Ⅰヨハネの手紙4章11~21             2015.7.26

 

 

4:11愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

 

「これほどまでに」というのは、前の節に書いてあるように、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

御自分のたった一人の御子を犠牲にしてまで、我々の罪を赦す道を神が備えられたという事。

その様に我々は神に愛されているので、私たちもまた互いに愛し合うべき。なのでクリスチャンの一つの基本として、愛し合うべきだという事柄は心に留めておく。

今のキリスト教界では、何かと愛が強調される。

「愛する」という事に関して、色んな概念があるけれども、「愛」というのは、寛容であると思われる。寛容というのは、相手のあらゆる事に目くじらを立てるというよりは、色々な人がいるので、こちらで歩み寄れるところは歩み寄るという事。  なので、パウロも、ユダヤ人にはユダヤ人の様に、ギリシャ人にはギリシャ人の様に。

 

4:12いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 

我々が愛し合うなら、神の愛が我々の内に全うされる。

 

4:13神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

4:14私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています

神が、御子を世の救い主にして下さったのだが、それと共に、私たちに御霊を与えて下さった

という事を覚えておく。

 

ヨハネによる福音書

14:16わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

 

御霊を遣わすという事に関して見て行きたい。

この「助け主」は聖霊。

聖霊は、もう一人の助け主。

元々の助け主とはイエス・キリストの事。

なのでこの事を通して、イエス・キリストというお方の働き、また、聖霊という方の働きを我々は理解する。

イエス・キリストが地上に来られてなされた事というのは、我々の働きを助ける働きをなされた。その様に聖書に書かれてあるし、実際にそうであった。

福音書にはいろいろな事が書いてあるけれども、生まれつきの盲人も、イエス・キリストによって目を癒された。

また、耳の聞こえない人も聞こえるようになった。  足なえで歩けない人も癒されて歩けるようになった。

肉体の目ももちろん見えるようになったのだが、喩えの意味合いもある。

主はその様に、弱い人を、病の人を助け、また、5000人の給食の時には、腹の空いた人にパンを与えた。  これも喩えがある。

パンは御言葉の喩えであり、必要なメッセージの喩え。

イエス・キリストの福音書を通して、理解しなければいけない事は、キリストは地上におられた時に、人を助けるために来られたという事。

肉体を持たれたイエス・キリストというのは、どう考えても限られた事にすぎないという事も事実。そういう意味では有限。 地理的にも時代的にも有限。

イエス・キリストは聖霊の型。 本番は聖霊。

イエス・キリストが肉体を持って歩まれた歩みというのは、聖霊の働きがどうかという事を実は、福音書には、聖霊の働きを、我々が理解するために、喩えを持って書かれている。

もちろん諸々の癒しは実際にも起きた事。

キリストが癒された生まれつきの盲人の目を開けるというのは、我々が生まれつきの盲人であって、霊的に見えないとしても、もう一人の助け主、すなわち聖霊が、我々の目を開ける事が出来るという事を示している教え。  足なえが歩むというのも、聖霊が、我々が信仰の歩みが出来なくても、それを立て上げることが出来るという事に関してのこと。

これは、生涯を通しての喩えであり、教え。

肉体を持っていたイエス・キリストとは同じ時代には生きていない我々が注目すべきお方は、聖霊である。   これはクリスチャン生活の基本の基本であり、初歩の初歩。

問題は、このようにして、神の御霊を与えて下さったので、我々が、「もう一人の助け主」に期待するなら、福音書で、キリストを通して、見たような奇蹟を見る事が出来る。

信じる人だけが見る。信じない人は見ない。

良い例が長血の女。  イエス・キリストの周りに群衆がひしめき合っている。

しかし、信仰を持って触ったのは、長血の女だけ。

今も、「もう一人の助け主」は来られているが、本当の意味で、助けとか癒しを受けるのは、

信仰を持って触る人のみ。

「神は私たちに、御霊を与えて下さいました」・・・この事は非常に尊い。

我々は、「もう一人の助け主」によって、クリスチャン生活を与えられて行き、助けられていき、この方に聞いて行くなら、入るべき天の御国に入る事が出来る。

終末の時代の問題というのは、かつての日、救い主、そして助け主として来られた、イエス・キリストを、恩を仇で返して、捕まえ、裁判にて有罪にし、しかも死刑にて殺してしまった。

そうであるが故に、当時のユダヤの民は、神の怒りに遭い、裁きによって滅んでしまった。

残念な事だが事実なので見て行かなければならない。

世の終わりには、この十字架が再現されるという事。

黙示録の中で、「ソドムやエジプトに喩えられる都で彼らの主も十字架につけられた」

ここに出て来る「主」とは「もう一人の助け主」である聖霊をさす。

なので、黙示録13章で、つけられる獣の印とは、悪霊の印。何故なら、聖霊を追い出して、

当然のような結果として、悪霊の刻印をつけられるというのが、まさに聖書が語っている事。

結論としては、我々は、今まで通り歩めばよいが、聖霊に聞き従っている人はますます聞き従って行けば良い。  その辺が危ない人は悔い改める事。  霊を吟味して試して歩んで行きたい。

聖霊が「助け主」であるというポイントは、正しく捉えて行きたい。

 

Ⅰヨハネ

4:15だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

 

クリスチャンになるのは簡単。

「イエスを神の御子と告白するなら」誰でもクリスチャンになれる。

クリスチャンになるハードルは低い。

我々はクリスチャン生活を歩む中で、そういう機会があると思うので、「絶対ない」とは言わないで、「どうしたら人はクリスチャンになるか」という事に関しては、一応の心を覚えておく。

エレミヤ牧師は、高校生でクリスチャンになった。

その後、教会でキャンプに行った。その時に知り合った、大学生の人がいた。

その人は、まだクリスチャン未満だった。まだはっきり、キリストを信じていなかった。

エレミヤ牧師とテントで同室になったのは、何かの縁だと思い、その人が信じる気持ちを持っているので「何かの助けになれば」と思った。当時エレミヤ牧師はクリスチャンになったばかりだった。「人をキリストに導く」とか、「伝道する」とかはよく分からなかった。

どうしたものかと知恵を絞り、結論は、牧師さんたちがいるテントに、彼をその部屋に連れて行くことだった。そこで牧師さんたちのお話を聞いてもらうためだった。

23回連れて行った。最後に牧師さんの1人が導いてくれて、祈り、「イエスを神の御子と告白」したりした。

それを契機に、彼はクリスチャンになった。

その時、クリスチャンになるのはそれほど難しい事ではないと学んだ。

なので、覚えておくべき事は、言葉の通りに行なえばいいという事。

もし、クリスチャンになりたい人とかなりそうな人に出会った時には、促してみるのも良い方法かも知れない。  ただし、「強制」になってはいけない。

我々自身が分かっていなければならないのは、書いてある通り、「イエスを神の御子と告白するなら」誰でもクリスチャンになれる。  なので、簡単。

一緒についてお祈りしてあげればよい。

そういう方法は覚えておく。これは大事な事柄。

 

4:16私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

 

4:17このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

 

我々は一つは、クリスチャンの常識として、我々がクリスチャン生活を送っている時に、いつも気にかけなければならない事がある。

それは、「人には一度死ぬ事と、死んだ後さばきに会うことが定まっている」と書いてあるように、我々は、必ず一度、どんな人であっても、死んだ後、神の前に出て裁きの座に立つ。

学校の試験の様に追試があるとは限らない。

そこは、嫌な事かも知れないが、我々のクリスチャン生活は、聖書を読んでわかる事は、自由な生き方がしたいとかがあるが、どの様な人もいずれ神のさばきに会う。

そういう意味では、裁きをクリヤ出来ればいいのだが、もし足りないと、追試は無いと思うので、そのあたりを覚えなければならない。

裁きの日を目指してクリスチャン生活するのが正しい。

オリンピック選手は、オリンピックを目指して一生懸命練習する。

「私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。」

大胆さを持っているというのは、試験の日に余裕であたるという事。

神の裁きの日に、大胆さを持つことが出来るとはそういう事。

大事なポイントがここに書いてある。

「なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」

ここは理解すべき。

我々が、キリストと同じような歩みをして行くならば、裁きの日に遭っても、オタオタする必要は無いという事。

我々がその裁きの日に、恐れることなくその日を迎えるつもりがあるならば、我々が目指したことがいいと言う事は、キリストと同じような歩みをしていく事を心がけていく事が大事。

イエス・キリストは、どの様な歩み方をしたかというと、主は、この世での持ち物とか、自分の評判などを失う、失わないかという事は意に介しておられなかった。

カリスマ的な人気を持っていたが。

パリサイ人や律法学者に対して、「蛇よ、まむしの末よ」と言うべき事を全て言っていた。

これは、ただ悪口を言ったのではなく、彼らが救われるために、悔い改めるために言っていた。

そういう意味で、キリストと同じ歩みをして行きたい。

それが裁きの日に、大胆さを持つことにつながって行く。

レムナントについていく時に、あまりいいことがこの世にあるかどうかは分からない。

色々悪口を言われたりすることがあるかも知れないが、この世の評判に目を留めるのは意味の無い事だと思う。

イエス様は、この世の持ち物とか、場合によっては肉体の命さえ気にしていなかった。

本当に、自分の健康とか、体の事を気にしている人とっては十字架にかかって槍で突き刺されるなどとんでもない事。

イエス様は、それをも気にしていなかった。

しかしそれは結果として、裁きの日に大胆に立つ事が出来る。

我々も、出来ないながらも、それを見倣って行きたい。

その先が、我々は、裁きの日に大胆に立つ事が出来る。  その様な日が待っている。

 

4:18愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

4:19私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

4:20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

4:21神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

目に見える兄弟を愛していくという事。

出来ないながらも、この事を実践していきたい。

自分に出来る行ない、自分で出来るケアをして行きたい。

また、レムナントを通して、終末の仮庵の学びとか、「学びたい」という人には、そういう道も開きたい。

それは、目に見える兄弟姉妹を愛することにつながる。

どんな言葉も実践していく。 その中に、その先に我々は入るべき御国があり、永遠のいのちをゲットする道がある。

これを求めて行きたい。