Ⅱ歴代誌24章 2011.8.7

 

24:1 ヨアシュは七歳で王となり、エルサレムで四十年間、王であった。彼の母の名はツィブヤといい、ベエル・シェバの出であった。

24:2 ヨアシュは、祭司エホヤダの生きている間は、主の目にかなうことを行なった。

王によって歩み方が異なる

ヨアシュ王→前半は良かったが後半は良くなかった

惑わされたときにろくでもないことが起きてくる

正しく歩むときに祝福に入る→この原則を正しくとらえる

私たちの歩みに関係するゆえに成功したパターンと失敗したパターンを過去の王から学ぶことは大切

何を言っているか?と、言うと・・・クリスチャンだからと言って祝福に入るわけでないことを理解する

祝福は自動的なものではなく正しく歩んでいくときに鏡のように神の力が反映されて祝福に入る

 

24:3 エホヤダは、彼のためにふたりの妻をめとらせた。彼は息子たちと娘たちを生んだ。

24:4 その後のことであるが、ヨアシュは主の宮を新しくすることを志し、

24:5 祭司とレビ人を集めて、彼らに言った。「ユダの町々へ出て行き、毎年あなたがたの神の宮を修理するために、全イスラエルから金を集めて来なさい。あなたがたは急いでそのことをしなければならない。」ところが、レビ人は急がなかった。

24:6 それで、王はかしらエホヤダを呼んで彼に言った。「なぜ、あなたはレビ人に要求して、主のしもべモーセとイスラエルの集団の、あかしの天幕のための税金を、ユダとエルサレムから持って来させないのですか。」

税金:献金

大切なことが8-12節に書かれている

献金で宮の回復をした

石や木を切る人を雇った

石は弟子の歩みをする人たちのたとえ、つまりで弟子として歩む人を生み出した

木もクリスチャンのたとえ Ex:オリーブの木

働き人を献金で捧げていく

たとえ自分が直接的に働きをしなくても献金を捧げることによって主の働きに間接的に関わっていく

 

24:7 というのは、あの悪女アタルヤ、その子たちが、神の宮を打ちこわし、主の宮の聖なるものをもすべてバアルのために用いたからである。

24:8 王は命令した。すると、彼らは一つの箱を作り、それを主の宮の門の外側に置いた。

24:9 そして、神のしもべモーセが荒野でイスラエルに課した税金を主のみもとに持って来るように、ユダとエルサレムに布告した。

24:10 すると、すべてのつかさたち、すべての民が喜んで、それを持って来て、箱に投げ入れ、ついにいっぱいにした。

24:11 金が多くなったのを見て、レビ人たちが箱を王の役所に運んで行ったとき、王の書記と祭司のかしらに仕える管理人が来て、箱をからにし、それを持ち上げ、もとの場所に返した。彼らは毎日このように行ない、多くの金を集めた。

24:12 そこで、王とエホヤダは、これを主の宮の奉仕の仕事を行なう者に渡した。彼らは、主の宮を新しくするために石切り工と木工を、主の宮を修理するために鉄と青銅の細工師を雇った。

ここでは悪い例が示されている

(教会)が男(キリスト)をさしおいて王になるとろくでもないことになる

Ex:バアル崇拝→旧約の時代だけでなく今の時代にも再現する過ち

主の宮とバアルは全然違う

神のためと言いながら器に用いられる→器崇拝

Ex:カソリックのローマ法王を崇拝する→聖書の言葉よりもローマ法王の言うことを優先する

たとえば進化論は正しい、他の宗教でも救われる等→信仰の暗闇を歩くことになる

このことはカソリックだけでなくプロテスタントでもあり得る→キリストに仕えているはずなのに、いつの間にかバアルに仕えている

Ex:たとえの理解をするな!とか艱難前携挙説等→神or人のどちらに仕えるのか?御言葉or人の言葉のどちらを取るのか?

アタルヤが行ったことは現実に起きたこと→このことは再現すると考えるのが正しい

多くの人が誤りに入っていくので聖書で前もって語っている警告をきちんと読み取る

 

24:13 こうして、仕事をする人々は仕事をし、彼らの手によって、細工物の修復がされた。彼らは、神の宮を元のとおりに建て、これを堅固にした。

神の宮が破壊されたり壊されたりしたが、もう一度建て直した

イエス様も神殿を三日で建てると言われた

参照 ヨハネ2:19

2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

神の宮が崩壊される、しかし再建することにポイントがある

今、霊的に見るなら神の宮は崩壊されている→教理が崩壊されている

Ex:艱難前携挙説、賢い花嫁&愚かな花嫁→愚かな花嫁もクリスチャンのことを指すのに未信者と勘違いしている等

たとえ礼拝するための立派な会堂があっても霊的な土台や教理が崩れている→要回復

「元のとおりに建てて、これを堅固にした」の御言葉にポイントがある

イエス様、ペテロの時はきちんと建っていた

しかし時を経ていくにつれて崩れていった→元の通りに建て直す Ex:たとえの理解

堕落と背教で教理が粉々になってしまった→ガラクタを片付けて新しく再建する

人からは異端とかカルトと呼ばれてしまうかも知れない、しかし神の前にどうか?が、ポイント

イエス様は神の宮を再建しようとした→このことに対して律法学者に異端扱いされた

パウロもしかり、ゆえに私たちも同じような目に遭うことについて理解する

人からの評判ではなく神からの評価が大事→後の日に裁くのは神御自身なので気にすることは無い

 

24:14 彼らは、完工の際、残った金を王とエホヤダの前に持って来た。彼らは、それで、主の宮の器具、すなわち、ささげる務めに用いる用具、深皿、金銀の器などを作った。こうして、人々はエホヤダの生きている間、絶えず、主の宮で全焼のいけにえをささげた。

全焼のいけにえにポイントがある→聖霊の火で焼かれる

もし心に不満があるとしたら→それは生肉のいけにえと言える

奉仕の前にきちんと祈る

 

24:15 さて、エホヤダは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。彼は死んだとき、百三十歳であった。

24:16 人々は彼をダビデの町に王たちといっしょに葬った。彼がイスラエルにあって、神とその宮とに対して良いことを行なったからである。

24:17 エホヤダが死んで後、ユダのつかさたちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。

神の言うことを聞かずに王の言うことを聞くのはNG、神の言うことを聞かなければいけない

 

24:18 彼らはその父祖の神、主の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えたので、彼らのこの罪過のため、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。

ヨアシュ王はエホヤダが死んだら神に背いた→御怒りが来た

神は父なる神であり、ムチを惜しまない

これは神が愛のお方であるゆえのこと→悔い改めていくときに祝福に入る

そうでないと災いに入る

ムチを与えるのは神の愛

ムチを惜しむ者はその子を憎むと言われている

参照 箴言13:24

13:24 むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。

父の愛でそのように接してくださる

ムチなるものを持つ父に愛されているということを理解する

参照 ヘブル12:6,7

12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

ヨアシュが何とか悔い改めるように神様はムチを与えた

つまり私たちの益のために正しく方向を変えるためにムチを与える

ちなみに人間の親子関係でもそうであるように、霊の親子関係においても、親と子では全然考えが違う

必要に応じて厳しいムチを加える

起きてくることは偶然ではない、必要があって起こる

父なる神は真の父、すべてのことを御存知、神の愛をもって生活を導いておられる

ムチ→神の配慮、必要なムチ打ち

罪→このまま罪を犯し続けると滅びる→はっきりと怒りをあらわし懲らしめる→親切な神

頑なで、うなじの怖い人はガンとして悔い改めない→ろくなことにならない

うなじを柔らかくして歩みを正す、素直になる、悔い改める

その方向はダメだから変える→悔い改め

 

24:19 主は、彼らを主に立ち返らせようと預言者たちを彼らの中に遣わし、預言者たちは彼らを戒めたが、彼らは耳を貸さなかった。

24:20 神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤを捕えたので、彼は民よりも高い所に立って、彼らにこう言った。「神はこう仰せられる。『あなたがたは、なぜ、主の命令を犯して、繁栄を取り逃がすのか。』あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。」

神は王や民がおかしくなったときに悔い改めさせるために預言者を遣わす

神の霊が預言者のうちに臨む、そして神が語ったことを預言者は語る

神は何でも一人で出来るお方、しかし人(預言者)を用いる

Ex:地震、津波、原発のメッセージ→このことを聞いたなら語らなければならない

たとえ異端と言われようとも言われたら語る

今も神の霊は預言者として歩みをしていこうとする人に臨む

そして言われたことは引いてはいけない→預言者は引いてはダメ

最悪、命を失うとしても神の霊が下ったときには語ることに大きなポイントがある

 

24:21 ところが、彼らは彼に対して陰謀を企て、主の宮の庭で、王の命令により、彼を石で打ち殺した。

24:22 ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれたまことを心に留めず、かえってその子を殺した。その子は死ぬとき、「主がご覧になり、言い開きを求められるように。」と言った。

悪・罪に対して神は報いられる

 

24:23 その年の改まるころ、アラムの軍勢が彼に向かって攻め上り、ユダとエルサレムに来て、民の中の、民のつかさをひとり残らず殺し、分捕り物を全部、ダマスコの王のもとに送った。

24:24 アラムの軍勢は少人数で来たが、主が、非常に大きな軍勢を彼らの手に渡されたからである。それは、この人々がその父祖の神、主を捨てたからである。彼らはヨアシュを裁判にかけた。

王や民が正しく歩まないときにろくなことにならない

少ない人数にも負けてしまう

 

24:25 彼らが重病の状態にあるヨアシュを捨てて、離れて行ったとき、彼の家来たちは、祭司エホヤダの子たちの血のために、彼に謀反を企てた。彼らは、病床で彼を殺し、彼が死んだので、彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には葬らなかった。

血のため:神は色々なことに裁きをして理不尽なことに報いられる

だから報復は主に任せる→絶対に自分で復讐してはダメ

参照 ローマ12:19

12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

参照 ヘブル10:30

10:30 私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。

ここで神は復讐を行った

 

24:26 彼に謀反を企てたのは次の者たちである。アモンの女シムアテの子ザバデ、モアブの女シムリテの子エホザバデ。

24:27 彼の子たちのこと、彼について述べられた多くの預言のこと、神の宮の再建のことなどは、王たちの書の注解にまさしくしるされている。ついで彼の子アマツヤが代わって王となった。

ヨアシュの一生の前半は良かったが後半は悪く最後は殺されてしまった→最後にずっこけた

このことは悪いパターン、絶対に避けたいパターン→天の御国に入らない可能性がある

最後の最後までずっこけないように祈る

今の時代が勝負

正しく歩めるように祈り求める