Ⅰヨハネの手紙2:920     2015.6.21

 

2:9光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。

2:10兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。

 

第一義的には、教会の兄弟姉妹を憎んではならないという事。

その様な事をしていれば、闇の中に入る。

ただ、「聖書は私について証をするものである」と、イエス様がおっしゃっているので、あらゆる所にキリストが隠れていたり、キリストが証されている。

なので、ここで言う「兄弟」とは、日本語で見ているとなかなか分からないが、英語などで見ると、単数、つまり一人の兄弟の事を言っている。 イエス・キリストのこと。

断言はしないが、この様な理解をしていく時に見える事柄もある。

十節では、「兄弟を愛する者は躓くことが無い」と書いてある。

福音書を読んでいて、イエス・キリストの事を学んでいく時に、理解できる事は、多くの人が、

イエス様に躓いたという事。

キリストは詩編でこれらのように預言されている。  「躓きの石となる」「妨げの岩となる」

そういう意味で言うと、ひっかけ問題のようなもの。

その時に、我々がイエス・キリストに躓くか否かという事は、クリスチャンとして歩んでいる時に、一番大事なポイントだが、イエス・キリストを愛している人、キリストを愛し、御言葉を行ない、御心を行おうと志している人は、頭は良くても悪くても、躓かない。

逆に、キリストの言葉を行なわなかったりする人は、躓いて行く。

キリストに躓かないという事柄が、クリスチャン生活においては、非常に大切なポイント。

未信者にとっては、イエス・キリストは躓き。  それは無理のない事。

しかし、そういう意味で、キリストを信じ、何はともあれクリスチャンになったのは、サバイバルゲームの中では立派なもの。しかし、福音書を見ると、律法学者やパリサイ人の様に、躓いて行っている人もいる。群集も結構躓いている。

最終的には、群集は殆ど躓いている。「十字架につけろ」

弟子であるイスカリオテのユダも躓いている。

「やはり、ナザレのイエスはペテン師だった」

しかしその中でもやはり、キリストを愛し、従ったペテロやヨハネは、躓かずに、イエス様に最後まで、正しい真理を見た。

イエス様が、「あなたは私を誰だと思う」ときいた時、ペテロは、「あなたこそ生ける神の子、キリストです。」と、大正解をついた。                            

なので、我々もこの言葉に従って、キリストを愛する歩みをして行きたい。

キリストを愛するとは、「私を愛する者は、私の言葉を守る」とイエス様の言われた通り。

キリストの言葉を行なっていく事が、まさに、キリストを愛する事であり、躓かない。

イエス・キリストに躓くのが普通。

キリストを信じ、神の子とされ、キリストの復活、再臨を信じる事が出来ているなら、これは、例外的な恵みに入っている事を認めるべき。大いに恵みの中に入っている。

キリストを愛し、その御言葉を行なっていく時、徐々に躓く要素がなくなり、躓かなくなって行く。これは真実。

また、「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。」とあるが、これも真実。

私たちには小さな力しか無いかもしれないが、「キリストを愛する」とは、御言葉を行なっていく事なので、一つずつ行なっていく時に、徐々に躓かせる暗闇は、消え去って行く。

逆にキリストの事をいろいろ言う人がいる。

律法学者やパリサイ人も色々悪口を言っているので、彼らは明らかに、に該当してしまう。

 

2:11兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。

 

彼らは盲目な導き手。

福音書を読む限り、例外なく、キリストを憎む者は、暗闇の中に落ち込んで行っている。

今のキリスト教界もしかり。

キリスト教書店へ行って、色々な難しい神学書を読むと、「この人はキリストを信じていないのではないか」という様な人がいる。「自分は他の平信徒みたいな学の無い、無知な年寄のクリスチャンとは違う。神学の最先端を行っている」というような者は、光の無い盲人。

神学者が、「キリストは復活していない」と平気で書いている。

キリストの言葉を愛してもいないし、行なってもいないから、闇の中に躓いているだけであって、我々から言わせれば、たとえ立派な神学者であっても愚かな盲人。

こういったポイントは見て行きたい。

 

2:12子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。

2:13父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。

2:14小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。

 

「御父を知ったからです。」とある。

「知る」という事も、聖書的には大事な事柄。

単に「見る」という事ではなくて、正しく神を「知る」という事柄に関して、聖書は重きを置いている。

「知る」という言葉は、アダムがエバを「知った」という事が、まさにそうであるが、そういう意味合いで神を「知る」という事。

是非、ここで言う意味合いで「神を知る」事が出来る様に、求めて行きたい。

神を知らないために、全く見当はずれな勘違いの教理を言っている人達は多い。

我々が本当の意味で、聖書を知り、神を知るという事は大事。

知らなければ、全く頓珍漢な事を言って、間違った結論が出てしまうので、「知る」というのは、大事な事。

14節で、「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」

若い者が悪い者に打ち勝った。我々は、悪い者に打ち負かされてしまってはいけない。

悪い者の惑わしは、いろんな形で来る。

悪い者の惑わしなどに打ち勝っていくというのは、我々の働きの一つ。

打ち勝つ時に、大事なポイントとして、「あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、」「そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」と書いてある。

なので、「神のみ言葉がとどまる」という事が、一つの勝利の秘訣であるという事を覚えて行きたい。

神のみ言葉が来たら、我々はそれをとどめなければならない。

御言葉がずっととどまる事にポイントがある。

御言葉が留まりづらいという事が、平均的にありそう。

我々は、意識してとどまって行くという事が、大事なポイント。

主は、御言葉をくださった。

レムナントにおいても、大事な御言葉をくださった。

一つの言葉は、「角笛」。

「角笛を吹き鳴らさずに、民の一人が倒されたなら、吹く者から血の責任を問う。」

なので、一生懸命角笛を吹いている。

エレミヤとしてもこういう言葉をもらっている。

エレミヤは「若いから、どう語って良いか分かりません」

主はわたしに仰せられた。「まだ若いと言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へも行き、命じるすべての言葉を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたと共にいてあなたを救い出すだろう。」

また、こんな言葉をも主は言われた。

「その時主は御手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに仰せられた。今わたしの言葉をあなたの口に授けた。見よわたしはあなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは滅ぼし、あるいは壊し、あるいは建て、また植えさせる」

この言葉に留まる事にした。

自分の人間的な力を見ると、弱いが、それはそれとして、主が任命されたので、これは語るしかないと思い、語るようにした。

もう十数年も前から、「エレミヤの部屋」「角笛」のホームページを作り、「艱難前携挙は間違い」などを言って来た。奉仕をしながら、ずっと御言葉に留まって来た。

すると弱冠ではあるが、情勢が変わってきている感じがする。いつもではないが、府中の京王線沿線。京王線の始発は新宿にある。時々新宿に用事があり、新宿にキリスト教書店があるので、時間のある時は10分でも20分でも少し寄って、見て行く様にしている。

今のキリスト教のトレンドは何か、などを見る。

終末について書かれた本を、時々チェックしていく。

そうしたらこの様な本があった。日本で、「艱難前携挙説」を語った有名な人がいる。

誰かというと高木慶太という人(もう亡くなっている)、その人と一緒に協著した人がおられるが、その人が本を書いている。「艱難前」の本などを書いたりしている。

その本には『最近、艱難前の教理に反対するような本が立て続けに出て来ている、この状況を憂いている、情勢が変わって来たので、再度私はこれを(艱難前携挙説に立つ本)書いている』

つまり、情勢が良くなっている。

かつてはそうではなかった。

「エレミヤの部屋」を立ち上げたころなどは(今から156年前)、右も左も「艱難前」一色だった。でも、徐々に徐々に変わって来た。言葉に留まって良かった。

主の言われた言葉に、ずっと、留まって来た。その中に留まっていく時に、正しい事を言ってる時に、情勢が変わって来て、御言葉の通りに代わってきた感じ。

逆に、主からの言葉を退けたら、それきりになってしまう。

神の言葉が、我々に留まるという事は、非常に、四方に引き継がれるという事を覚えておきたい。 留まらないのが普通。

留まるところにポイントがある。「剣が手から離れない」、これは、留まるという事。

御言葉を離さないなど。やはり、御言葉にとどまったという事。

これが勇士。勇士という事は、皆が皆そうではない。百人兵隊がいて、百人共勇士という事は無い。勇士は数少ない。百人のうち97人は、脱落したり、逃げたり、剣から手を離してしまったりというのが普通。

しかし、ダビデの三勇士は、特別に留まったから、三勇士。

これは、例外的な事柄。

なので、我々は、御言葉に留まるという事が勇士の一つのポイントなので、一人一人に、主はいろんな言葉を下さるが、是非留まるべき。そうすれば勇士として勝利を得、業を見るようになる。

 

2:15世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

 

だから、我々はクリスチャンとして、この世に対しての態度というのを、はっきりと定めなければならない。

聖書の方針というのは、はっきりしている。「世にあるものをも、愛してはなりません。」

「もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」と書いてあるし、KJVを見ると、「神の愛はありません」「父を愛する愛はありません」とか書いてある。だから、我々自身も、世の中を愛するようになると、神を愛する愛が失せて行ってしまうかも知れない。また反面、我々が世にどんどん入って行く時に、神ご自身から我々への愛と言うものが失せて行ってしまうのかも知れない。

どちらにしても愛が失せて行ってしまうという事柄。

なのだが、我々は、世にいる。

なので、我々は他の事がある。世を用いる者は、用いすぎないようにとの限度は必要。

どんどん深入りし過ぎてしまって、ミイラ取りがミイラになってしまうのではダメ。

全くこの世から出て行くというのも、間違い。

限度というものは大事。

 

2:16すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

2:17世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。

 

ここで書いてある事は、聖書を読んでいる限り、信仰の歩みの中で、我々クリスチャンの歩みの中で、聖書がはっきり語っている事はね我々は自分の欲をどう対応するかというのは大事な事。他のみ言葉には、「たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい」と書いてあるので、我々は、肉の欲とか、この世の欲という事に関しては、きれい事ではいられない。

これは、どんなクリスチャンでもやはり、こういったものが妨げになったり、足を引っ張って行く。

また、ガラテヤ書にはこう書いてある。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

また、「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」

どちらかである。  我々は、御霊の実を結んでいこうという時に、必ず妨害になって来るのは、

肉の欲、目の欲など。

こういった事は真面目に考えて行かなければならない。

三つの欲の事が書いてある。

肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢。

たびたび聖書の中でこういう事が書いてあるので、我々はこの三つの欲、こういった事をクリスチャンとして、正しく対応していくという事が、我々が妨げられることなく、クリスチャン生活を送って行くうえで、非常に大事だという事を覚えておく。

この三つは、エデンの園でエバがやられてしまった三つの欲望に対応する。

エバは、「見るに良く」・・・目の欲

「食べるに良く」・・・肉の欲

「賢くなる」

エバは、倒されてしまったが、それは他人事ではない。

我々の学びのために、あのような事が書かれている。

まず、「見るに良く」、そのあたりをエバはサタンに示された。

なので、こういった、見栄えに引っ張られて行く事がある。

今の時代は、整形がはやっている。

なので、「見る」という事柄、こればかりに力が入ってしまうのはダメ。

これは、サタンの罠。今は増々そうなっている。

「食べるに良く」というのは、肉体に伴う事柄。  食欲など。

それをもってサタンが引っ張って行く。

エバに関しては、食べ物につられている。

肉体に伴う事柄に関してのサタンの誘惑が来る。

これは、御父から出たものではない。 「欲」は神から出たものではない。

お腹が空くと体が食物を求めるようになっているが、それに異常に引っ張られるのは、神から出たものではない。  サタンからの惑わし。

そういった事柄に関しても対応して行かなければならない。

もう一つ、「賢くなるにふさわしい」、今で言うなら一流の学校に入る、成績トップのお嬢さん。そういう評判を得るという、その類の欲。

それは、今の、ヨハネの手紙では、暮らし向きの自慢とか、英語ではプライド。

人のプライドをくすぐって、欲に持って行くというサタンの方法がある

クリスチャンでもこれにやられてしまっている人達がいる。

「暮らし向きの自慢」にはいろいろある。「立派な豪邸を建てた」とか、「一流の学校を出ている」とか「一流の会社に行っている」とか、ずっとこれに引っ張られて行ってしまうと、結局惑わしに入ってしまうという事がある。

なので、我々が、御心の伴ったクリスチャン生活を送って行く中で、サタンに足を取られないためには、こういった事から自由になって行くという事を覚えておく。

クリスチャンになっても「暮らし向きの自慢」に傾倒していくと、どこかで足を引っ張られて行くという事を覚えておく。

この事を見ながら、イエス様の事を考えてみた。

イエス・キリストは、神の子として地上に下ってきた時、どういう家に生まれて、どういう暮らしをし、どういう学歴を経て、どういう役職につくのがふさわしいと思うだろうか。

イケメンがいいか、背も高く、どこから見てもハンサムで、目もパッチリしていて、それとも、

不細工な男がいいか、そういう意味でも、我々の予想を裏切っている。

イエス様には暮らし向きの自慢の要素が殆どない。

エリートの家には生まれていない。

なので我々も、「無いから」と文句を言わない事。

イエス様については、イザヤ書に酷い事が書かれている。

 

イザヤ書

53:2彼は主の前に若枝の様に芽生え、砂漠の地から出る根の様に育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

 

Ⅰヨハネ

2:18小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。

2:19彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。

 

ここに書いてあるように、反キリストと言うのは、教会と無縁ではない。

決して、仏教、イスラム教、幸福の科学、創価学会からも反キリストは出てこない。

逆に、キリスト教界から反キリストは出て来る。

統一協会や物見の塔も反キリスト的、またカトリックも、反キリスト的な面がある。

なので、明らかに反キリストが現われる時は、必ずキリスト教界から出てくる。

そして、キリスト教的な事を言う。

その時、この世についたクリスチャンや、目を眩まされた人達は、「本物」と思ってしまう。

聖書の言葉を使う。  反キリストが惑わすのはクリスチャン。

クリスチャンが惑わされて永遠のいのちを失う。

それが反キリスト。

この事は覚えておく。

 

2:20あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。

 

聖霊が教えて下さるならば、見分ける事が出来る。