へブル書10:3039       2014.9.7

 

 

 

10:30私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。

 

 

 

この箇所は、クリスチャンに対する警告。  「その民」とはクリスチャン。

 

 

 

10:26もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

 

10:27ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

 

 

 

この御言葉と関連している。

 

未信者は真理の知識を受けない。 やはりクリスチャンに対する御言葉。

 

 

 

10:28だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。

 

 

 

モーセの律法云々は、旧約の民であるイスラエル、ユダに与えられているのであって、異邦人には与えられていない。

 

この箇所も、やはり新約の民であるクリスチャンに対する警告。

 

我々クリスチャンは、イエス・キリストの言葉を守らなければ、裁かれてしまう。

 

 

 

10:29まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

 

 

 

神の御子を踏みつけるのは、未信者ではなく、クリスチャンでありながら、そのクリスチャンがイエス・キリストの神性と救いを否定するようになる。

 

恵みの御霊を侮るとは、キリスト教界に起きて来る事。

 

おかしな、ベニーヒンをはじめとする悪霊的なリバイバルに導かれて、逆に聖霊に導かれている人々を悪霊つき呼ばわりすること。  クリスチャンの間に起きて来る裁きや問題に関して、このへブル書の10章は書かれているのであって、この事を理解しなければ、何一つ理解できない。

 

10章の30節に書かれている、「主がその民をさばかれる」とは、未信者の事を言っているのではなく、新約の神の民であるクリスチャンをさして言っている。

 

クリスチャンが裁きにあうという事を言っている。

 

こういう根本的な事を理解していないので、今のクリスチャンは、終末に関して書いてある、黙示録を読んでも、何一つ理解しない。  だから、「レフトビハインド(クリスチャンが艱難の前に挙げられるという)」なる小説を何千万というクリスチャンが読んで、すっかりその気になっている。

 

そして今は、残念な事に、聖書の翻訳そのものについてもおかしなものになっている。

 

なので、誤導されてしまう。今時の聖書には、所々、インチキな翻訳がある。

 

意図してそうなったのか、意図せずにそうなったのかは分からないが、間違っているところが大いにある。

 

「主がその民をさばかれる」

 

この箇所の注釈には申命記32:36が示されているが、

 

申命記32:36には、同じことが書いていない。

 

 

 

申命記

 

32:36主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。

 

 

 

この様に、「主がその民をさばかれる」とへブル書には書いてあるのに、「主は御民をかばい」となっている。KJVでは「さばく」となっている。

 

なので「主は御民をかばい」とは、日本語の聖書、新改訳でしか通用しない。

 

しかし、意味が矛盾しているので、日本語の訳をそのまま受け入れると、時としてとんでもない事になってしまう。

 

正しくは、「民は裁くけれども、主のしもべらを憐れむ」

 

民としもべ、すなわち、群衆の歩みをしている人達と、弟子の歩みをしている人達は違う、というのが申命記の言っている事。

 

聖書でも残念ながら、日本語の訳のみを見て行くと、とんでもない事になる場合がある。

 

基本の基本、すなわち、世の終わりの事、終末の時代の事、黙示録の時代の事を考える時に、

 

「主がその民をさばかれる」とか、今の時代、新約の時代に関して言うならば、主が、クリスチャンやその教会を裁くという事を、根本的な事柄を理解しないと、黙示録を読んでもさっぱり意味が分からない。

 

これは、シビアな真実であり、目や耳に痛い事柄。

 

永遠の命に関する言葉なので、いい加減になってはいけない。

 

気が付いたら地獄、などという事が無いように。

 

 

 

へブル書

 

10:31生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。

 

10:32あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。

 

 

 

真理の光に照らされる。その後にパウロが言っている事は、「苦難に遭う」「激しい戦いに遭う」という事。それに耐えたという事。これは一つの聖書的な真理。

 

我々が真理の光を照らされなかったり、真理の光を見ないときに、激しい苦難や戦いに遭うとは限らない。そのよい例がパウロ。パウロははじめは真理の光を見なかった。暗く、目が覆われた状態だった。だから、ステファノのメッセージを理解しなかった。

 

しかもステファノに対する迫害に同調していた。しかし彼がダマスコに向かいに行って、さらにクリスチャンを捕えようとしていた時に、キリストが現われた。光が現われた。

 

そこで「サウル、サウル」という声がして、盲目になったが、3日目に目から鱗のようなものが落ちて、見えるようになった。

 

その後のパウロの生涯というものは、劇的に変わった。

 

真理の光が彼に来たが、人間的には困難に入って行った。

 

殺されそうになったり、ユダヤの会堂に入って、キリストを述べ伝えたりすると、迫害にあった。

 

我々が、もし真理の光を見るならば、今のキリスト教会において語っても聞かれない、というのは、普通であるという事を覚えておくべき。

 

例えば自腹でニュースレターを送っても、嫌がられたりするのが普通。

 

パウロであっても、自腹で旅費をかけて、あちらこちらに行って、ユダヤ人の会堂まで行き、そこで真理を語ったが、その結果は、大変な怒りを買い、「殺してしまえ」とまで言われた。

 

なので、疑問を持ってはいけない。

 

 

 

10:33人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。

 

 

 

真理の光を受けると、色々いやな事もある。いい事ばかりではない。

 

「人々の目の前で」を原語であるギリシャ語で見ると、「シアター」劇場という意味合い。

 

我々が本当に主の真理を担って行くつもりがあるなら、人々の目の前でさらし者になる。

 

劇場とは皆が注目する所。人々の公の場でそしりを受けるというニュアンスがある。

 

主に正しくついていく時、我々は、劇場(公の場)で、困難、そしり、辱めに遭う。          これは、望ましくはないが、これらような事も覚悟しておく。

 

これが限界になってしまったらそれまでなので、これらの事も想定内に入れておくこと。

 

                  

 

10:34あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。

 

 

 

前の方では、公の場で辱めを受ける事を言ったが、ここではもっといやな事が書かれている。

 

自分の財産を取られてしまう。

 

世の終わりの時の揺るがしというのは、我々の、かなり嫌な部分を、色々突いて来る。

 

サタンは我々の、弱点を狙って来る。  だから、聖書に書いてある。書いてある事は必ず起きる。しかし、これで揺るがされてはいけない。今のアメリカでは起きている。

 

ある牧師は、家庭集会を開いただけで、どんな法律に基づいてなのか、逮捕されてしまった。

 

そして、一か月ほど収監され、結構な額の罰金を取られた。

 

ただ、我々はそのような時に、色々な持ち物とか、お金とか財産に関しても、聖書的な理解をしなければならない。

 

「もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。」とある。

 

この財産に関しては、我々はまだ、目にしているわけでも、手に取っているわけでもないが、

 

この世では色々なものを失うかも知れないが、永遠に残る相続とか財産は、明らかに得る、という事が約束されているので、この事についても信仰を持って行くべき。

 

この世の事柄で我々は揺るがされるようになっている。

 

我々は、こういう時に関しても、霊的に、どの様に歩むべきか、主にあって教えられて、必要な備えを持っていきたい。

 

 

 

10:35ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。

 

 

 

確信は大きな報いをもたらす。これを投げ捨ててはならない。

 

「確信」という言葉は、ギリシャ語で、パレーシア。

 

この言葉が、他の箇所でどの様に使われているか

 

 

 

マルコ

 

8:32しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロがイエスをわきにお連れしていさめ始めた。

 

 

 

「はっきりとこの事がらを話された。」ここの言葉がパレーシアという「確信」という言葉と同じ。

 

これには、公に語る、という意味がある。 「告白する」とか。

 

へブル書で、「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。」という時に、心の中の事柄のように思われるが、しかし、ニュアンスとしては、キリストを、自分の口の言葉をもって、はっきりと公言するという事、告白するという事、これらの事を投げ捨ててはいけないという事。

 

こういった意味合いに読めるので、この事を覚えておくべき。

 

 

 

へブル書

 

10:35ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。

 

 

 

なので、はっきりと、キリストを公言する、信仰を公言するという事が、後に我々に大きな報いをもたらす。  永遠の報いをもたらし、永遠の相続を持つ。

 

大きな報いは、我々が公に語っている時に、初めて得られる。

 

口でイエス・キリストを告白するという事に、心を留める。

 

それを何の迫害もない時に、自ら引いてしまっていたら、いざ迫害の日に言えるはずがない。

 

艱難の時に危ない。

 

逆に今、この事に関して、力を入れたり、恥じずに告白していく人は、その時に、困難の中でも口を開いていける。

 

我々は艱難の時に備えて行くべき。

 

毎日毎日の歩みが、艱難の日に対する備えである。

 

 

 

10:36あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

 

 

 

忍耐を持って行きたい。

 

今の時代に神の御心を行って行く人が、約束のものを得る。

 

しかし、その為には、必ずといっていいほど、「忍耐」を要する。

 

御心がある事を行なって行く時には、やはり、忍耐が必要になって来る。

 

レムナントの歩みは、分からないながらも、廃墟となった神の家が回復するための仕事を成していく。  そういう意味では神の御心がある。  しかし、それを行なっていく時に、御心を行っていく時に必要なのは忍耐。 神の御心沿った働きを我々が掴むと、必ずといってよいほど、忍耐が必要になって来る。 セミナーにおいても、御心のある時には、妨害があったり、色々、気落ちする様なことがある。それを行なって行く中に忍耐が必要。しかしその先に、約束のものが入る。天の御国、受け継ぐべき相続財産だったりする。

 

しかし、神様の言ってない事を行なうと、神の御心から外れていたりする。

 

その場合、約束のものが手に入らない可能性がある。

 

教会の奉仕は、そういう意味、怖い。

 

 

 

ルカ

 

8:14いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。

 

 

 

ここに、種の事があるが、次のみ言葉に出て来る、忍耐という事について解説している。

 

種まきの大事な事は、種を蒔く事ではなく、実を結ばせること。

 

実を結ばない種は結構ある。

 

つまり、実を結ばないクリスチャンがいる。

 

実を結ぶという事は、御霊の実を結ぶという事にも通じる。

 

御言葉を聞いたけれども、実が熟するまでに至らない。御霊の実であっても熟さない。

 

 

 

8:15しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

 

 

 

「よく耐えて」とは、同じ「忍耐」という言葉が使われている。

 

我々が、御霊の実を結ぶとか、御言葉を行なって行くという時に、必ず、困難が、定まったように来るという事を覚えておく。そこで挫折したり、弱ってしまって、結局行わなくなってしまうなら、それっきりだという事。

 

 

 

へブル書

 

10:37「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。

 

10:38わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」

 

 

 

「来るべき方が来られる。おそくなることはない。」とは、ハバクク書の引用だが、イエス・キリストの再臨は近いという事。

 

主の再臨が近いという事は、我々が困難の中を歩んでいる時に、まさに来られるということ。

 

なので、多くのキリスト教会で言われている、「艱難前携挙説」は、この言葉にも合わないインチキな教え。

 

逆に「艱難に耐える」という事が、度々言われている。

 

 

 

10:39私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

 

 

 

多くの人が不信仰になってしまうというのが、明らかに聖書が語っている事。

 

艱難時代がまさにそう。だから、信仰が必要になって来る。

 

「私の義人は信仰によって生きる」

 

信じづらい時が必ず来る。

 

また、信仰の土台が揺れ動かされる。  そして、宮の崩壊、宮は神の教会であり、宮の土台というのは、使徒であったり、預言者であったり、隅のかしら石であるイエス・キリストだったりする。

 

キリストに対しての信仰とか信頼は、全世界的に揺れ動かされる。

 

その時、結構多くのクリスチャンが揺るがされる。「イエス・キリストは、本当は復活しなかった」など。

 

その時に真理に留まるのが真の信仰者。

 

それが、神の御前には、金や銀がもたらされる時。

 

天と地が揺れ動かされる。艱難時代は神の許しの中でもたらされる。

 

神は、全ての人を軒並み救うというのではない。金や銀に、主は、目を注いでおられる。

 

麦全体ではなく実に目を注いでおられる。

 

そういう意味では、我々は実になって初めて引きあげられたり、花嫁になることが出来る。