へブル書11:110         2014.9.14

 

 

 

11:1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

 

 

 

信仰の定義。信仰とは、見えていない事を確信するという事。

 

見えないがゆえに信じない人が多いのも、事実。(:バプテスマのヨハネの父、ザカリヤ)

 

あり得ない事でも、神の言われたことを確信していくのが信仰。

 

クリスチャンは、神が言われたら、実際はまだ見えていなくとも、それを信じて行く、確信していくという事を、訓練していく必要がある。

 

「起きていないから信じない、見えないから信じない」ではダメ。

 

我々は、まだ見ていない、実現していない事柄でも、神が言われたら、「それは実現する」という事を、訓練していく、そういう意味合いでの訓練がある。

 

この世の人と同じことを言っていては、神に喜ばれることはない。

 

 

 

11:2昔の人々はこの信仰によって称賛されました。

 

 

 

「称賛されました」は、直訳では、「あかしを得たのです」とある。

 

あかし=証=証言。

 

証、証言という言葉に注目する。

 

この言葉は11章の中で度々使われている。

 

:11:4信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの「証明を得ました。」』←ここも同じ言葉。

 

証言、証、この言葉にポイントがある。

 

:11:5信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、「あかし」されていました。』

 

「あかし」、これも証言。

 

「証言」とは、裁判において使われる。

 

「証言」とは、大事なもの。

 

「証言」という言葉を使う事によって、聖書というのは、御国の奥義という面がある。

 

へブル書11章は、基本的には、アブラハムやイサク、ノアは、信仰のある人だと書いてある。

 

しかし、喩えや、隠された意味合いも、さりげなく入っている。

 

レムナントの希望というのは、神が書かれた、表面的な意味合い、また、御国の奥義として、神が書かれた事柄を理解していくこと。

 

この中で想像できることは、裁判における証言に関連している言葉が出て来ている。

 

聖書に関して、我々の生き死にに関して言われている事は、「人には一度死ぬ事と、死んだのちに裁きを受ける事が定まっている。」

 

ここに書いてある「裁き」とは裁判の事。

 

その時に大事な事は、検察官やら、色々罪を指摘する人もいるが、もうひとり、「証言」をする人が大事。

 

 

 

11:2昔の人々はこの信仰によって称賛されました。(証を得た、証言を得た)と書いてある。

 

言わんとしている事は、我々が神の裁きの前に出る時に、我々を助けてくれる証言とか、我々が信仰を、目に見えないけれども、信じる立場に留まり続けたという時に、これは、裁きの座に立つ時に、大きな証言、助けになる。

 

「信仰」を持って行く事は、裁きの座において、我々を助けるための証言、助けになって行く。

 

 

 

11:3信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

 

11:4信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

 

 

 

ここで、「彼が義人であることの証明を得ました。」  つまり、証明を得た。

 

この証言がいざという時に、アベルが無罪、正しい者として認めて行く。

 

我々は、その日を見越して信仰の立場に立って行く。

 

それがいざ裁きの座に立った時、大きな助け、証言、助言になって行く。

 

義人である事の証明を得た。これが有効になって行く。

 

だから、信仰の行いをしていく事は、その日我々を訴える者が訴えて、裁判の座に立った時、

 

大きく我々の助けになって行く。

 

 

 

11:5信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

 

 

 

ここでも、証は証言。

 

エノクに関する記述は聖書の中でも少ない。

 

エノクがどの様な人かというと、ポイントは、天に移された。

 

旧約の時代に起こる事柄は、未来への型であったり、予表であったり、また、預言だったりする。

 

これから世の終わりになって行く時に、聖書は、死を見ないで天にあげられるクリスチャンが現われる事が書いてある。

 

 

 

第一テサロニケ

 

4:16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 

4:17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 

 

 

生きている我々が雲の中に引き上げられる、 エノクと同じパターン。

 

我々もその時生きていれば、天に引き上げられる可能性がある。(艱難前ではない)

 

しかし、残されて、引き上げられない人もいる。

 

エノクは、「移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」とある。

 

証言されていて、証明があった。

 

携挙に関して一つのヒントがある。

 

我々が名ばかりではなくエノクの道を歩んでいくなら、携挙される。

 

移される前に、神に喜ばれるのが条件。そうすれば携挙される。

 

これは、個人個人の歩みに大きく関係して来る。

 

旧約のエノクは、意味があって、妥当性があって携挙された。

 

同じように、世の終わりの時に、エノクと同じように携挙される人達というのは、意味があり、妥当性があって、理由があって、携挙される。

 

最も大事な、携挙されるポイントは、神に喜ばれる事。

 

主に喜ばれる歩みをしていると徐々に手ごたえが出て来る。  その先には携挙がある。

 

しかし、最終的には、神が決める事であって、我々の決める事ではない。

 

正しく歩んでいくなら、昨日よりも今日、今日よりも明日。すると、神に喜ばれる歩みに近づく。  しかし、今日も聞かない、明日も行わないという歩みでは、離れて行ってしまう。

 

なので、エノクの歩みは一日にしてなるものではない。

 

世の終わりには、大勢、エノクのような人が出て来る。

 

ポイントは、神に喜ばれる歩みをしていくこと。

 

 

 

11:6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 

 

 

キリスト教の強調点は「信仰」

 

これは万人に共通であり、旧約の時代も新約の時代も同じ。

 

我々は、見えなくとも、主が語られたなら、その事は成るという事に固く立って行く。

 

どの様な事も基本は信仰。目に見えない事を信じて行く。この世の人は見なければ信じないが、クリスチャンはそうであってはいけない。

 

 

 

11:7信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

 

 

 

ノアの事柄から学ぶべき事柄は、まだ見てない事柄について、神から警告を受けた時、その警告を無視せずに、なすべき、主に言われた事柄を実行した。

 

これは、我々も大いに学ぶべき時がある。

 

我々も、まさに同じように、世の終わりの時は、ロトの時、ノアの時と言われているので、ノアの時の再現みたいな時がある。ノアは、「これから大洪水が起きる」と言われた。

 

今は、今となっては、大洪水の後なので、高い山の上にも、魚とか、貝の化石がある。

 

洪水は全世界を覆った。  「神が言われたなら成る」という事を恐れかしこんで、終末の時に

 

なすべきことをなした。

 

そういう意味では、レムナントも似たような奉仕をしている。

 

これから起きて来る、全世界を覆うような災い、また、キリスト教会、全世界のキリスト教会の、宮の崩壊、キリスト教会の土台石である、使徒の教えだとか、隅のかしら石であるキリストの教えだとかが、ひっくり返され、一つの石も残らない時が来ると言われている。

 

それを信じる。  信仰の目をもってこの事を見、確信を持って、警告をなしている。

 

そこが尊い。物事(3.11など)が起きた後言っても、あまりえらくはない。

 

物事が起こる前に言っている、そこにポイントがある。まだ起きてない内に言うときちがい扱いされたり、相手にされなかったりする。そこが困難かもしれないが、この働きに携わって行く我々の「証言」「証人」になる。これが我々が裁きの座に立った時、我々を助ける証言になる。

 

この7節にはノアに関連して箱舟という言葉が出て来る。

 

英語でアーク。

 

「箱舟」という言葉は、同じ言語が、他の箇所で、他の意味合いで使われている。

 

 

 

へブル書

 

9:4そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。

 

 

 

ここで書いてある契約の箱。  ここを原語ギリシャ語で読むと、同じ言葉で書かれている。

 

聖書は神の力によってか書かれたものであって、偶然はあり得ない。

 

もし、見る目があり、聞く耳があるなら、これを通して、神様が語っている意味合いがある。

 

ノアが(ノアの日は終末の型)箱舟を通して脱出したという事は、隠された意味があると理解する。 どのように理解するかというと、思いつきではダメ。 実際に同じ言葉が、別の所で使われている、実際に神様がそう書かれた。あらゆる言葉は神様の選びであるから。

 

ここで同じ言語が使われているという事は、意味合いがある。

 

言わんとしている事、理解できる事というのは、ノアが、一生懸命、洪水に備えるために箱舟を造った。それは、契約の箱に通じる。

 

契約の箱は、神の臨在。

 

言わんとしている事柄は、この様に理解できる。

 

もう一つ、ノアの洪水は、世の終わりの時に再現される。

 

しかしこれは、文字通りの水が、世界を水没させるわけではない。

 

これは、霊的な意味合いで再現する。

 

つまり、ノアの日の洪水は、霊の洪水である。

 

それを裏付けるかのように、あらゆる、おかしなリバイバル、ベニーヒン、ビルハモンなど、いろんな訳の分からない器、変な霊を下す器が、全世界の教会に広がって来ている。

 

これは、ノアの洪水の再現である。

 

洪水の時、それがやって来るので、ノアは箱舟を造った。それをもって家族の救いのために箱舟を造った。これは、一家の家族を救うため。

 

今で言うなら、神の家の家族、自分の教会のクリスチャンの救いのために、箱舟を造ったと言える。

 

契約の箱、即ち神の臨在と、箱舟は同じもの。

 

言わんとしている事は、聖霊の臨在だという事。

 

別の言葉で言うと、例えば、賢い乙女、愚かな乙女。ポイントは、聖霊。

 

賢い乙女は、油を、つまり聖霊の臨在を用意していたが、愚かな乙女は、油、聖霊の臨在をを用意していなかった。

 

そこが、大きな違いとなって行く。

 

これから、なぜ、悪いリバイバル、おかしな霊に惑わされて行く人がいるか、そのポイントははっきりしている。  それは、その人が契約の箱を持っていないから、神の臨在を持っていないから、変な霊に惑わされたりする。

 

神がおられない、つまり、部屋が掃除してあって誰も住んでいないという状態。

 

だから7つの悪霊が来て、やられてしまう。

 

これからの世の終わりの、大きなポイントというのは、これから、ノアの時のような洪水が来る。(霊的な)

 

その時に、本当に、ノアのように、救いを求めて行くならば、箱舟を造る、具体的には、契約の箱を作る、そういった事に、力を集中していく。

 

具体的に言うと、祈りの中で、神の臨在を確立していくということ。

 

おかしな霊を見分けるには、毎日、祈りにおいて聖霊に触れる。

 

銀行に喩えるなら、偽札を見分けるには、毎日本物のお札に触れること。そうすれば、いざ偽札があった時に違和感を感じ、見分ける事が出来るようになる。

 

つまり、聖霊に触れていないと、悪霊に惑わされるという事。

 

ろくに祈っていない人、聖霊に触れていない人は、みんなやられて行ってしまう。

 

これから、箱舟を造る事が大きなキーポイントになって来る。

 

箱舟を造った人が、ノアの時に、箱舟を通して、家族の救いを得る事が出来た。

 

これは型である。

 

霊の、悪霊の大洪水が来るし、トロント、ペンサコーラなど、そのはしりは来始めている。

 

その時に大事なのは、箱舟を造る事。

 

 

 

11:8信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

 

 

 

召しを受けた時に、どこへ行くか知らないで出て行った。

 

ここにポイントがある。

 

召しというのはイエス様が、ペテロやヨハネを呼んだ時の召しと同じ。

 

同じ言葉が使われている。  声をかけるのと同じ意味合い。

 

その時、アブラハムは、自分がどこへ行くかを知らない。

 

レムナントの働きも同じ。

 

我々が召しに応じた時、自分がこの召しに応じて、最終的にどういう奉仕に就くかは分からない。  それでも従って行くかというポイントがある。

 

そのようにして召しを受けていった人が、相続財産を受ける。

 

召しに応じた人々が、天における相続財産、受け継ぐ地を受ける。

 

 

 

11:9信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました

 

 

 

ここではポイントが2つある。

 

一つは、他国人の様にして住むという事。旅人や寄留者の様にして住む。

 

そういう意味では、クリスチャンの歩みは旅人や寄留者のような歩みであって、この世の全く定住者になってはいけない。

 

我々が、ポイントとなる歩みはアブラハムの歩み。

 

今のキリスト教会は、どんどん背教に向かっているが、今のキリスト教会のトレンドというのは、地に住まわせて行く、この世のものをどんどん取り込ませる。

 

キリスト教界の流行にはよくよく注意。  吟味したうえで良いものならいいが、新しいものに何でも飛びつくのは危険。

 

:パーパスドリブンチャーチ。また、ゴスペルシンガーがこの世の曲をカバーするなど。また、イレズミ。そのようにして、この世的なものがどんどん教会に入って来る。

 

これらを離れる事が、寄留者の旅人。

 

もう一つのポイントは、イサクや、ヤコブと共に、アブラハムは天幕生活をしたという事。

 

天幕。これは、旧約聖書に書いてある「幕屋」と同じ言葉。

 

幕屋は神が臨在する所。そういう意味合いでは、先ほどの箱舟に通ずる。

 

神の臨在の中で生活してきたという事。

 

そして彼は、入るべき天の都へ入って行った。

 

あくまでも、どの箇所もこの箇所も、神の臨在にある歩みという事を語っている。

 

これは隠れた御国の奥義だったりする。

 

今日の箇所の一つのポイントは、エノクの様に、または、洪水の中で唯一守られたノアの様に、

 

または、入るべき御国を受け継いだアブラハム、イサク、ヤコブの様に、どれも、聖霊の臨在と共に歩むというところに、実はポイントが来ている。

 

特にノアの事は覚えておくこと。 旧約聖書のノアの事はだてに書いてある事ではない。

 

我々の目が本当に見えるのであれば、世界のキリスト教会が大洪水(霊的な)に襲われつつある

 

という事を見ると思う。全く見えなければ盲目である。

 

洪水の中に巻き込まれた人は命を失う。動物でも植物でも。

 

唯一、箱舟を造った人は、命を得る。

 

聖霊の臨在によって歩むという事が、命を救う。それは、箱舟を造るという意味合いで、その事は明らかに聖書の中で暗示されているので、このポイントは覚えておく。

 

 

 

11:10彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。