Ⅱペテロ3:1~9                2015.5.24

 

3:1愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。

 

ペテロが手紙を送ったのは、「思い起こさせる」ため。

一度聞いても、忘れる事があるから。

何を思い起こさせるのか。

 

3:2それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。

 

具体的に言うと、終末に関しての、主の御言葉。

ペテロの手紙の時にもこう言った。我々はそれより二千年も過ぎてしまって、さらに今は、時が切迫したと思うべき。

なので、我々こそ終末の御言葉をきちんと思い起こさなければならない時。

レムナントには時々、他の教会の人が来るが、よく言うのは、「うちの教会では終末の事を聞かない」とか、「そもそも終末の事を礼拝で聞かない」など、よくある。

我々にとって大事な事は、やはり、「み言葉を思い出す」こと。

だから今こそ、旧約の預言者が語ったような、例えばダニエル書が語ったような、獣の国に関する事とか、艱難とか、反キリストを拝む事とか、そういった事を今こそ思い起こし、御言葉を読み、そこから教えられるべき時だと理解する。

そういう意味では、レムナントはまさにそのような事に従っている。

 

3:3まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、

3:4次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

我々にとっては、あまりピンと来ないけれども、聖書が繰り返し同じ事を強調しているので、

世の終わりにはこのような事があるのかという事がある。

一つは、「あざける者」  要は、「キリストの来臨なんかおとぎ話ではないか」という人が出て来るという事。

しかも、よく調べると、この事を言っているのはペテロだけではない。

 

ユダの手紙にも同じような事が出て来る。

 

ユダ

1:17愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。  

1:18彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」

 

「あざける者が現われる」と、同じ事が書かれている。

ギリシャ語でも全く同じ言葉。

ここでも「不敬虔な欲望のままにふるまう」と書いてある。

この様にペテロの手紙でも、ユダの手紙でも、同じ言葉で繰り返しているように、「あざける者」が来るというのが、世の終わりの一つの特長である事を覚えておく。

二度にわたって聖書が強調しているという事は、やはり本当にこういう人が来る。

あまりイメージがわかないかも知れないが、とりあえずそう思うべき。

「あざける者が来る」と。

その時に、我々は、動揺してしまってはいけない。

こういう事が書いてあるという事は、結構これに引っかかってしまう人が出るのかも知れない。

クリスチャンでも、ここを突かれると弱い人がいる。

クリスチャンでも学校で成績が良かったり、知的だと言われる人に限って、「こんな非科学的な事を信じていられるか」など。

それで恥じ入り、「自分は他のバカなクリスチャンとは違う」などと言い、また、「そう言えば俺もおかしいと思った」と、ひっくり返されてしまう事がある。

すると、あらゆる信仰の根幹が揺るがされてしまう。

わざわざ二度にわたって、聖書が語っているのでこれは間違いなく来る。

前の章でもペテロが言っていたように、「自分たちを贖ったキリストを否定する」ような異端も間違いなく来る。

これは、警告されているので、引っかからないように気を付けること!

前もって聞いてる場合、責任がある。

御言葉に書いてある事は、現実に起きる事に関して書いてあるので、あざける者がやって来て、その時に引っかかってしまった人は、弁解の余地が無い。

そういう意味で、書いてある御言葉は尊重しなければならない。

この事は必ず来ると思われる。しかも二回にわたって書かれているので、結構引っかかる人が多いのではないか。  「そう言えば再臨などあるとは思えません」など。

そんなものに引っかかれば、あらゆる信仰の基盤が覆されてしまうので、よほどに気を付ける。

Ⅱペテロ

3:5こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、

3:6当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。

 

あざける者の言い張る事は、KJVでは、「意図的に言い張ってる」

なので、わざと、分かっていながら言っている。

ポイントは、ペテロが言いたいのは、「創造の初めからそのままではない」という事。

また、「一度昔の世界は滅んだではないか」という事。

「もう一度滅ぶ」とペテロは言っている。

正しい事を言っているのはペテロ。

地層には洪積層が存在する。これは読んで字の如し、洪水によって積もった地層。

そこには化石など、色々ある。 これは、動かぬ証拠。

「天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、」

とある。

ペテロの言葉に関連して、地が滅びる、天も滅びる、などが書かれているが、一つは文字通り、

天も地も、太陽も地球も崩壊する時が来る。

今はどんどん気候も変わっているし、地球の磁極もどんどん移っている。

地球全体が大きく変わって来ている。

もう一つは、天地というのは、教会の喩え。

ここでは天地が滅びる事を言っているけれども、教会に関しての喩えだという事も理解できる。

そのように読める。

クリスチャンはみな、アブラハムの子孫。

「アブラハムの子孫は、天の星、地の砂の様になる」

クリスチャンは星のような存在。また、地の砂のような存在。

クリスチャンは、星、砂に喩えられる。

星があるのは天。 砂のあるのは地。

天と地は教会を喩えている。

ここでは、教会の崩壊に関しても語られていると理解できる。

5節の中でペテロは、御言葉と、水、と書いてある。

これは聖霊の喩え。

この二つによってなっている、と書かれている。

また、天地は、御言葉と水とからなっていると書かれている。

これは、天地の喩えとしての教会だと、まさに語っている。

教会の要素というのは、御言葉と聖霊。

だから我々は聖餐式において二種類受ける。

パンは御言葉の象徴、葡萄酒は聖霊の象徴。  この二つがポイント。

そして、天と地。 「地は神の言葉によって水から出た」というように、構成要素が御言葉と水から出るという事。

そもそも、教会はこの二つから出来ているという事が喩えで言われているのが5節。

そしてもう一つの事が言われている。

「その水により、洪水におおわれて滅びました。」とも言われている。

これは具体的には、ノアの洪水のことを言われているが、ここではノアの名は出て来ていない。

言わんとしている事は、ノアの洪水も喩えであり、型。

ノアの洪水の本番は、世の終わりにあると思われる。

故に、主ご自身も言われた。「世の終わりはノアの時のようであり、ロトの時のようである。」

なので、水によって覆われて滅びたという事は、世の終わりには教会は崩壊していくけれども、

それは、あらゆる御言葉が、この事を暗示している。

一つは、パウロがテサロニケへの手紙で書いてあるように、背教が来るという事。

主ご自身も喩えで、「あなたがたはこの宮を見ているでしょう。しかしこの宮は崩壊し、一つの石も他の石の上に残さない時が来る。」

これは、教会が崩壊する日に関しての預言。

しかし、どこまでも、物理的な事しか見えない人は、実際の建物の宮にこだわる。

実際、エルサレムには宮が建つ余地は無い。

なので、喩えで理解するのが正しい。

「洪水で覆われて滅んでしまった」と書いてあるように、これは、霊的な事柄に関しての喩え。

「世の終わりにも洪水がある」と言うので、やはり霊的な言葉に関しての災いが、教会にやって来るということに関しては、理解する。 そのあたりが分からないと、非常に大事なポイントが分からない。

世の終わりの事を正しく理解する時に、水、洪水と言われた、霊的な事柄に関しての災いが来るという事は理解しなければならない。

終末の日の霊の惑わしは個別に来る。

その人の名前、弱点など。引っかかりやすい。

なので、これを軽視してはいけない。

物見の塔などのレベルの惑わしではなく、御使いが、本当に、能力の限りを尽くして、我々を惑わしにかかる。

そういう事が許される時代。

霊の洪水という言葉を軽視してはいけない。

聖書の言葉を恐れをもって見ていく時に、初めて我々はこういった惑わしから守られる。

 

3:7しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

 

今の天と地、すなわち教会は、御言葉によって保たれている。

今は保たれている。

主の言われた、宮の崩壊する日は来るが、今は、宮としての教会は一般的には崩壊していない。

一部崩壊している所はあるかも知れないが。

世界の全体として見るならば、どこの教会も、イエス・キリストを主として礼拝している。

そういう意味では、今は保たれている。

「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」

しかし、「保たれている」の意味合いが、恐ろしい。

なぜなら、必ず、教会の宮の崩壊の日が来るという事を言っている。

そして、「火によって焼かれるために保たれる」というのは、喩えの意味合いとしては、必ず火(霊的な喩え)も、必ず悪霊の洪水の中で倒される時が来ると言っている。

なので、今の事だけを見て、「まだ大丈夫だ」とか、「こんな事は起きない」と言ってしまってはいけない。

今は、悪霊の洪水に全ての教会はやられてはいないが、いずれ、やられてしまう。

洪水が全地を覆う。また、御言葉によって保たれていると書いてあるのは、御言葉も崩壊するという事。隅のかしら石であるイエス・キリストの教えも御言葉も、また、他の土台石である、

預言者、エレミヤ、イザヤ、エゼキエル等、またペテロ、ヨハネなどの使徒たちの御言葉も、みな教会から、取り除かれて、一つの石も、他の石の上に乗らないという日が来るという事。

徹底的に御言葉が崩壊するという日が来るという事。

そういう事が、明らかにこの御言葉の中に隠れている。

なので預言は、謎と喩えで書かれているけれども、よく読むと恐ろしい事が書いてある。

残念な事ではあるが、あらゆる御言葉は、同じ方向を向いている。

御言葉の崩壊という事も頭に入れておく。

今だけ見ててもダメ。

いずれ、我々が、教会にとって、常識という事は、世界大であちらこちらの教会で常識ではなくなってしまう。

「イエス・キリストは救い主である」これを当然と思っているが、そうではない日が来る。

その時に我々がどんなふうに留まるかが、問われている。

残念ながら、今の教会に対して、神の怒りが積み上がっているので、公の教会は崩壊すると思われる。

その時の大事なポイントは、「仮庵の祭」=「地下教会」

御言葉の崩壊という事は、一部では日本のキリスト教界でも起きている。

東京神学大学の人達はキリストの復活を信じていない。

そういう事がもっと大々的になって行く時が来る。この事は覚えておくべき。

喩えではあっても、御言葉の預言している事は必ず成就する。

カトリックも悪い意味で最先端を行っている。大分前から「神の言葉にも誤りがある」「進化論は正しい」「創世記は非科学的」と言っている。

残念ながらこういう事が常識になる日が来るので、御言葉の根本がひっくり返される日が来るので、この事も覚えておく。

 

3:8しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

 

一つは遅い、速いを人間的な標準では言えないという事。

もう一つは、これは、他でもない喩えに関しての理解の原則。

聖書の喩えを理解する時に、一日を千年の様に、千年を一日の様に理解せよという事。

そういう意味では、例えば七日間、七日目は安息日であるし、この日には何の仕事もするなという事であるし、七日目にはパンは降らない、集めに行ってもいけない七日目は安息日である。

一日を千年として考えていく時に、七つ目のミレニアムに関して言っている。

21世紀のミレニアムは、七つ目のミレニアム。

実は今が安息日の日。

その時の大事なポイントは、パンを集めてはいけないという事。

今の時代に落ちて来るパンは、食べられないパン。集めてはいけない。

インチキな教理、例えば艱難前携挙などのパンを食べてはいけないというニュアンス。

主はペテロに関して言われた。

「あなたは鶏が鳴くまで三度私を知らないと言うだろう」

三というのは三日の喩えであると理解できる。

ヨセフの時、七本の麦とか、七匹の牛が出て来る。

ヨセフは「これは七年・・・」と答えている。

ペテロの「三度」は三日の喩え。しかし、「一日は千年」なので三つ目のミレニアム、すなわち今の時代。その時にペテロをトップに置くカトリックはまさにそう。

法王をトップに置くカトリックは、三つめのミレニアムには「キリストを知らない」という可能性が高い。今がまさにそう。

その様に喩えで理解する。

 

3:9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 

これはただ、主の来臨が遅いというのではなく、人々が一人でも滅びずに悔い改めに入って行くための神の配慮だという事。

なので、ここで言われている事は、「悔い改め」の事を言っている。

ゆえに我々は、世の終わりの時に関して勘違いしている事がある。

それは、我々が歩みを悔い改めて行かない時に、正しく主の再臨に会えない事になる。

「艱難前にキリストが来る」とか、「クリスチャンと名がつけばどんな者でも永遠のいのちに入る」とか、「教会は裁きに会わない」とか、そういった御言葉と異なった事に関して悔い改めない時に、災いに入って行くという事をよく覚えておく。

それらを悔い改める日を主は待っておられる。

悔い改めなければ、滅んでしまう。

悔い改めが前提として書いてある。

間違っているなら、そこから悔い改める。

世の終わりの教会に対しても、間違いを悔い改める事を前提として言われているという事を覚えておく。

すでに間違っている。

今のままで間違った歩みをして行くならば、滅びに入って行く。

どんなに正統派であっても、そうでなくとも。

あらゆる所に間違いや惑わしがあるので、その事を是非覚えて行きたい。