Ⅰヨハネ:2029                     2015.6.28

 

2:20あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。

 

聖なる方からのそそぎぎの油というのは、聖霊の事。

聖霊があるから、誰でも知識を持っている。

我々に、注ぎの油が与えられているという事だが、非常に尊い事。

何が正しいのか、正しくないのかという、聖霊が判断して下さる。

誰でも知識を持っている。そういう意味ではえこひいきは無い。

誰であっても注ぎの油である聖霊を受けている人は、あらゆる事柄に関して知識を持つ。

そういう意味では、油である聖霊に聞き従って行く時に、我々は、大きな間違いをせずに歩むべき道に入って行く。

ただ、世の終わりの時は、明らかに聖書が語っている事は、他の霊を受け入れてしまい、聖霊を追い出してしまうという過ち、失敗、偽り、そういった事柄があるので、この事はよくよく捉えておく。そういった人たちは変なものを捉える。

ラオデキヤの教会がまさにそう。

「豊かになった、乏しい事は何もない」と言っているのは、何か、油を受けている。

しかし、神の前では、「自分はみじめで、貧しい者である事を知らない。」という事。

その人達が最終的にキリストに会った時、「主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟を行なったではありませんか」と言うが、キリストにつれなく「私は全くあなた達を知らない」と言われてしまう。

ここは、霊の違い。

聖霊ではない違う霊で奇蹟を行なったり賜物を受けている人達は、つまり賜物に目が眩んでいる人達はその日、大変な事になってしまう。

永遠のいのちを得られなくなる。

世の終わりの一つの危険というのは、賜物に目が眩んで別の霊を捉えるという危険を、明らかに聖書はあらゆる所で語っている。

こういった事柄は目に留めておきたい。

本当に神様の注ぎの油(聖霊)が整っているというのが大事な事柄なので、こちらの方に目を留める。

今は明らかに、聖霊の第三の波とか、奇蹟やしるしを求めて、聖霊以外の霊を受ける時代にすでに入って来ているので、こういった事柄には気を付けて行きたい。

 

2:21このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。

 

真理を知っているという事。 もう一つは、偽りはすべて真理から出ていないという事。

偽りという事は、我々がクリスチャン生活を送っていく時に、気を付けなければならないという一つのポイントであるという事を覚えておきたい。

この偽りという言葉は、サタンに対して語っている。

「悪魔は初めから偽り者である」とイエス様が言っているが、その時に、同じ「偽り」という言葉が使われている。

サタンは、エデンの園で最初に生まれた人である、アダムとエバを騙した。

初めからサタンは、人を惑わすという事に力を入れている。

そういう意味で、キリスト教会で、我々がクリスチャン生活を真面目に行なって行くという時に、気を付けなければならないのは、偽りを掴まないという事。

「教会だから、みんな神の器だから、どれもこれも問題は無い筈」というのは甘すぎる考え。

あちらこちらでインチキが入って来ていると言うのは、明らかな現状であるので、油断も隙も無い。甘く見てはダメ。

まして、特に終末に関しての教理というのは偽りばかり。

あらゆる所でインチキがはびこっている。

「獣の国」に関しても、我々の理解としては明らかにアメリカであるが、「EU」だとか、国連だとか、インチキを語る教理の本とかが、(:レフトビハインド)  大売れしたり、大人気になる。

この事を捉えて行くべきだが、そこだけではない。

他の教理でも根本的に間違っているものが、たくさんキリスト教界に入り込んでいるので、その中で正しいものを見分けて行くというのが非常に大事。

何でもかんでも目についたものを食らって行くというのは危険。

「七年の契約」についてもインチキが広がっている。

キリスト教界の一般的な常識は、「七年の契約」は、七年の中東の和平条約という事になっている。政治的な事だといっているが、そんなわけはない。

また、「第三神殿が建てられ、それが崩壊する時が世界の終末だ。」など。

「今は第三神殿など、影も形も無いから、終末など100年も200年も先の話だ」など言われるが、そんなわけはない。

残念ながら偽りが、大いに入って来ているという事柄は、よくよく見て行きたい。

 

2:22偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。

 

この章では反キリストの事が色々書いてある。

世の終わりになって来ると、大事なポイントになって来るので、この事に関してある程度知って行くのは大事な事。

まさに、ヨハネの手紙ではその事が書いてある。

反キリストの一つの特長として、はっきりとした明確な事が書いてある。

反キリストは、「御父」を否定、「御子」を否定。  この二つをする。

それが、反キリストのメジャーな仕事。

反キリストは「御父」、つまり神を否定する。

また、「御子イエス・キリスト」を否定する。

例えばダビンチコードではキリストの子孫が今でも残っているなどと書いてある。

そういう事をメインで言って来る者は、反キリスト。

おかしなことを言って来る人というのは、反キリストに限らずたくさんいる。

なのになぜ、反キリストの事が、聖書に特筆されているかというと、これが実現してしまうから。  まんまと、クリスチャンが、反キリストの嘘を受け入れて、背教した教会の中で大成功してしまう。だから「反キリスト」という事が書いてある。

聖書は、何の意味もない事、何も教会に影響をなさない事は書いていない。

「御父」と「御子を」否定する者を見て行きたい。

 

ダニエル書

11:36この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。

11:37彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。

すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。

 

キリスト教の神はもちろん、他宗教の神々(アラー、仏陀、クリシュナなど)よりも自分を高めて大いなるものとする。

この事を覚えておきたい。

この事が一つ。

同じような事柄がもう一か所ある。

 

第二テサロニケ

2:3だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 

不法の人、滅びの子が反キリスト。

人とか、滅びの子と書いてあるので、やはり反キリストは人間。

イエス・キリストが人であったように、反キリストも「人」

 

2:4彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

反キリストは、キリスト教の神にも反抗する。

だから「御父」を否定する。

イエス・キリストも否定する。

その上に自分を高く上げる。

「神の宮の中に座を設け」というのは、神の宮というのは、教会。

本来、イエス・キリストしか座っていないが、そこに自分が座ると言っている。

そして、自分こそ神だと宣言する。

他でもない、キリスト教会の真ん中に入って来て、そこでもって「自分は神だ」と宣言する。

この言葉が成就する。

「偽り者とはイエスをキリストである事を否認する者でなくて誰でしょう」

「御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」

こういった業を成し遂げる。

これは実現する。

Ⅱテサロニケで預言されているから。聖書には、起きない事は書いていない。

書いてある事はみな実現する。

その裏に、やはり、そういった事を許す教会の状況というものがある。

やはりクリスチャンが、そういった背教に同意してしまう日が来る。

反キリストは起きるべくして起きて来る。

教会が背教しなければ反キリストは出てこない。

反キリストは、背教が極みに達した時に出て来る。

悪いのは反キリストだけではない。教会もキリストを裏切っているという現実も見て行かなければならない。

 

Ⅰヨハネ

2:23だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。

 

ここも、反キリストに関連して書かれている。

「イエスキリストは神ではない。だから、インチキ、ペテン師だという事が分かったから、もうキリストを信じる事はしない。反キリストを信じる。それが神にも喜ばれる。」

しかし、あたかもそれを見越したかのように書いてある。

御子とはキリスト。

キリストを否認する者は、道を持たず、神を持っていない。

神の子でも何でもない。

御子を告白する者は、道を持っている。

反キリストに脅されても、「イエス・キリストこそ神だ。」と、はっきり告白する者は、艱難時代でも神を持っている。

 

2:24あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。

 

初めから聞いたことというのは、英語では in the bigining と書いてある。

ヨハネの福音書にある、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」

この「初めに」という言葉。

他でもない、「言葉は神であった。」

イエス・キリストの事を言っている。

初めから聞いたこと、イエス・キリストが神であるという事。言葉は神であるという事、この事を自分たちの内に留まらせよという事が、まさに24節で言われている事。

「キリストが神である。」その事が留まっているなら、「あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。」

「イエス・キリストが神である」という告白をとどめる事が、まさに大事。

反キリストが、どんどん教会を浸食していく時に、この事がさらに大事になっていく。

そしてさらに知る事、分かる事は、初めから聞いたことに留まるというように、終末の日の明らかな兆候というのは、教理がくずされるという事。

色んな疑い、もっともらしいような教理、言いよう、うまいインチキで、教理がひっくり返される。 宮の崩壊、宮の土台石というのは、使徒、預言者、また隅のかしら石であるイエス・キリスト。

具体的に、石が崩される、というのは、教理とか教えが崩されるという事。

その時に、初めから聞いたことに留まらない人が必ず続出することを見越してこう言っている。

この事をよくよく理解しておく。

今でも既にフラフラしている人がたくさんいる。

そして、この御言葉に留まる事が

 

2:25それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。

 

だから、御言葉に留まる人は、永遠のいのちに留まる。

ぐらつかされると、「キリストは実は神じゃない」というインチキを掴まされたら、永遠のいのちも失ってしまうという事をよくよく覚えておく。

世の終わりの時と言うのは、こういった御言葉に関しての確信とか教理とか、キリスト教会の

土台となる教理に対しての攻撃の日。

最後は、残念ながら、教会として、「御父」をも、「御子」をも否定する。

「キリストは神ではなく、ペテン師であり、普通の人間である」という事を教会が、公に告白する時が来る。それに連なる人々は、永遠のいのちを失う時であるという事柄も、まさにここで言っている。

なので、レムナントでは、角笛で、新しい記事を書いた。

最新の記事では、七年の契約という事を書いた。

これは、反キリストとクリスチャンが、契約を結ぶ七年の契約の時があって、その時、反キリストと契約を結ぶものは永遠のいのちを失うということを書いたけれども、まさにここに書いてあるという事と符合する。

だから、土台をひっくり返される者は永遠のいのちを失うわけであり、キリストに対しての確信を失うという人は、永遠のいのちを失う。

世の終わりの恐ろしい事というのは、ターゲットを明確にしてきているという事。

終末の日にサタンが狙っているのは、我々の持っている、最も尊い永遠のいのちとか、キリストと神との間で結ばれた、永遠の契約とか、そういった事柄に関してターゲットを絞っている

という事はよくよく覚えておく。

あらゆる、世の終わりに関してのサタンの計画というのは、そのあたりに焦点をあびている。

なので、そのあたりの事を読み取れないと、終末に関しての預言は、意味不明のとんでもない解釈になってしまう。

最たるものは、艱難前携挙説。そこには何の緊張感もない。偽りの安心がある。

 

2:26私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。

 

だから、今まで書いてきたというのは、世の終わりの時に、惑わそうとするものは、反キリストとか、その働き。

ヨハネの言っている事は、非常に的確な指摘。

世の終わりに起きて来る反キリストのあらゆる計略とか、攻撃の方法とか、ターゲットがみな書かれている。

それを読み取らないと、ここを読んだ事にならない。

一つ目は、反キリストが、神をも、キリストをも否定する。

必ずこれからのキリスト教界のトレンドは、好むと好まざる関係なしに、この方向になって来る。特にキリストに対する攻撃が来る。すごいデマが、強大な力で広がっていく。

二つ目は、御言葉に関しての信頼を損なわせる。神の言葉を否定したりする。

キリスト教会の土台である、色んな教理、また御言葉などに対しての攻撃が必ず来る。

三つ目は、ぐらつく人は、永遠のいのちを失うようになる。

以上の事。

世の終わりに関しては、この様な明確な道筋がある。

これがヨハネの手紙に書いてある事。

こういった事に、我々は気を付けて行くべき。

ある意味では、2000年も3000年も前から、終末のシナリオははっきり定まっている。

我々は、それを理解し、悟り、またその中で、自分の永遠のいのちをゲットして行かなければいけないが、教えられることは、七年の反キリストとの契約の事。

非常に感謝な事だが、レムナントは、神様の憐れみの中で、御言葉を読めば読むほど、同じ方向に語っておられるという事を、理解出来る。

我々は真理を歩んで行かなければならない。

聖書に書かれている事は、絵空事ではなく歴史と無関係な事ではなく、成就している。

エルサレムの崩壊にしても、西暦70年頃に実際に成就している。

背教したユダヤ人とか、エルサレムの人々は最後の1人まで殺されてしまった。

我々は、事実に基づいて、これから起きる事を考えなければならない。

二の舞になって、同じように滅びてしまっては意味は無い。

明らかに終末の日に関してクリスチャンのポイントというのは、そういった背教の都を出て、仮庵の祭を行ない、また、荒野に逃げるとか、山に逃げよ、とか、明らかに背教の都を出よという事なので、我々はその事を新ためて捉え、正しい警告を受けていきたい。

 

2:27あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

 

これらのあらゆる事柄の、結論の様に、注ぎの油について書いてある事はよくよく捉えておく。

あらゆる偽りが、世の終わりには反キリストを通して来る。また、実際にここでひっくり返されるクリスチャンは大勢出て来る。

「神の宮の中で座を設け」とあるが、反キリスト一人だけでそこに座るわけではなく、そこにはクリスチャンが同意しているという事がある。

その様に、多くのクリスチャンが惑わされたり、インチキを掴む時代において、どこが大事かというと、まさにこの事が大事。「キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。」「それで、だれからも教えを受ける必要がありません。」という事。

「彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、」

世の終わりに関しても、誰からも教えを受ける必要はない。

世の終わりの時にはこの事が大事になって行く。

残念ながら公の教会はみんな口をそろえておかしなことを言いだす。

反キリストを「この人こそ真の神」だとか「今まではイエスキリストを信じていたけれども、あの人はペテン師だという事が判明しました」だとか。

その時に、いろんな人の意見を聞くと、混乱する。

我々が正しい方向に歩むには、ここに書いてあるように、「注ぎの油」がポイント。

「キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。」

「だれからも教えを受ける必要がありません。」というのは、意味があって書いてある。

この時、誰彼、この器、あの先輩、あの牧師とか、あの教団とか、そういった事を繰り返している人達は、皆惑わされるようになる。

しかし、人からの教えを受けないにしても、注ぎの油である聖霊に聞くという事を、訓練している人達は、いのちを永らえるようになる。  その時、クリスチャンの区分が出て来るというのを覚えておく。

今は、そこまでではない。

なので、立派な牧師とか、立派なクリスチャンの先輩とかのいう事には間違いは無い。

しかし、世の終わりには、そういう常識は通じなくなる。

だから、賢いおとめとか、愚かなおとめの話が出て来る。

その時に、油が留まっている人は、やはり、ちゃんとキリストを受け入れる事が出来る。

しかし、聖霊の油が留まっていない人は、結局愚かなおとめになって、ちゃんと出迎える事が出来なくなってしまう。なので、この事は是非訓練していきたい。

これは、世の終わりの時になると死活問題になる。

ヨハネが言うように、「だれからも教えを受ける必要がありません。」というのは、暗示している。

キリスト教界に右も左もインチキだらけという時が必ず来る。

そのような時に下手に人に聞いている人達は、結局は惑わされ、永遠のいのちを失ったりする。

聖霊の油に聞くという事を、今、訓練して行かなければならない。

そうした時に正しい方向に入って行く。

この事は是非覚えて行きたい。

大事な事は教えられる。

 

2:28そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

2:29もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。

 

キリストの来臨の時に御前に恥じ入るという事。

キリストを否定し、来臨の時に恥じ入ってしまう人がいる。

イエス様も「人前でわたしを恥じる者は、私も父なる神の御前でその人を恥じる」と言われた。これは、自己責任。

ヨハネの手紙には至れり尽くせり、終末の事に関して書いてある。

大事な事はみんな書いてある。

至れり尽くせりの親切な書である。

それでも見えない人には、見えなかったりする。

かなり大事な事が書かれているので軽視してはいけない。

我々はこういった警告を真摯に受けていきたい。