Ⅱコリント人への手紙5章 2012.4.15,4.22

 

5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。

幕屋:肉体

こういったことに関しても、名目だけでなく、聖書を基準にして歩んでいきたい

肉体は大事、しかし、将来住む天の建物に比べたら、テントのようなもの

クリスチャンであっても、目に見えるところしか見えないということがある

私たちの持っている肉体は非常に大事、しかし、これは地上だけのもの

後にもらう建物が大事

地上のテントも一時的なように、肉体のことも一時的

今の肉体に一喜一憂しない

こういう点に関して本末転倒になってはダメ

肉体の命に対するおびやかしが来る、そのときに正しく対応する

私たちの肉体は仮の住まい、後の世の住まいが本題

このことを正しくとらえておく

「幕屋にあってうめき」→肉体に伴って、痛みや悩みや問題がある、そういったことが、信仰の歩みを引っ張ることについては、理解しておく

しかし、「天から与えられる住まい」、すなわち、「永遠の体」に目を注ぐことが大事

 

5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。

私たちの滅ぶべき肉体が復活の体にのみこまれていく

肉体は一時的、だから、信仰の本質が惑わされてはダメ

肉体のいのちは必ず滅ぶし、老化する

しかし、永遠のいのちに、のみこまれていく

そのあたりを、ひっくり返されないように気をつける

 

5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

保証:手付金

復活の体、永遠のいのちにかなう者にしてくださるのは神

しかし、クリスチャンが皆、それにかなうわけではない

認められなかったり、ふさわしくなかったりする人がいる

 

参照 ルカ20:35

20:35次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません

 

復活の体、永遠のいのちに関しては、聖霊の言うことを聞かない人には成就しない

正しく聖霊の声に聞き従う

 

参照 民数記27:15-20

27:15 それでモーセは主に申し上げた。

27:16 「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、

27:17 彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」

27:18 主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。

27:19 彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。

27:20 あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。

 

一人の人が先立っていく

ヨシュア:イエス・キリストのこと、すなわち、聖霊に関するたとえ

聖霊の声に聞き従っていくときに、約束の地に入る

通常では入れない地に入ったり、得られない永遠のいのちを得たりする

聖霊の声に聞き従っていく中で、天の住まいは成就する

そういう中で神様が真理を教えてくださる

従わないときに、的外れなものや別のものをつかんでしまう

的外れなことが右にも左にもある、ゆえに、いのち(永遠のいのち)への道は狭い

しかし、難しいことも、聖霊が教えてくださる

どんな場合でも、聖霊の声に聞き従う→例外的に真理を見る

 

5:6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。

聖霊の導きは心強い

肉体にいるとき→キリストから離れている、だから、ある程度、努力しないと主に近づくことができない

普通にしていたら、キリストから離れていく

ある意味、無理な努力をしていかなければいけない

具体的には、祈り、聖書を読む

そういうことにおいても、道は狭い

頭で理解するだけでなく、体で理解する

知的な事柄ではなく、肉体的な事柄であることを理解する

肉体をもって、主に仕えていく

祈らないと、惑わされていく

 

5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

見えるところではなく、信仰によって歩む

見えるところを見るのか?見えない神を見ていくのか?という選択がある

そういう決断に迫られることが何度もある

見えるところによって歩むか?信仰によって歩むか?の選択がある

選択の結果、歩む方向が決まる

その延長線上に永遠のいのちがある

これからクリスチャンの信仰の揺るがしがくる

信仰によって歩んでいる人がとどまる

 

5:8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。

5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

主に喜ばれる歩みをする

なぜなら、善であれ、悪であれ、肉体にあってした行為によってさばかれるから

悪いことをしたら悪い報いを受けてしまう

さばきのポイント:肉体にした行いによって報いを受けてしまう

さばきは、テストみたいなもの→良いことには良い報い、悪いことには悪い報い

だから、主に喜ばれる歩みを肉体によってしていくのがベスト

そうすると、良い報いを得る

肉体で行ったことはこの世でも報いがくる Ex:働けば給料をもらえる

キリストのさばきの座に立ったとき、サボっていたら、何も、もらえない、悪い報いがきてしまう

主の前にサボらないこと!!

肉体をもって主に仕えていく、罪の誘惑を避けていきたい

主のよろこばれるような奉仕を祈って求めていくときに、神様から教えていただける

そのようなことをまじめにとらえる

 

5:11 こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。

「私たちは、主を恐れることを知っている」と、あるように、パウロは主を恐れることを知っていた

でも、今の時代、この世の人もクリスチャンも、神を恐れるというとについて、あまり、知らない

しかし、主を恐れることは大事

主を恐れることを知ることは大事、そうでないと、恐れ無しに、罪に入ってしまう

人前はともかく、神の前に正しく歩んでいく

「私たちのことは、神の御前に明らか」の部分は、KJV訳では、「神の御前に知られている」と書かれている

人は見落としがあるかも知れない、しかし、神様は覚えている

お一人一人に起きてくることについて、スペシャルに神様は介入されている

起きてくることは、その人にとってスペシャル

神の御前に知られているゆえに、大事なことが起きてくる、必要に応じて、トラブルが赦されたり、主からの学びや叱責がある

 

5:12 私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。

「うわべのことで誇る人たち」というパターンが教会の中である

今でも、あるかも知れない Ex:立派な神学の学位を持っている、だからすごい!!ということ等

しかし、このことには、意味が無い

 

5:13 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

「気が狂っている」→神のために、気が狂っている

人に、そのように見られることがある

しかし、聖書的には、誉め言葉

正しく御言葉を行って、神のために気が狂っていると言われるのは、仕方が無いこと、そして、これは、誉められるべきこと

 

5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

「あるべきクリスチャンの姿」について、ここで、パウロはおすすめをしている

私たちのために、キリストは、いのちを失った、このことは、霊において、正しく理解する

個々の人に対して、死んでくださったというのは、事実

だから、キリストのために生きていくのが、あるべき姿、キリストのために、用いていくのが、あるべき姿、そうしていくときに、祝福の歩みに入る

限られた時間やお金やエネルギーを使う、それが、あるべき姿

そのように生きていくときに、あるべきクリスチャン生活に入っていく

しかし、このようなことは、世の中とは、逆説的

でも、見えないところによって歩むことが益となる

実践していない人には、このことが分からない

 

5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

人間的な考えで人を知るのは的外れ、違う

 

5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

生まれつきのものは変わらなくても、キリストに頼っていくときに、強められたり、変えられたりする

 

5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

19節の後半「和解のことばを私たちにゆだねられた」と書かれているように、神は、罪を犯している人との和解を求めている

そのときに、人を用いる、それが神の方法

20節「私たちはキリストの使節なのです」とあるように、私たちに和解の方法を委ねている、すなわち、このことは、神から、私たちに委ねられていること

神は和解のことばを人々に語ろうとされている Ex:ニュースレター

ゆえに、忠実に行う