Ⅱペテロの手紙3:10~18         2015.5.31

 

3:10しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

 

主の日が盗人の様にやって来る。

主の日とか、キリストの再臨に関しては「盗人」と言う言葉が、よく聖書の中では使われている。盗人という事に関連しての事。

イエス様は、宮の中で怒った事がある。「あなたは父の家を祈りの家となすべきなのに、あなたがたは強盗の巣としている。」  この「強盗」という言葉が「盗人」と同じ原語が使われている。

言わんとしている事は、「神の言葉を盗む」という喩えの意味合い。

なので、ここでも主の日は、「盗人のようである」と書いてあるし、また、ほかの所では、キリストの再臨に関して「盗人」という事が書いてあるけれども、ひっそり来るという意味もあると思うが、喩えの意味合いとしては、再臨とか、主の日に関するあらゆる御言葉が盗まれて、

差し引かれたり、ずらされたという事があるという警告。 その様に見ると、あらゆる終末の言葉というのは、差し替えられる。 典型的なのは、艱難前携挙説。

しかし、キリストは、「艱難が来るから、あらゆる備えをせよ」という趣旨で語られたが、艱難前携挙のような、御言葉を盗む教理がある。

一周の間、反キリストは、多くの人と固い契約を結ぶ、

この「契約というのは」、アブラハムの神と結ばれた契約と全く同じ言葉が使われているし、

アブラハムは全てのイスラエルの神の民の先祖。

新約の我々に対しても、信仰の先祖。

我々の結ぶ契約も、同様に神と結ばれる契約。

そういう意味合いで、反キリストが結ぼうとしているのは、神との契約に対抗している者であるから、反キリストと契約を結ぶなら、永遠の滅びに入る。

主の日というのは、「天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」とある。

これは、もしかすると、文字通りにも起きるのではないか。

御言葉は、意味なく書かれているものではない。 実際、地球環境もどんどん変わってきている。   なのでこの事はね覚えておくべき。

かつてのノアの箱舟は、終末の日の、大洪水の型。

しかも、喩えだけではなく、実際に起きている。

実際、山の上に、貝の化石などが残っている。  日本においても。

全ての高い山も水没した証拠。

洪水は確かに、御言葉に書かれている通り起きている。

ノアの洪水と比較するかのように、世の終わりの時の滅びというのは、天は焼け崩れるとか、大きな響きをたてて消えうせるとか、天の万象は焼けてくずれ去るとか、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされ、太陽も焼け崩れるし、地球も焼け崩れる。

聖書に書かれたノアの警告、災いは、実際に起きた事なので、そういう意味で、この事は実際に起きる事。

なので、未信者、クリスチャンでない人々には、この事を大いに語って行くべき。

喩えの意味合いも理解していく。

天と地は、教会の型。 その時に天は消え失せるとあるのは、天は、アブラハムの子孫というのは、天の星の様に言われており、また、地の砂の様に言われている。

なので、星も砂も、クリスチャンを喩えている。

星は天にいるクリスチャンの喩えであり、砂は、地にいるクリスチャンの喩えであり、両方とも教会の喩え。

「天は大きな響きをたてて消えうせ」というのは、その日、教会が消えうせて行く、崩壊する

という事に関する預言。

「消えうせ」という言葉を見て行く。 同じ表現が使われている個所がある。

 

マタイ

5:18まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の一点一画も決してすたれることはありません。全部が成就されます。

 

ここで言われている事は、律法は決してすたれることは無く、過ぎ去る事も無く、全て成就する。ただ一つの御言葉さえ、成就されずに終わってしまうことは無い。

それと比較して、天地は滅びるかも知れない、消え失せてしまうかも知れない、という事を言っている。

ここでは、天地が滅び去る、消え失せるということに関連して、御言葉の事が語られているという事はよくよく捉えておく。

なので、この箇所が預言している事は、教会としての天地が滅びたり、過ぎ去ったり、崩壊してしまう日が来る、ということ。  それは、御言葉と関係する。

教会というのは、御言葉から、天が、地がなっており、その言葉が崩壊しているならば、教会も崩壊してしまう。

そういう意味合いでは、宮の土台は、使徒、預言者の言葉でなっている。

隅のかしら石は、イエス・キリスト。

こういった事柄をクリスチャンが信じなくなったり、教会から取り除いてしまうなら、もはや教会ではなくなってしまう。

御言葉が崩壊し、教理も崩壊する。   ゆえに、教会は崩壊する。

神の言葉は滅びない。しかし、教会が、御言葉から外れる時に、教会そのものが崩壊する。

 

黙示録

6:14天は巻き物が巻かれるように消えてなくなり、全ての山や島がその場所から移された。

 

天は消え去るが、その時に、「巻き物」が喩えとして書かれている。

巻き物は、御言葉の喩え。

旧約の時代、聖書は巻き物で書かれていた。

御言葉がなくなる。そうであるが故に、教会が崩壊する。

もちろん、神の言葉が消え去るわけではない。

教会が神の言葉を受け付けなくなってしまうが故に、崩壊してしまう。

なので、このような日は、必ずくると言われている事に関しては、よくよく覚えておきたい。

喩えには繰り返し、教会の崩壊する日に関して語っている。

マタイ24章で、宮の崩壊から、イエス様は終末の事を語っておられるが、「宮」は神の礼拝所としての「教会」を喩えている。

それが崩壊する日が来る。 それは、他でもない御言葉を、教会が受け付けなくなってしまうがゆえ。よくよく覚えて行きたい。

その時どうするかははっきりしている。

そのような背教の教会に留まっていたら、我々は命を失う。

これは、最初の宮の崩壊の時、西暦70年の時に、ローマ軍がエルサレムに攻めて来て、宮が崩壊した時もそう。

我々はそんな時には「山へ逃げよ」と書いてある。

また、屋上にいる者は、下に降りてはならないとか、これは仮庵の祭、すなわち地下教会の事を言っている。

なので、我々は、必ず公の教会はこの様に崩壊するという事を、聖書は繰り返し語っているので、「逃げるタイミング」をきちんと理解しなければいけない。

 

ダニエル書

9:27彼は一週の間、多くの者と固い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められていた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

 

なので、7年間の大艱難が、始まるまでが正しい。  逃げ遅れてはいけない。

ちなみにレムナントは、はじめから地下教会。

仮庵の祭に入ったなら、背教の教会に戻ってしまうのは良くない。

 

Ⅱペテロ

3:11このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

 

なので、天地が崩壊したり、天が滅んだり、地が焼かれるという時に、ペテロは、我々に聖い生き方をするように語った。

天地が滅びるという事は、教会が滅びるという事に話が通じる。

その様に理解すれば話が通じる。

世の終わりになったとしても、いろいろ心配な人がいる。

そんな時、ペテロの方法にポイントがある。

「どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」

この様な歩みをしていく時に、我々は、ICチップの事を知らなくても、マイナンバーの事をよく知らないにしても、得るべき救いを得る。

逆にICチップ、マイナンバーの事をよくわかっていても、聖くない歩みに入って行く時には危ない。

反キリストが多くの者と、固い契約を結ぶ。クリスチャンにも多く出る。

聖書に書いてある事は成就する。

反キリストと固い契約を結べば永遠のいのちが危ない。

これは、自己責任。

我々の歩みが神様の前に不適切な者だったり、罪や欲ばかりに従って行く歩みをしていく時、結局騙される。人間の理性や知性ではどうにもならない。

しかし、我々がここに書いてある通り、敬虔な歩みをしていく時には、得るべきものを得て行く。

そうすれば、少し惑わされても、やはりどこかで引き返していく。

聖書の語る事に、注意を払うのがベスト。

「あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」

こちらの方に注目すべき。

なので、我々は、主の御言葉を、足りないながらも何とか、行なって行ける。

そして普通に、反キリストの罠から逃れられる。

そういう意味では、レムナントに恵みが来ている。

ダニエル書の926節では、「油注がれた者は断たれる」と書いてある。

これはキリストの事。キリストに関して色んな称号がある。

しかし、ここでは「油注がれた者」と言われている。

これは、聖霊の型。

聖霊が後の日、世の終わりの日に教会から追い出される。

今はそれをとどめる者がある。しかし、留めていた聖霊が追い出される、すると、悪霊の洪水が起きる。

敬虔で聖い生き方を我々は、出来ないながらも、主に求めて行く時に、大事な歩みに入って行く。

主は忠実な方であられるので、我々が、正しく歩んでいるのに滅びに入れることは無いので、あまり心配することはない。

御言葉の語ってる歩みに入って行きたい。

 

3:12そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

 

この時に、天は、火で焼けるとか、燃えて崩れるとか、そういった事柄に関して書かれている。

喩えの意味合いとして言うのなら、明らかに、教会の崩壊、霊的な事柄をもとにして滅びて行く。   このことは覚えておく。

ダニエル書の926節でも、洪水に関して書かれている。これは、悪霊の洪水。

イエス様も、「その日はノアの日、ロトの日のよう」であると言われた。

霊的な災いが来るという事。

その兆しは大いに来ている。  「聖霊の第三の波」、あれは明らかに悪霊の働きであって、金粉が舞ったり、あのような人達は、悪霊の力によるしるしと不思議を見ているのであって、引っ張られて行ったら、結局滅びに入って行く。

なので、洪水は、遠い未来ではなく、すでに洪水があるところを我々は見ている。そこで溺れ死んでいる人もいる。

この洪水が勢いを止めることは無い。  逆にあらゆる福音派を含め、あらゆる教会に、この霊的な災いというのは広がって行く。

 

3:13しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

 

古い天と地は過ぎ去る。  新しい天と地が来る。

これは、文字通りでも、また、喩えの意味合いでも成就する。

我々クリスチャンに大事な事は、やはり、喩えの意味合い。

天地は教会の喩え。

古い天地が滅び、「新しい天地が来た」というのは、イエス様の時にまさに成就した。

古い天地である教会、集会というのは、イエス・キリストを十字架につけて殺すという冒涜を境に滅んで行ってしまった。

それは、ユダヤ教の会衆だったり、集会だったりした。

その頃のユダヤ人達も、毎週一回集まって、会堂で御言葉を学んだり、賛美したりという事をやっている。

しかしこれは、古い天地。  旧約聖書で書いてある「会衆」というのが今で言う「教会」

まさに同じ言葉。

なので教会という時、人の集まりの事をさす。

そのようにして、古い「会衆」=「教会」は、キリストを追い出し、ユダヤ人の間で、ナザレのイエスをキリストと言う者は、会堂から追い出すなどという事をして、結局は滅んでしまった。

しかし、ペンテコステを境に、教会が成立した。

これは、「新しい天地」

なので、「新しい天地」「古い天地」というのはある。

同じ意味合いで、終末の日に、これが再現される可能性がある。

古い天地、「教会」というのは、反キリストが宮の真ん中(教会の真ん中)に立って、「自分こそ神だ」と言い、会衆はそんなものを拝むのだから、最悪の状態。

今のメインの教会、即ち古い天地は、神の御前から過ぎ去ってしまう。

昨日までイエス・キリストを崇めていた教会が、今日になって反キリストを拝むようになる。

この様に、移ってしまう。

知らなければならない事は、教会に視点を置き、教会こそ、自分の最も大事なポイントとか、

「何でもかんでも教会の方針に従って行けば良い」という考え方は、もう通用しないという事が語られている。

逆にそこにこだわっている人達は、滅びに至る。

船だって、沈み始めた時は、どんなに大きな客船であっても、その船から逃げて行かない限り、

滅んで、死んでしまう。

同じような事柄が教会に起きる。 決して変わらないわけではない、変わらないのはキリストの御言葉のみ。

この事は徹底しなければならない。いくらメインラインとか、正統派教会だとか、福音派だとか言っても、いずれ変わる。

変わるという事で、最も分かりやすい例はカトリック。

カトリックは、先を見越したようにとんでもない事を言っている。

「神のみ言葉にも誤りがある」

「昔の聖徒が書いたような書物にも誤りがあるように、聖書にも誤りがある、しかし、教会には誤りが無い、だから、教会の言う事を聞いていれば良い」などと、非聖書的。

世の終わりにも、新しい天と新しい地にポイントがある。

なので、正統派教会云々にこだわらない。

教会の中で、神様が新しい天地の働きを開いて下さるならば、そちらの方に注目した方が正しいと思われる。

それは、イエス様の時も同じ。

いつまでもユダヤ教の会堂に留まっていた人は、結局はキリストを否定して、十字架につけ、滅びに至った。

 

3:14そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

 

「しみも傷も無い様に」・・・繰り返して犯す罪だとか、罪の根っこが残っている・・そのようなことが無いように求めて行くべき。

 

3:15また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。

 

なので、主の忍耐は救いであるから、主の忍耐が爆発する前に、悔い改めるべき人は悔い改めて、入るべき道に入って行く事。  裁きに入ってしまってからでは遅い。

まだ主が忍耐して下さっているので、これは救い。

主の言われている事は、速やかに行い、悔い改めるべき点は速やかに悔い改め、入るべき所に入って行くべき。

パウロの手紙について。

 

3:16その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。

 

ここでは、パウロの手紙の事をペテロは言っている。

ペテロはすこし書いてあるのだが、大事なポイント。

ペテロはきちんとこういう事を認めているので、パウロの手紙は今でも残っている。

この中で、「その手紙の中には理解しにくいところもあります。」

「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。」

このことというのは、一連のペテロが言ってた、「天地が滅びる」「火で焼かれる」とか、「キリストの再臨」とか、終末の事。

終末の事に関してはパウロも言っている。

それに対して「無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」

御言葉を曲解するという事。その結果、滅びをもたらす。

パウロの手紙も、当然聖書の一部なので、これを曲解して理解する人は滅びを招く。

やはり、警告を用い、恐れをもって理解しなければならない。

パウロの手紙を曲解している人は多い。

最も大きな例が、第二テサロニケにある、「背教がまず起こる」

その中で、反キリストが現われて、神の宮に座し、「自分こそ神だ」と宣言する。

これを曲解した人達は、「今はエルサレムに神の宮が無いけれども、いずれ、神の宮が建つ。三つめだから第三神殿だ。そこの真ん中に反キリストが入って来る」のだと言っている。

これは曲解であり、第三神殿は建ちえない。

正しくは、実際は、キリスト教会のキリストの座に、反キリストが立つ。

そう理解して初めて、パウロの言わんとしている事を理解する。

第三神殿云々は曲解。それは滅びに直結する。

「それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」とある通り。

なので、「他の箇所でもそうですが」と書いてある。

パウロの手紙を曲解する人は、他の箇所、例えばダニエル書なども曲解し、結局は滅びに至る。

反キリストは立つ。その時に、反キリストの恐いところは、それをもって、町も宮も徹底的に破壊するという事。

根本的な教理を徹底的に破壊する。

それを理解しないと、ダニエル書の70週の預言とか、一週の契約とか、理解したことにならない。でも今は、曲解した教理。  七年の中東和平条約など、曲解した教理が、大変広まっている。

曲解は滅びを招く。

 

ダニエル書

9:27彼は一週の間、多くの者と固い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められていた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

 

反キリストと契約を結んだクリスチャンは、神から断ち切られる。

そういう七年間が来る。

曲解していると大事なポイントが見えない。

曲解を語る事は災いであり、それに聞いていく事も災い。

 

Ⅱペテロ

3:17愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。

 

「無節操な者」とある部分、KJVでは「邪悪な者」

 

邪悪な教理を言っている人はかなりいる。

誘い込まれている人も数知れず。

艱難前携挙、獣の国はEU、七年の中東和平条約、第三神殿がエルサレムの真ん中に立ち、そこに反キリストが立つ、など。

邪悪な者達の教理に誘い込まれている人が、たくさんいる。

なので、聖書の警告を侮ってはいけない。

なぜならみんな成就するから。

我々はペテロの手紙の半分以上がすでに成就している時代にいる。

ペテロのこれらの言葉は、神のみ言葉。

我々は、すでに惑わされている人達の間にあって、キリスト教書店にも惑わす書物がいっぱい置いてあるけれども、その中で正しく歩んで行く。

 

3:18私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。