滅んだ→これはとても深刻なこと、なぜなら「数が足りない」というのは、先のⅠテモテへの手紙の「数に入らない」ということと同じ意味合いだから

「数が足りない」ことについては、他の箇所にも書かれているので、よろしければ参考までに読んでみてください→創世記19:2332

ここでの結論:数に入るように頑張っていきたい

主は忠実なお方なので、働きに召してくださったことや足りないことについて、教えてくださる、その時は素直に聞き従っていきたい

 

5:10 良い行ないによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。

こういうやもめは数のうちに入る

子どもを育て:霊の子どもをちゃんと育てるような奉仕をする

Ex:きちんとメッセージをしたり、音声礼拝メッセージをHPにアップしたり、証をしたりする

聖徒の足を洗う→主が弟子たちの足を洗ったことに通じる、そしてこれは霊的なたとえを言われている→聖徒のためによく祈り、良い影響を与えていく

人の足を洗えるような者、他の人が聖霊に触れるような歩みをしていくことが大事

こういうことを忠実に生活に組み入れて、習慣にしていくとき、周囲の人々の足を洗うようになるので、ぜひ、そういう歩みに入りたい