Ⅱテモテへの手紙1(918) 2014.1.5

 

 

 

1:9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、

 

神さまが私たちを招いてくださって、声を掛けてくださって、導いてくださった

 

招き(英語):calling

 

たしかに自分で信じた、しかし神が召してくださって、クリスチャンになった

 

人を通して声をかけられたとしても、そのバックには神さまがいる

 

計画(KJV):目的

 

神御自身の目的がある→お一人一人がクリスチャンになること

 

呼んだことに目的がある

 

召されて神の目的を果たす人は、神の前にスムーズでトラブルもなく、神に喜ばれるクリスチャン生活を送る、そうでないと違うものを掴んでしまう可能性がある

 

神の目的を行っていくときに、大いに恵みがある、喜ばれる

 

 

 

1:10 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

 

「死を滅ぼした」ということについて

 

この世において、「死」はあまりにも日常的、ごく普通のこと

 

しかし聖書の概念では、「死」は普通ではなく、「滅ぼされた」と理解する

 

イエスにあって、得るべきものを得た人は死なない、そういうものだということを覚える

 

主が「死を滅ぼした」ことによって、永遠の命を得た人は、「死」を見ない歩みに入る

 

いのちと不滅を明らかにした:たしかに人間は老化する、しかし朽ちたり、老化したりしない

 

今の世ではそうであっても、後の世に主がこのことを全うしてくださる

 

今の限りある肉体や寿命の中で、偽物(Ex:アンチエイジング等)に力を入れていくのは、少し違う

 

主が言われていることを求めるのが早い、でも多くの人が目に見えることを求めやすい

 

私たちの一生は、ほんの一瞬の短い間、要は肉体&寿命には限りがある

 

でも、聖書的には普通ではない(後の世は永遠だから)

 

ゆえにこの世の事柄を求め続けるのは少し違う

 

「死を滅ぼした」とか「不滅」を求めていくことにポイントがある

 

今のこの世の肉体は不完全、体力にも限界がある

 

「不滅」のことを主にあって得たい

 

 

 

1:11 私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。

 

宣教者:色々と命令を宣言したり、語ったりする人→主の命令を正しく宣言する働きに入っていきたい

 

 

 

1:12 そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。

 

パウロは神の働き人、そして宣教者、使徒となった

 

だからと言って、皆から尊敬されていたとは書いていない、反対に苦しみに会っている

 

本当にポイントをついた働きに入ったときには、色々と苦しみに会う

 

何かと気落ちさせるようなことが起きてくる

 

本質をついた働きだと、こういうことがくるというのが1つのパターン

 

望まなくても、パウロと同じようなパターンで気落ちさせることが起きてくる

 

そんな苦しみに会ったとしても、主は私たちの歩み、信仰、忠実、迫害を受けたことも含めて守ってくださる

 

お任せしたもの:預金するというニュアンスがある

 

かの日:ある1つの日→裁きの日

 

参照 へブル人への手紙9:27,10:25

 

9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

 

10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

 

人には苦しみを理解してもらえなくても、主の前に預金され、記録され、その日に証言される

 

ゆえに今のことだけを考えてはダメ

 

私たちの基準は、その日に「義」とされること

 

パウロの歩みは神の前に賢い歩み、たしかに人間的には損だったり牢に入れられたりと最悪だったりする

 

その日に至るまで記録されているという概念に基づく、そうでないとクリスチャン生活をやっていられない

 

この世では理不尽なことで仕返しができなくても預金され、保存されているので、かの日に明らかになる

 

 

 

1:13 あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。

 

健全なことばを手本とする:模範を守る

 

Ex:習字→きれいな字を習って書く

 

今のキリスト教会は、教理の見本が崩れている

 

Ex:カトリック→地獄は無い、プロテスタント→艱難前にクリスチャン携挙されるので艱難には会わない

 

そのあたりは考慮する

 

しかし正しい真理が示されたら、手本として保っていく 

 

Ex:獣の国がアメリカ、艱難後に携挙がある、永遠の命に至る道は狭い等

 

このようなことを聖霊にあって守る

 

 

 

1:14 そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。

 

聖霊によって教理、歩みを守っていく

 

「健全」は大事

 

極端な教理は「異端」 

 

Ex:カトリックで言っている「神はあまりにも愛のお方なので、人を地獄に落とすことはできない、ゆえに地獄は無い」という教理

 

健全な教えとは→Ex:天の御国を受け継ぐ賢い娘(クリスチャン)がいる、しかしキリストの花嫁になれない愚かな娘(クリスチャン)もいる

 

 

 

1:15 あなたの知っているとおり、アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。その中には、フゲロとヘルモゲネがいます。

 

1:16 オネシポロの家族を主があわれんでくださるように。彼はたびたび私を元気づけてくれ、また私が鎖につながれていることを恥とも思わず、

 

1:17 ローマに着いたときには、熱心に私を捜して見つけ出してくれたのです。

 

1:18 ――かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように。――彼がエペソで、どれほど私に仕えてくれたかは、あなたが一番よく知っています。

 

パウロは鎖につながれていた、いわば訴えられて牢に入れられていた、そしてそのことがもとで15節あなたの知っているとおり、アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きましたとある

 

パウロの残念さ、無念さについて書いてある

 

いざ逮捕、投獄が起きるときに、クリスチャンであっても去っていく人が多い

 

残念ながらクリスチャンに選り分けがある、ゆえにすべてのクリスチャンに期待するのは間違い、しかし多くのクリスチャンが去っていく中で残る人もいる

 

パウロのような時代が近づいているので、これらこういうことも考えなければいけない

 

キリストのゆえに逮捕&投獄がある

 

Ex:アメリカでは路傍伝道をしていた牧師や同性愛を指摘していた人や祈っていた人が逮捕された

 

こういうことで自分の考えを持たなければいけない、逮捕されたり、投獄されたりしても、従うのか?を決めておく

 

あるいは逮捕されなくても、そういう人とどう関わるか?についても考えておく

 

残念ながら人間は、あるいはクリスチャンでも、そういうことに恐れを持ちやすいので去って行く人のほうが多いのが現実

 

しかし少数の残った人にはパウロは18節のことを言っている

 

ここでも、「かの日」(裁きの日)について言われている

 

良い人は良い報いを得る、いわばオネシポロの家族はポイントが高い

 

主のために牢屋に入れられた人を見捨てる人はポイントが低い、下手をするとマイナスになる

 

しかし探し出したり、訪ねて行ったり、世話をしてくれたりした人はポイントが高い、高得点が付く

 

キリスト教の世界で、2つ良いことは無い

 

この世の常識というのは、逆境の時には近付かないというもの

 

しかしキリスト教は、たとえ危険があっても訪ねて行くこと、そうするならポイントが高い

 

世の中の常識とは違う

 

この世で誉められたりということは、神の前に必ずしも喜ばれるとはかぎらない

 

パウロはこの世で賞賛は受けなかった、でも、後に手紙が書簡になった、ゆえに神の判断は正しいと言える