へブル書10:1020              2014.8.25

 

 

 

10:10このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

 

 

 

我々の罪はたくさんあるかもしれない。

 

クリスチャンが100人いれば、100人のクリスチャンがいろいろ罪を犯すかもしれない。

 

「ただ一度だけささげられた」これはキリストの身体であり、キリストの流された血。

 

これが有効。

 

 

 

10:11また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。

 

 

 

つまり、とりなすことが出来ない。

 

そういったいけにえで罪をとりなす事は出来ないが、

 

 

 

10:12しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、

 

 

 

イエス・キリストの贖い、また、キリストが、我々の罪のために身体を捧げられた事は、有効であり、我々の罪を赦すことが出来る。

 

 

 

10:13それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

 

 

 

敵が足台となるのを待つという事。

 

足台とは、簡単に言えば、敵を踏みつけるという事。

 

それを待っておられる。

 

そういう意味合いでは、聖書の中に出て来る、敵、味方とか、戦いという事に関しては正しく理解していきたい。

 

聖書の中には敵という言葉が出て来る。

 

敵が足台となる日を待っている。

 

しかし、現状まだ踏みつけられてなかったり、まだ敵が活発に働いていたり、妨害したりして来る。 この事は、良くも悪くも、聖書が語っている事なので、きちんと見て行きたい。

 

この足台という事を見て行くと、

 

 

 

詩編

 

110:1主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」

 

 

 

右の座に着いているのはイエス・キリストの事。

 

敵を足台とするまでは、右の座に着いておられる。

 

いずれ敵は、足台となり、敗北をする。

 

現状の事を考えるならば、敵は、足台となっておらず、活発に活動している。

 

イエス様は、敵を足台とする日を待っておられる。

 

 

 

110:2主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。「あなたの敵の真ん中で治めよ。」

 

110:3あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。

 

 

 

主は敵が足台となるのを待っておられるという事。

 

それと共に、ポイントは、戦いは、民が戦うという事。

 

戦いの勝利というのは、主のしもべである我々に任されているという事が言われている。

 

我々の働き次第という事。

 

我々が理解しなければいけない事は、我々の今のクリスチャン生活というのは、まだ敵が足台となっているわけではない。逆に大いに力をつけて行き、色々と妨害したりして来る。

 

でもいずれ、敵は足台となる。

 

そして我々はまさに戦いの真っ最中にいる。主の働きの一端を担っているという事を覚えておくべき。

 

そして、「あなたの敵の真ん中で治めよ。」と書いてあるように、敵の真ん中で働きをして行ったり、主の働きを担って行ったりする。

 

具体的に言えば、キリスト教会の中でも、あらゆる形で、敵の惑わしや、混乱などが広がっている。敵の方が、よほど熱心であったり、物量作戦で来たり、有能であったりする。

 

: 艱難前携挙説・・・レフトビハインド(売上6000万部以上)など。

 

しかし、主の働きを担う人々を通して、主の働きは実現していく。

 

敵は、終末の教理に関してあらゆるインチキを持ってきている。

 

「獣の国はヨーロッパ、国連がそうだ」など。

 

しかし、我々は、事実は、アメリカこそが獣の国であることを言い、敵に一矢報いている。

 

そのように主の働きを担って行く。いずれ主が敵を足台とする日が実現する働きの一端を担っている。

 

 

 

へブル書

 

10:13それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

 

主は、働きを待っておられる。

 

我々はまだ、戦いの最中である。  敵が散々妨害をかけて来るのは、間違いのない事実。

 

そういった中で敵の働きがひっくり返される働きの一端を担っていく。

 

 

 

10:14キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

 

 

 

たった一つの捧げ物(イエス・キリストの身体と血)をもって、我々がいろいろ罪を犯すかもしれないが、その罪もこの罪も、この捧げ物によって、赦され、清められていく。

 

また、あの人もこの人も罪を犯すかも知れないが、あの人の罪もこの人の罪をも、一つの捧げられた身体(イエス・キリストの)によって赦されて行く。

 

絶対に覚えておくべきポイント。

 

 

 

10:15聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。

 

10:16「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。

 

10:17「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」

 

 

 

この事は、同じくへブル書の8章にも記されている。

 

なので、この事は大事。

 

聖書に書かれている事は大事だが、聖書の中で、2度も3度も言われていることは、2倍、3倍大事である。

 

「わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」

 

これはクリスチャン生活において非常に大事なこと。

 

この事を一人一人のクリスチャン生活の中で、正しく確立し、この事を正しく実践しておくべき。

 

人間は、書かれたものに頼る。

 

しかし、神の言われた非常に大事なポイントというのは、我々の心の思いの中に、主が律法や教えを書かれる、ここに大事なポイントがある。  正しくとらえて行きたい。

 

クリスチャンでありながら、自分の中で、この事が習慣になっていない、または主が、自分の心の中に律法を書きつけてくれるという事に対し、信仰を持っていない人がいる。その時には、歩むべきクリスチャン生活からずれてしまったり、外れてしまったりする事があるので、ここは大事に行って行きたい。そしてこの事を信じて歩んでいく時に、この事は実践される。

 

必要な教え、答えが与えられる。

 

杓子定規に、上の権威に従うといったら、書かれた律法そのままであるが、神の最善の召し、律法がある。それは、万人に共通する方法ではない。

 

「わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」

 

これを体得すると、しないとでは、クリスチャン生活が全く変わって来る。

 

只々人に言われた事や、文字に書かれた事のみに従って行く時に、必ずどこかで躓いたり、ひっくり返されたり、ずれてしまったりしてしまう。

 

しかし、信仰を持ってこの事を受けていく人は、祝福を受ける。

 

信じて行く人は、この事を見る。

 

 

 

10:18これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。

 

10:19こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

 

 

 

我々は、まことの聖所に入る事が出来ると言われている。

 

まことの聖所 ----- KJVでは「至聖所」と言われている。

 

神に仕える場所に、2種類の場所がある。

 

それは、英語では、聖所はホーリー。 至聖所はホーリー オブ ホーリネス(聖いところの中で最も聖いところ)

 

至聖所とは、礼拝。 礼拝の事が度々書かれている。

 

聖所、至聖所は、今の時代で言う教会の礼拝の事。

 

聖所、至聖所にはパンがある。  このパンは、礼拝で語られる御言葉のメッセージ。

 

「人は、パンによってのみ生きるにあらず、神の口より出る一つ一つの言葉によって生きる」

 

これは礼拝におけるメッセージ。

 

そういう意味で言うと、神に仕える、礼拝をして行くというけれども、その中にも区分がある。

 

ある礼拝は、聖所、聖いが、ある礼拝は、神の前に至聖所、最も聖い。

 

至聖所に入る礼拝、歩みにポイントがある。

 

聖所の中にもパンがある。そういう意味では、普通の礼拝の中にもパンがあり、御言葉がある。

 

しかし、至聖所の中で与えられているのはマナ。マナはパンに似ているが違う。

 

パンは、パン屋に行けば買えるが、マナは天から直接与えられる。

 

そういう意味では、パンとマナは違う。

 

同じように、御言葉のメッセージの中にも、パンとマナの違いがある。

 

天来の御言葉、メッセージ、すなわちマナといわれる類のパンがある。

 

我々は天来のマナといわれる類のメッセージ、御言葉を求めて行きたい。

 

聖所と至聖所の間には、幕があり、この二つの差は大きい。

 

 

 

10:20イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

 

 

 

ここに垂れ幕がある。

 

だから、我々は、至聖所で仕えるべき。

 

同じ礼拝でも、聖所と至聖所は違うという事が、繰り返し聖書では語られている。

 

人間の目には礼拝はどれも同じだが、神の御前には2種類の礼拝がある。

 

その中で一つのポイントとして、垂れ幕(イエス・キリストの肉体)という垂れ幕を通す。

 

我々のクリスチャン生活の問題というのは、我々の生まれつきの肉とか、生まれつきの身体とか、生まれつきの自分の力などでは行っていく事は出来ない。

 

逆に我々の生まれつきの肉体というのは、聖書的に言うなら、死に値するもの。

 

イエス・キリストは我々の死のからだを負って、十字架に着かれて死なれた。

 

我々は本当は死ぬべきだったのが、イエス・キリストは代わりに死なれた。

 

そして、イエス・キリストが甦ったのは、我々が甦るために甦った。

 

だからこそ、「からだ」という事が大事になる。

 

聖書が言っている事は、甦ったキリストの身体を用いるという事。

 

だから、口下手であっても大丈夫。

 

キリストの雄弁な口に代わってもらえば良い。

 

キリストの身体をいただく・・・これも「信仰」

 

これは、目には見えない。目に見える事は信仰ではない。

 

見えない事、あり得ない事を信じて行くのが信仰。

 

そういう意味で「からだ」ということに信仰を持つべき。

 

我々がどんなに「死のからだ」の中であっても、キリストが我々の復活した身体になって下さる。  信じていく時に、これは実現していく。