Ⅱコリント人への手紙6章 2012.4.29,5.6

 

6:1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。

「神とともに働く者」とパウロは言っている

その時代における神の御心の働きのほとんどは、パウロによって、なされた

このことは、書簡が物語っている

神がパウロに色々なことばを授けたので、会堂で語った

神が人を用いるというのは、実際にあること

自称、神の働きではなく、本当に神の働きか?と、いうのが大事

実際に神の働きを担うことが大事

神とともに働くのは大事、貴重なこと

「神の恵みをむだに受けないようにしてください」と言われているということは、神の恵みがくるけれど、むだに受けて、台無しにしてしまうということが往々にしてありうる

なので、注意深く、恵みを受けていきたい

むだにされているということに、結構、人は気づかない

Ex:イエスの恵みをその時代のほとんどの人はむだにしてしまった、本質を逃してしまった、イエスを目の前にしながら、あるいは、直接イエスの語るメッセージを耳にしながらも、ほとんどの人が身にならなかった、そして、パウロの働きも同様といえる、皆が皆、正しく恵みを受けたわけではない

レムナントキリスト教会も真理を語っている、しかし、大半がむだになっている

イエスのときも、4千人、5千人いたが、残ったのは、わずかだった

もっとも大事な恵みは意外と逃しやすい、惑わされてしまう

Ex:ニュースレターを拒否する

本当に大事なものは惑わしがくる

神にあって、大事なものを求めていきたい

 

6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

神は恵みのとき、救いのときを与えてくださる

しかし、それは、永遠に続くわけではない

時は限られている

 

参照 イザヤ書61:2

61:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、

 

恵みの年が終わると、すぐに復讐の日がはじまる

恵みの年が終わると、災いのときが来てしまう

恵みの年はいつまでか?

暗号では、2010年と言われているが、聖書から正確なことをみていきたい

 

参照 ダニエル書9:24

9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。

 

神の民に対して、70週が定められている

ぴったり、この数が合うわけではない

しかし、70週といわれていて、それを聖書は使わなければいけない(70×70)

たとえば、ペテロがイエスに、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」と質問したときに、イエスは、「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」と、言われた

ゆえに、70週というのは、兄弟の罪を神が憐れみをもって、赦し、耐えて、恵みをもって対応するときといえる

しかし、キリスト教会では、別のことを言っている→「無限に赦す」と、しかし、聖書には、そんなことは書いていない

70週を1週でも越すと復讐のときになり、さばきに入る

 

参照 ダニエル書9:26,27

9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。

9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

 

26節「洪水」:悪霊の洪水

70週」:神の忍耐が尽きるときは荒廃

27節「1週」:7年の艱難時代

〃 「半週」:3年半の大艱難時代

〃 「忌むべき者が翼に現れる」:神殿の中心に反キリストが出てくる

神の愛にも必ず、限界がある

26節「油そそがれた者は断たれ」:神のさばき、70週が成就して聖霊に導かれた人が殉教する

殉教以降、さばきに入る

もう、恵みのときが終わりつつある

 

6:3 私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、

6:4 あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、

パウロは自分の務めを非常に大事に思っていた

正しく全うするために、そしりを受けないために、人に対して、正しく行動していた、行動をおさえていた

神の務めを任じられたとき、働きだけでなく、人を見る

神の働きに関して、私たちのことは切っても切れない

パウロは自分自身を神のしもべとして推薦している

本当に私たちが神の働きを行なっていくなら、自分を律し、推薦するように(知れ渡っていくように)祈り求めていかなければいけない

神の働きを進めていくために、働きを推薦していくというのは大切なこと

たとえば、出版の働きに関して→推薦されて、公表されて、書店に置かれて、人がはじめて見る

 

6:5 また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、

6:6 また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、

こういうこと(忍耐)を通して、推薦する

悩みと苦しみを通して推薦される

聖霊の働きを通して推薦される

レムナントキリスト教会の人を通して、真理を見る

 

6:7 真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、

 

今の時代は、真理が隠され、見えないとき

Ex:艱難前携挙説

真理を見て、正しく言う→人々が真理を見る

真理のことばを正しく見るかどうかで、人は判断する

 

6:8 また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、

「そしられたり悪評を受けたり」と、書かれているように、なぜ、神のしもべがそのような目に会うのか??

でも、それは、聖書的

イエスも、「みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。」と言っていた

本当の神の働きは、そしりを受けていく

神のしもべはそしりを受ける→この世的な標準とは違う

どんなに誠実を尽くして正しく行っていっても、そしりを受ける

悪評を受けるのは、聖書の1つのパターン、ありうること

本当に真理なら、通るべき道

「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、」と書かれているように、当時の教理とパウロが語っていることがあまりにも違っていたために、騙すように見られてしまっていた

 

6:9 人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、

良いことばかりではないことが推薦に含まれる

神のしもべの評判はこんなもの

しかし、そうではあっても、誠実と忠実を尽くす

正しいゆえに、妨害がくる

 

6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

霊的な富がパウロには与えられている

たとえ、物質的には恵まれなくても、霊的な富、信仰が与えられるように、祈り求めていきたい

もし、どちらかしか取れないのなら、霊的な事柄を取っていきたい

 

6:11 コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。

6:12 あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。

自分の心(ギリシャ語の原語):

「腹」とは、わたしたちの感情、欲望のこと、このことが歩みの制約をしている、歩みに制限をくわえている、しかし、このことがクリスチャン生活をめいっぱい左右させる、クリスチャン生活を大いに妨害する

わたしたちが強い欲望、欲求にひっぱられていくなら、歩みがとどめられてしまう

「奴隷はいつまでも家にいるのではありません、しかし、息子はいつもでもいます」とキリストが言われたように、クリスチャンの実質がなくなり、いつのまにか、サタンの息子になってしまう

アダムとエバも、そうだった

サタンがエバの腹にうったえたとき、エバの欲望、感情が刺激されて、神のことが、どこかに飛んでいってしまった、結果、失敗し、永遠の木(永遠のいのち)から遠ざけられてしまった

このことは、永遠のいのちを得られなかったひとつのパターン

この失敗から学ぶ、こういったことがはじめに書かれたということは、最後まで、このパターンでくる可能性がある

サタンの方法は、腹にうったえかけて、神のことばを吹き飛ばす、みな、そういった方法でやられる

たとえば、かしこくなりたい、きれいになりたいなど、人間的な欲望で、歩みからはずそうとする

腹の欲求によって、歩みが、曲げられていく

歩みに制約を受けているクリスチャンがいる、しかし、そうならないように気をつける

欲望にひっぱられるときに、見えるものが見えないという制約を受けてしまう

Ex:パリサイ人、律法学者は、イエスに「白く塗られた墓」と言われた、これは、何を言っているのかというと、外見、あるいは、人からはよくみえていた、しかし、心の中は、あらゆる放縦や貪欲に満ちていたということ

ある人は、目や耳に制約を受けている、しかし、このことは、罪や欲にひっぱられ見えるものが見えなくなるという結果を招いてしまう

クリスチャンでも、見えるところしか、見えない人が多い、罪に入り、見えるものが見えなくなってしまう人がいる

欲にひっぱられていないかどうか?たえず、内側を吟味したり点検していくことは大事

こういったことは、如実にクリスチャン生活に出る

何かあったときに、顕著にこの差はあらわれてくる

日々の歩みに対して、決定的に出てしまうので、日々の歩みを大事にする

 

6:13 私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。

心を広くしてください:わざわざ、このように言われているということは、クリスチャンの心がかたくなになって真理を受け入れられなくなっているということ

こういうことも、その人自身の歩みと非常に密接にかかわってくる

 

6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。

パウロは、ちゃんと分かっていた

この世の人と変わらないなら、見えるものが見えない

これは、礼拝のときには、わからない

日ごろの歩みがどうか?が問われる

そして、見えない人がいるからといって、おどろいてはダメ

また、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません」といわれているように、わたしたちは、この世の人と合わないと考えるのが妥当、ゆえに、むりに合わせる必要はない

原則は合わないので、ジレンマを感じる必要もない

 

6:15 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。

ベリアル:サタンの別名で、「邪悪、価値が無い」という意味

サタンにも、意味がある

わたしたちがサタンに惑わされ、一生、それで過ごすなら、無価値なものになるということをいわれている

クリスチャンでも、この世と同じ価値観になってしまう可能性がある、しかし、このことは、最終的におかしなものをつかみ、永遠のいのちを得られなくなってしまう

そういうことにならないように気をつけていきたい

 

6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、

6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

わたしたちは、この世に生きている、しかし、そこから分離することを学び、実践していく

わたしたちが、もし、この世の汚れに、ずっと巻き込まれたままだと、18節の御言葉が実現しなくなってしまう

ずっと、汚れたものに入って、そこから出ようとしないなら、クリスチャンの信仰の歩みも名目に終わり、御国に入れなくなってしまう

さっき、例として挙げたように、「奴隷はいつまでも家にいない」という御言葉が実現し、結果、天の家に入れなくなる

汚れから、ちゃんと離れないと、入れるところに入れない

思い、感情思索に入ってくる惑わしが強い

この世に引っ張る力というのがあり、それは、強い、そして、サタンは、そういう方法でくる

しかし、分離しなければいけない

息子不成立、娘不成立は、十分、ありえるので、気をつける

神様のこどもになっていくときに、少しずつ真理がわかり、息子、娘の実態となっていく

汚れから出て行けば、出て行くほど、だんだんと見えていく

欲、欲望は、生涯、ついてくるので、このことを正しくとらえて対応していく