Ⅰヨハネの手紙2:111          2015.6.14

 

2:1私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。

2:2この方こそ、私たちの罪のための――私たちの罪だけでなく、世全体のための――なだめの供え物です。

 

聖書の中では、「罪」という言葉が度々出て来る。

度々主は「永遠のいのち」の事を語られているが、我々クリスチャン人生はそれを得て何ぼ。

今はただの過程であり、まだ、旅人にすぎない。

まだ結果も出ていないし、最後の最後が分からない。

しかし、パウロも、「すでに得たのではなく、完全にされたのでもなく、とらえようと、永遠のいのちを追い求めている」

その時に、やはりどうしても、我々が罪を犯すと永遠のいのちを得られないが、ただ、一つは、一節に書いてあるように、「罪を犯さない」ようになるため。

この事を我々は求めて行かなければならない。

あらゆる方法で、サタンは我々を罪に誘惑するし、今の時代のクリスチャンはどんどんいい加減になって、罪から離れる努力をあまりしなくなっているかも知れないが、神の言葉は変わる事が無い。

「罪を犯さないでクリスチャン生活を送るのは無理だ」との意見もあるかも知れないが、もし、我々が罪を犯したとしても(犯すべきではないが)、「もし誰かが犯す事があれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです」という事。

弁護する方がいるという、弁護士のごとく神の前に色々と弁護したり、色々、情状酌量の道を開いてくれる方がいる。

裁判でも、有罪になりたくない人は、弁護士をつける。

弁護士は、悪い人、たとえ殺人を犯した人でも、情状酌量の余地を色々探してくれる。

その人の罪が、軽くなるためのあらゆる方法を講じてくれる。

弁護士をつけない裁判では、量刑は重くなるばかり。

弁護士を付ければ、量刑が軽くなったり、執行猶予がついたりする。

そういう意味で我々は、罪を犯すべきではないが、非常に感謝な事は、色々と情状酌量をしてくれて、弁護して下さる方がいる、という事をよく覚えておく。

具体的に言えば、この方は今、聖霊となって世に来られている。

「弁護する方」という言葉。

 

ヨハネの福音書

14:16私は父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

 

その後に、「その方は、真理の御霊です。」とある。

聖霊の事だが、この「助け主」という言葉が、「弁護する方」と同じ原語。

聖霊は助け主であるが、それと共に、我々の内側に住まわれ、我々のあらゆる内側の事をご存じであられ、我々の側に立って、あらゆる事をとりなして下さる方。

この事は、正しく理解しておくべき。

世の終わりの時の大きな問題は、一つは、神の言葉が改ざんされ、艱難前に挙げられるなど、インチキな教理が来て、御言葉が、御言葉の意味をなさないという、「み言葉のききん」という災いが、キリスト教界に来ている。

そしてもう一つは、我々の唯一の助け主であり、弁護して下さる方、聖霊が追い出される時が来るということ。聖書が明らかに語っている。

この点をも理解しておく。

他の聖書の箇所では、「言いようもない深い嘆きをもってとりなして下さる」というように、我々の事を本当に滅びないように講じて下さる方を、あろうことか、クリスチャンが自らこの方、聖霊を追い出してしまうという日が来る。

是非、この様な愚かな冒涜に加わることの無いようによくよく覚えておく。

これは聖書に書いてある事なので、必ず成就する。

第二テサロニケの手紙には、「反キリストをとどめる方がいるけれども、その方が追い出される」とある。 つまり、聖霊が追い出されてしまう日が来る。

それは、別の霊を掴んでしまうという方法で来る。

すでに、この様な霊にやられている人が複数いる。

賜物をもって惑わすという方法でやられている。

「あなたにすごい預言が来ました」とか、「突然神が臨んで、癒しが来た」「突然素晴らしい啓示の光が来た」などの「良い話」で騙される。

人間の世界でも、騙される人には、騙されるなりのパターンがあって、大抵が欲に引かれる。

クリスチャンが聖霊から離され他の霊に魅かれるのは欲が原因。

「他のクリスチャンにはない賜物が来る」など。

そうすると、前後を忘れて、変な霊を捕えてしまう。

賜物そのものに魅かれ、それが神からのものか、光の天使に偽装した悪魔からのものか、吟味がない。

結局はサタンに惑わされた。アダムとイブの時以来。「見るに良く、食べるに良く、賢こからんとする」

アダムとイブは、死に至らせる実を食べさせられたが、同じような運命を掴む。

聖霊の賜物ではなくて、滅びの霊の実であるが、惑わされて掴んでしまう、そういうポイントがある。

 

2:3もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。

2:4神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。

 

四節に書いてあるように、クリスチャンは、「あなたは神を知っていますか」と言われた時に、

誰でも「はい。私は神を知っています」と答える。

しかし、神を知っているというクリスチャンの中にも、真理がその人の内にある人と無い人がいる。

体を使って御言葉を行なう。

理屈だけ分かっていても、体を使って行わないのはダメ。それでは真理がその人の内から消え去って行く。そして偽りを掴むようになる。

どんなに気を付けていても、必ずそうなる。

一つの聖書の原則。

ある種のクリスチャンは、あらゆる意味で、真理から外れている。

あれも外れ、これも外れている。「キリストは復活していない」など。

別の所では、復活は信じていても、別の偽りを掴む。艱難前携挙など。

そういうタイプの人の、どこが悪いかというと、御言葉を行なわないという事。

御言葉を行なわないと、見事に、惑わしや、インチキを掴む状態に入って行く。

しかし、我々が逆に、御言葉を行なうという事を心がけて行くならば、たとえ理解力が悪くても、真理に入って行く。真理から外れる事が無いように導かれて行く。

こういうパターンは見て行きたい。

過去に牧師自身もそんなに御言葉を行なわないクリスチャン生活を送っていた。

すると、この言葉の様に、色々と惑わしに入っていた。艱難前携挙を信じていたり、ブレザレン系の教会で色々惑わしにも入っていた。

しかし、ある時から、弟子の歩みに入って、御言葉を読んで「行う」事を心がける様にした。

すると、ある時から、真理が明確に開かれるようになった。

今、レムナントに開かれている、「艱難前携挙は偽り」「第三神殿は絶対に建たない」など、または、「獣の国はアメリカ」など、こういった、あらゆる真理というのは、御言葉を行なう事に力を入れるようになってから、明らかに神から与えられた。それ以前は、普通の人よりもひどい惑わしに入っていたりなど、違う物を掴んでいたりした。

そういう意味で、この事は心がけておく。

真理でない偽りの教理に入らない事を望み、また、真理に歩みたいという事を望むならば、その大きなポイントというのは、一つ。

それは「み言葉を行なう」という事を、心がけるかどうか。

どんな小さなことでも、行なう人は、真理に入って行く。

惑わしが来ても、それに入らない。 もし、入っても、主の憐れみで戻って来たりする。

「み言葉を行なう」という事が、実は、真理に留まり続ける事の一つの大きなポイント。

頭のいい人が、偽りを見分けるわけではない。  頭のいい人はそれで、また別のインチキに引っかかる。  御言葉が正しい。

御言葉を行なうのは、身体の問題。  御言葉を行なう人は腰の軽い人。

それは、身体を使って、行なう体質を身につけるかどうかで、大きな違いが出る。

人によって、そういう体質が出来ていない人がいる。

逆に、腰の軽い人もいる。

聞いたその日から実行して行ったり、そういう人は祝福される。

何度言われても、決して行わない人は、惑わしに大いに入って行く。

一人一人が自分が選んだ道を歩んで行く。

人は、否が応でも、どうしても真理に入って行く。

どんなに間違えても、真理に戻る。

 

2:5しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。

 

御言葉を守っている人は、神の愛の内にいます。

御言葉を守らない、耳で聞くけれど行わない人は、神の愛から徐々に外されていく。

これは気をつける。

御言葉を行なう人に、神の愛が全うされて行く。

 

2:6神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

 

我々が歩むべき道というのは、キリストが歩んで行ったように歩むのが、歩むべきベストな道だという事を覚えておく。

キリストがされた事は、理解できないところもある。しかし、信仰の導き手、そして完成者はイエス・キリストのみ。

なので、キリストの歩みに従って行く、これが、ベストなクリスチャン生活を歩む秘訣であるという事を覚えておく。

聖書は、先輩のクリスチャンの背中を見て歩んで行くというのが一つのパターン。

そういう事を聖書は言っている。パウロも言っている。

「あなたがたはわたしの様になれば良い」

主のされた事というのは、一つ一つ意味のある事。

ヨブ記には、「私は裸で、母のもとを出たので、裸でかの地へ戻ろう」という事が書かれている。 これはイエスキリストが、そういう事をキリストは語っていないけれども、文字通り実践したという事を教えられる。

イエス様は、文字通り裸で亡くなられた。  上着も下着も取られてしまった。

これは、一つの代表的な例。

衣服だけではなく、キリストはあらゆる人として大事なものをみな奪い取られた。

名声、命までも。

人々の怒り、怒号、非難の中で亡くなられた。

似たような歩みをして普通。

主はすべてを失ってでも、神の御心を優先された。

それを見習って行きたい。

人間的な考えを持っているとダメ。

人からの評判を第一としてはいけない。

全ての事を捨てて従うという事は、至らない可能性がある。

なので、模範はキリスト。

 

2:7愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。

2:8しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。

2:9光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。

2:10兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。

2:11兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。

 

兄弟という言葉がここに出て来る。

兄弟というのは単数。 ある一人の兄弟の事を言っている。

一つは、主が言われた通り「あなたがたは互いに愛し合いなさい」という事で、やはり、特に教会の兄弟姉妹は、互いに愛し合うという事。

まして、憎んでいてはいけない。

もう一つの事は、「聖書はわたしについて証をするものだ」と書いてあるように、あらゆる所に、イエス・キリストが現われているので、兄弟、これは一人の兄弟のことが書かれているけれども、これは、イエス・キリストの事が書かれていると取れる。

もし我々がイエス・キリストを憎んでいたりすると、その時に、闇の中に入って行く。

そして躓いていく。  この事は覚えておくべき。

クリスチャンなら誰でもキリストを愛している筈。

また主は、「私を愛する者は、私の言葉を守る」と言われた。

クリスチャンであるという事も大事だけれども、もう一つ、やはり、本当にキリストを愛するならば、キリストの言葉を守るということ、実践するという事。

この事にも心を留めておく。

御言葉を行なって行くなら、キリストへの愛を実践しており、それは、闇ではなく、光の中を歩むことになる。

しかし、逆に、口先だけではダメ。

御言葉を守っていく事が、キリストを愛する事につながる。

その時、光の中にいるので、躓く事も無いし、闇の中に留まる事も無い。

この事を是非覚えて行きたい。

分からないながらも、みことばを守る事を努めて行った時に、大事な事とか、光が段々と神から与えられてきて、真理が見えるようになる。

今のキリスト教会では、ダニエル書27節に書いてある、一週の契約、七年の契約というのを、皆間違えて解釈している。「これは中東のイスラエル国の七年の平和条約だ」などと、とんでもない間違いを犯している。

しかし、レムナントでは、神様の憐れみによって、真理が見えて来た。

これは、恐るべきことを語っていて、艱難時代の七年間というのは、反キリストは一週の間、多くの者と固い契約を結ぶという事が書いてある。

反キリスト、獣の国が、一週つまり七年の艱難時代の間、多くのクリスチャンの、神との永遠のいのちの契約をひっくり返し、自分と契約を結ばせる、地獄の契約を、天や地をさして誓わせたり、あらゆる方法で、逃げる事が出来ないようにしていく、そういう試練があると言っている。

そういった事が見えて来る。

御言葉を憎まず、御言葉を行なう。すると、真理が見えて来る。

こういったところに大きなポイントがある。

御言葉は真実。 だから、実践していく人はそれを見るという事を是非、覚えておく。

行なって何ぼ。愛も行なってこそ意味がある。 口先だけではダメ。

正しく実践している人にポイントがある。