Ⅱコリント人への手紙4章 2012.4.1,4.8

 

4:1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、

この務め:(英語:ministry)

神の憐れみによって務めに任じられるなら恵みを受けたり助けを受けたりする、しかも、そのことには報いがあり、永遠のいのちに入っていく

それぞれの人が、任命された務めを忠実に行っていくときに、知識・教えを得るという恵みがある

 

4:2 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。

務めに関して色々とある、しかし、価値があるから妨害がある

しかし、誇りを持つ

1節の「この務め」とは、パウロの務めのこと、具体的には、メッセージのことなど

 

「恥ずべき隠れた事を捨てる」

隠れた罪を捨てる

そのような罪があるときに、神の前に支障をきてしてしまう、ピント外れになる

人にはバレなくても、神の前には、すべてが明らか

Ex:パリサイ人や律法学者は、人々からは尊敬の眼で見られていた、しかし、神の前には「白く塗られた墓」だった

隠された罪があるときに、彼らのように、致命的な間違いをしてしまう

 

「悪巧みに歩まず」

参照 Ⅱコリント11:3

11:3 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

このことは、蛇の悪巧みと同じことを言っている

奉仕者に任じられていると言いながら、蛇のような教理を語っているメッセンジャーがいる、これはNG

Ex:パリサイ人や律法学者は、悪い意味合いでのメッセンジャーの型

参照 マタイ23:33

23:33おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

 

蛇は神のことばを巧妙に曲げる

そして、そういう奉仕者が多い

Ex:艱難前携挙説は、いのち(永遠のいのち)を失う

終末のインチキの教理は首尾一貫している

Ex:獣の国はヨーロッパであるという教え、しかし、これはインチキ

蛇にずっと従っていくときにいのち(永遠のいのち)を失う

悪巧みに入ると、警告が意味しなくなり、いのち(永遠のいのち)を失う

 

「神のことばを曲げない」

このように書かれている以上、神のことばを曲げる人がいる

皆が皆、警告を聞くわけではない

インチキを唱えたり、曲げる人が多い

しかし、警告を受ける人は恵みを受ける

 

「真理を明らかにする」

聖書の中に多くの真理が隠されている

覆いが、かけられている

しかし、メッセンジャーは隠れた真理を明らかにし、人々に伝えていく

明確に分かりやすく、伝える

まだ、見ていないことを見て、それを伝える

真理が明らかになっていないので、語っていく

 

「神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦する」

パウロは自分を推薦した

私たちも自分を推薦したり、人々に推薦されるように努める

本当に啓示が開かれたり、正しい教えがきたりしたら、人に推薦したり、推薦されたりする

神の前に、人を推薦したり、推薦されたりすることは大事なこと Ex:セミナーの感想

メッセージをするときに、そのように語る

そうしていくときに、他の人が真理をみるための助けになっていく

 

4:3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。

4:4 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

パウロの語った福音に関して、ある人は覆いが外され、受け入れ、ある人には、覆いが掛けられ、受け入れなかった

滅びる人のために、覆いが掛かっている

パウロの福音ですら、見る人と見ない人がいた、そういう点については、とらえておく

しかし、それは仕方の無いこと

覆いが掛かったままだと、滅びに一直線になる

このことに関して、慄然とする

悟るべきタイミングで応答しないと滅びに入る

4節の「不信者」というと、一見、このことは、未信者のことだけを指すように思われるが、クリスチャンのことも言われている、すなわち、覆いが掛けられているのは未信者だけではない

Ex:パリサイ人や律法学者も、サタンによって惑わされた

ゆえに、「不信者」とは、クリスチャンのことを言われている

この世の神によって、牧師や教師に覆いが掛けられている、しかし、その先は、滅び

真理を掴んでいるようでいて、嘘や偽りを掴んでいる

Ex:パリサイ人や律法学者たちは、「私たちは盲目なのですか?」とイエスに質問している、それに対して、「あなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」と、イエスは答えた

このことを通して語っているのは、未信者だけでなく、真理を見ているはずの神の民であるクリスチャンがサタンにくらまされて、インチキの終末教理を掴んでいることを言っている

 

4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

あまりにも多くの働き人が神のことよりも、自分のことばかり、しゃべっている

自分自身を伝えているメッセンジャーが多い

そうなりやすいので、気を付ける

どこまでも、神を中心に語る

イエスを伝えられれば、OK

 

4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

参照 創世記1:3,4

1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

1:4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。

 

闇があったけれとも、光ができる

真理が閉ざされている(知識に関して闇がある)が、正しい知識を与えてくださる

 

4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

土の器の中に入れているのです:土の器は、素朴、しかし、大変な宝が入っている

弱い器ということは関係無い、中に入っているものが大事

教会でも人間的なことが言われやすい(人間的な才能や能力等)

人間的な部分や力ではなく、主御自身の力が大事

人間的なことばかりに、とらわれることにポイントは無い

 

4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

神の働きを担うなら、こういうことは、当然起きる、これは聖書の真理

聖書の原則:悪いことをして責められるのは当たり前、しかし、良いことをしているのに苦しめられる、これが聖書で言われている普通のパターン

御心を行っていくときに四方八方から苦しめられることが来る

それでも、主の働きを続けていく、やめることに御心は無い

大事な部分に敵が殺到する

大事なポイントをつかんでいるから、四方八方から苦しめられる

しかし、たとえ、逮捕や迫害をされても見捨てられることはない

 

4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

このことを正しく理解する

イエスの死を身に帯びる

メッセージを通して、いのちに働く

効果的に死が働くなら、イエス・キリストのいのちが私たちを通して他の人に働く

自分のいのちを、かたく保っているなら、イエスのいのちが出てこない

そういう類のクリスチャンがいる

キリストのいのちに触れたという感覚が無い

人間性、個性になっていないかどうか?よくよく注意する

イエスの死を身に帯びることを実践していくときに、実態をみていく

自分を死にわたす→イエス・キリストをあらわす

イエス・キリストに頼り、イエス・キリストをあらわす

 

4:13 「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。

4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

肉体の体は衰える、これは、仕方が無い

しかし、祈りによって、霊的な事柄は強められる

このことに期待する

 

4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

本当に神の働きをするなら、艱難は避けられない

正しく主の御心を行っていくときに艱難は避けられない

批難する人は、自分か正しいという感覚で言ってくる

御言葉における艱難は受けて当然と考える→このことを拒否するなら、別の人に働きが行く

Ex:イスカリオテのユダが主からの任務を拒否して堕落したため、マッテヤが代わりに選ばれた

このことは、重い栄光をもたらす

主の言われた奉仕の中で艱難を受けることを甘んじて受けていきたい

Ex:批難を覚悟で暗号のこととかも言う

重い栄光を望むなら、軽い艱難は避けられない

軽い艱難を受けた人は、のちに、重い栄光を受ける、このことを選んでいきたい

 

4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

このことについて、信仰が必要

パウロは、今のことを見ていない、のちのことに目を向ける

たいていの場合、目に見えるものを選んでしまう

Ex:教団の理事になる、大きな教会の役員を目指す等

名声は一時的、しかし、後の世に残る働きを目指していきたい

見えないものを見ていきたい

本当に神の働きを担った人は、地上で目に見える報酬を受けていない

Ex:イエス様も何もかも奪われた、パウロは使徒と呼ばれなかった

これは、聖書の原則

見える形での報いは来ない

あまり、目に見えるところばかりに力点を置くと、行き詰ったり、ずれたりする

のちの世に向けて、働きを担っていきたい

人の評価は一時的、だから、目に見えないものを見ていきたい