へブル書11:3240                   2014.10.12

 

 

 

11:32これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。

 

11:33彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、

 

11:34火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。

 

 

 

この中で、「剣の刃をのがれ」という箇所を見ていきたい。

 

剣というのは人の命を追う物であるが、そこから信仰をもって、絶体絶命の危機から免れた。

 

それをもって、剣の刃を逃れたという事が出来る。

 

まさにダビデがそうではないだろうか。彼は、主が助けて下さるという信仰を持って歩んだ時に、危機一髪の時はあったが、剣の刃を逃れ、命を得る事が出来た。

 

今の時代の我々は、刀を持って敵と戦うわけではない。

 

「剣の刃を免れる」という言葉には意味合いがある。

 

信仰を持って歩んでいく時に剣の刃を免れる。

 

剣は、御言葉や教理に関しての喩え。

 

今の時代では、まさに多くのクリスチャンが、剣の虜、犠牲になっている、剣の刃にたおされている。教理によって倒されている時代。そのような時代でも我々が信仰を持って、歩み出して、主が言われた歩みに入って行くなら、剣を免れる。

 

今は、多くのクリスチャンが、剣の刃に倒されている時代。

 

例えばカトリックでは「地獄は無い」という事になっている。そんな教理が普通になっている。

 

全く剣にやられてしまっている。

 

イエス・キリストを信じる事に救いがあるのに、マリアの方を拝み、そちらの方に力が入っている。  祈りが他の方に引っ張られて行く。イエス様はマリアに対し、「女の方。あなたと私に何の関わりがあるのか」と言われた。  遠い将来のマリア礼拝を見越して言われたのである。

 

剣の刃にカトリックの人々がやられている。

 

プロテスタントの人々も例外ではない。「艱難前携挙」という剣の刃にやられている。

 

インチキなものを掴んだりしていて、終末の教理が滅茶苦茶になっている。

 

聖書が与える警告が、警告になっていない。

 

しかし、信仰を持って歩みだす時に、剣の刃を免れるというのが聖書の教え。

 

レムナントも、主の憐みによって、剣の刃を逃れる事が出来た。

 

これも信仰の歩みによる。

 

剣の刃を免れるのは信仰。   信仰を持って歩み出したら、あらゆる啓示が開かれる。

 

主が啓示して下さるとか、教えて下さるという信仰。すると、おかしな教理とか、剣の刃に倒されたりしない。これも信仰の歩み。

 

「弱い者なのに強くされ」とある。

 

弱い者なのに強くされた人は、ギデオン。

 

ギデオンは生まれつきは臆病な人。神はギデオンに話しかけられた時に「勇士よ」と呼びかけている。口語訳では「大勇士」。

 

神の方法というのは、人とは違う。

 

我々は、どんな事でも生まれつきの力、勇気のある人、能力のある人などがいるが、神の方法は違う。信仰によって、弱いものが強くされる。信仰によって立ち上がって行く、そんなところに、弱い者が強くされるというところにポイントがある。

 

蛇やさそりを踏みつける。

 

神は強いものを用いるとは限らない。

 

弱いけれども、信仰を持って歩んで行く。主の勝利を得る。弱い者が強くされるというところにポイントがある。

 

 

 

11:35女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。

 

 

 

死人に甦りが与えられる。文字通りの甦りもあるかもしれないが、喩えの意味合いでも、罪によって死んだ者も、主によって甦る。

 

信仰を持って、釈放を願わない事もある。

 

 

 

11:36また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、

 

11:37また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、

 

11:38――この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。――荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。

 

11:39この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。

 

 

 

へブル書の記述をもって分かる事は、信仰を持って、この世において勝利を得たり、敵を倒すとか、甦るというような目に見える形でこの世で勝利を得るということはある。

 

しかし、信仰によって、この世では報われず、逆に命を失ったり、またね迫害を受けたり、嘲られたりなどもあり得る。

 

大事な事は、「この人々はみな、その信仰によってあかしされました」このポイント。

 

「信仰によってあかしされた」とは、「証言を受ける事が出来た」という事。

 

「人は、一度死ぬ事と、死んだ後に裁きを受けるという事が定まっている」と言っているように、我々は、証言が必要。

 

同じように、我々は、クリスチャン人生において、輝かしい勝利を得たり、すごいわざを見るかもしれない。これも、信仰の証言であり、我々もいつか裁きの座に立った時に、証人、証言となる。しかし、その反面、キリストのゆえに、主に従ったために、嘲られたり、鞭で打たれたり、牢に入れられたり、ひどい目に遭う。旧約の預言者は例外なくひどい目に遭っていた。

 

理解しなければいけない事は、只々、この世で苦難を受けたり、嘲られたり、それで一生涯終わりに、それが、我々が主の前に立った時、証言になるという事。

 

苦難は無駄にならず、ポイントになる。

 

「――この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。――」と書いてある。

 

この世は、正しく歩む人にはふさわしくない、という事がここで書かれている。

 

クリスチャンでもいろんな事をいう人がいる。

 

ある人は、キリストの名において正しい事を語り、ある人はキリストの名を語って違う事を言う。正しいのは神のみ言葉。

 

我々が聖書から見る限り、本当に、名目ではなく、本当にこの時代に主の働きを担って、神の国に入るべき歩みをする時に、残念ながら、殆ど例外なく迫害に遭ったり、大変な目に遭うというのは、ある意味では、一つのパターン。

 

 

 

使徒

 

14:22弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。

 

 

 

ここでパウロは明言している。

 

神の国に入るのと、多くの苦しみを受けるのはセット。

 

そういう意味では、例外はない。イエス様の生涯もそうだった。パウロも。

 

我々は、この世に関して、思いをはっきり定めなければならない。

 

「この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。」と書いてあるように、我々は、この世と一致しない。

 

この世の望むような者ではないし、この世が嫌うようなことを語っている。

 

この世で歓迎される事はあり得ない。

 

我々は、この世に定住するように召されているわけではなく、アブラハム、イサク、ヤコブが

 

天幕生活をして、永遠の都を目指していたと言っているように、我々もアブラハムの子孫なので、我々もこの地においても、天幕生活、テント生活、仮小屋の生活をして、そして、入るべき所を目指して行く、という心構えで行くのが正しい。

 

逆に下手にこの世に迎合したり、合わせようとするとジレンマを感じる。

 

我々は、この世は、我々にとってふさわしい所ではないという事に関しては、正しい認識を持つべき。

 

 

 

11:39この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。

 

 

 

その信仰によって「あかし」とあるが、「あかし」とは、証人、証言の事。

 

その証言がいざ裁きの座に立った時、サポートしてくれる。

 

 

 

11:40神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。

 

 

 

彼ら = 旧約の民   私たち = 新約の民

 

新約の事柄と旧約の事柄に関して、区分のように書いてあるが、そこで言える事は、神は旧約の人達、アブラハム、イサク、ヤコブに対して、恵みが無かったわけではないが、新約の我々は、旧約の人々に比べれば、さらにすぐれたものを受けている。

 

実際、新約の時代に、イエス・キリストは来られた。

 

また、マタイ、マルコ、ルカなどの新約の書簡の中に、信仰による義認だとか、必要な教理が教えられているので、すぐれたもの。そういう意味では、旧約の人々も、新約の人と同じような恵みに与って初めて、それをもって、全うされるという事柄がある。

 

旧約聖書と新約聖書とのかかわり。

 

旧約聖書というのは、それはそれで必要な大事な事を教えているが、新約と合わさって初めて完全になって、大事な事が見えて来る。

 

旧約聖書の人々は、文字通り仮庵の祭を祝った。

 

仮庵の祭は地下教会の事だが、これは旧約だけ見ても分からない。

 

イエス様は「屋上にいる者は、家の物を持ち出そうとして下に降りて来てはいけない。」と言われた。仮庵の祭を前提として言っている。これは、世の終わりの時に地下教会、仮庵に留まれという事に関しての教え。  これは、旧約だけでは分からないし、新約だけでも分からない。  両方合わさって初めて完全になって、いろんなものが見えて来る。

 

そういうパターンがいくつもある。

 

707という表現がある。ダニエルの70週がそうである。

 

バビロン捕囚から回復されるのが70週が与えられていると書いてあるが、これは、正確に原語の意味合いで言うと、707 。 これは、旧約聖書を読んだだけでは分からない。

 

しかし、新約聖書を読む時に、「兄弟を何回赦すべきですか? 7度を70倍にするまで赦しなさい。」と主は言われた。7度の70倍は神が兄弟の罪を赦し続ける期間。しかしそれを越えると神の怒りが爆発する。裁きの時に入る、という意味合い。

 

旧約と新約は、片方だけでは完全ではない。どちらも補い合って初めて見えて来る。

 

今の時代のキリスト教会の現状を言うと、どんなクリスチャンでも牧師でも、聞けば、旧約聖書は意味がないという風潮が長い。旧約聖書をまともにメッセージしなかったりしている。

 

それは良くない事。

 

新約聖書の本当の意味合いというのも、旧約聖書を読んでいく時に、初めて見えて来る。

 

両方合わせて初めて完全になる。そういった事柄を正しくとらえて行きたい。